兄からの警告



 突然訪れた兄を、ディートリヒシュタインは、私室に通した。


 ディートリヒシュタイン家の家長たるこの兄を、弟は、尊敬していた。だから、7月革命で、フランスの王座が空位となった時、真っ先に相談した。


 ディートリヒシュタイン家庭教師は、プリンス教え子を、フランス王位に就けたかった。だが、まだその時期ではないというのが、兄の意見だった。

 結果的に、兄は正しかったと、ディートリヒシュタインは思う。


 ……フランス国民は、新しい王が欲しいわけではない。

 ……生活の安定が欲しかっただけだ。

 それは、今のルイ・フィリップの不人気ぶりを見ても、明らかだ。


 また、プリンス教え子にナポレオンの姪が接触した時も、真っ先に相談した。兄は、穏やかにプリンスを諭し、プリンスも真剣に、兄の話を聞いていた。

 何事もなく、エリザ・ナポレオーネは去り、プリンスは今も、ディートリヒシュタインの手元にいる。




 季節はもう、春だった。

 プリンスは、シェーンブルンに行っていた。アントン大公(皇帝の弟)が手塩にかけて育てた、ポピーの花の鑑賞会に、駆り出されたのだ。



 「悪い噂を聞いた」

上着も脱がずに、兄は言った。

「お前に関する悪意ある噂だ」

「どういう噂ですか?」


 宮廷劇場に関する噂かと、ディートリヒシュタインは思った。彼は、宮廷劇場の支配人もしている。演劇関係には、血の気の多い者が多い。


 ディートリヒシュタインは、まじめに、謹厳に、仕事に励んでいた。不正など、爪の垢ほども犯していない。

 何を言われても、平気なつもりだった。


 だが、兄の言葉は、意外なものだった。

「お前が、ライヒシュタット公を、意のままに操っている、というのだ。家庭教師の立場を利用して、皇帝の采配にさえ、口を出している、と」


「なんですって!」

憤激のあまり、急激に、頭に血が上った。

「プリンスは、しっかりとした御自分というものをお持ちです。家庭教師といえど、むざむざ人に、操られたりするものですか!」


 虚を衝かれたような顔で、兄は弟を見た。

 その目に、微かに、笑みが含まれていた。

 だが、すぐに真剣な光が取って代わる。


「今は未だ、それほどあちこちで囁かれているわけではない。だが、この手の噂は、すぐに広がっていく。それも、ありもしない尾ひれをたくさんつけて。気をつけろ、モーリツ。これは、罠だ」

「……罠」

「お前を嵌めようとしている」

「いったい、誰が!」


 ディートリヒシュタインは、いつだって、正しい道を歩んできた。それはつまり、自分に対して厳しかったということだ。彼には、人から恨まれるような覚えはない。

 兄は、首を横に振った。


「恐らくは、プリンスが、お前を信用していることを知る者だ。さもなければ、こういう話にはならない」

「……」


 兄と弟の頭に、同時に、ある人物の顔が浮かんだ。

 この国で最も権力を持つ者。

 最近、その力に、陰りが出てきた者。

 そして、プリンスを憎んでいる者……。


「気をつけろ、モーリツ」

兄は繰り返した。




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