エステルハージ家のドラ息子
動き出した馬車が、急に止まった。
キャリッジのドアが開き、細身の男がするりと入り込んできた。
「モル男爵!」
一人、馬車に乗っていたモーリツ・エステルハージは、少し、驚いた。
「プリンスなら、ちゃんとホーフブルク宮殿まで送り返したぞ。僕はこれから屋敷に寝に帰るんだ」
だが、相手は、一向に、馬車を降りようとしない。
「モル男爵?」
「モル? 何言ってんだ、この放蕩貴族が! 俺の顔を見忘れたか!」
外から漏れる僅かな月明かり(というか、殆どそれは、朝日だった)の下へ、男は、ぐいと顔を突き出した。
「……アシュラ!」
「ふん。覚えていたか」
「アシュラ! お前、死んだはずじゃなかったのか!」
「どうして、どいつもこいつも、人を死なせたがるんだ?」
アシュラは嘆いた。
「生きていたよ、残念だったな」
「アシュラ! 会えて嬉しい!」
モーリツは、アシュラに抱きついた。
抱きついたままで、顔のあちこちにキスの雨を降らせる。
「何をする! 離せ! こら! 気持ち悪い真似をするな!!」
「いやあ、すまんすまん。あんまり感激したもんで。だってお前、いなくなってから、もうすぐ、1年になるんだぞ……」
「本当は、もうちょっと前に帰ってたんだ。さっきあんたの言ってたモル? そいつになりすまして、時折、入れ替わってた。本人の知らない間に」
「……よく似ている」
少し離れてその全身を見回し、感心したように、モーリツは言った。
「体つきとか、髪の色とか。そうか。モルはお前に似てたんだな」
アシュラは、不満そうな顔になった。
「近くで見たら、全然違うだろ。俺は、あそこまで優男じゃない」
「うん、そうだな。お前のほうが、全然ふてぶてしい。それにしても、なんだって、変装なんか……。殿下は、お前が帰ってきていることを知っているのか? 今まで、どこにいた!」
「質問はひとつずつにしてくれないかな」
「答えろ!」
モーリツがにじり寄ると、アシュラはため息をついた。
「殿下はご存知だ。だが、俺がいつ、モルとすり替わっているかまでは、把握しておられない。俺が話しかけるまで。入れ替わっても、気がつかないプリンスも、たいがいだが」
「モルは、慎み深いからな。お前と違って。いつも少し離れたところから、プリンスを見守っている」
「だから、遠慮なく、利用させてもらった」
「それで、今までどこに?」
「イタリア、フランス、ポーランドを回ってきた。だが、
モーリツは絶句した。
その彼に、アシュラは、メッテルニヒが、彼を召喚したがっている事実を話した。
上司のノエの警告と、退職も。
「なるほど。メッテルニヒか」
モーリツは唸った。
「なるほど」
「何か心当たりがあるのか?」
「いや? 特にないが」
「……」
アシュラは肩を竦めた。すぐに真顔になる。
「いやな中傷を聞いた。
ウィーン秘密警察の同僚から得た情報だという。彼の帰国は内緒だから、信頼できる同僚から、こっそり聞き出したと、アシュラは語った。
モーリツは呆れた。
「胸の病の原因が、女遊び? なんだそりゃ」
「あんたのせいだぞ、モーリツ・エステルハージ。あんたと、グスタフ・ナイペルクのせいだ。二人して、プリンスをあちこち、引き回したろう。フランス大使は、あんたらの女遊びと、彼のブルノへの赴任が遅れていることを、足して2で割ったんだ」
「すごい計算だ」
「プリンスに謝れ」
「グスタフは、そうすべきだろうな。人気女優に花を贈るなんて、目立ちすぎだ。だが、僕のは違うぞ。プリンスは、今、恋をしている」
「こーーーいーーーー?」
アシュラは、馬鹿にしきった顔をしている。
モーリツはむっとした。
「チャイナ・マンは、善良な女性だ」
「チャイナ・マン?」
「うん。僕ら二人の間で、彼女を表す符丁だ。……僕と、プリンスの間で。彼女の爪は、中国風に整えているんだそうだ。プリンスが直接、彼女から聞き出した。彼はひどく感激して、今、自分の爪も……」
「あんたが、彼に、ナンディーヌ・カロリィという令嬢を紹介したことは、知っている。しきりと、仲を取り持っていることも」
「彼は、恋を知るべきなんだ」
「別にそれに、異論はない。だが、諸外国に、恥をさらすのは、どうかと思うぞ」
「恥?」
モーリツは、にやりと笑った。
「つまり、僕は、成功したということだな」
アシュラは怒り狂った。
「ヨーロッパに、プリンスの悪い噂を振りまくことが、なんで成功だ! モーリツ! お前、自分から進んで、彼の友達になったんだろう? いつの間にそんな、悪辣非道なことを……」
「佯狂だよ」
ぼそりと、モーリツは言った。
「佯狂?」
「愚か者を偽ることだ。お前が命を狙われているのなら、アシュラ。本命は、プリンスだ。彼は、前にも、毒を盛られたことがあったろう?」
「……あった」
「プリンスは、すでに、おとなだ。自分の意思を持っている。あの頃とは比べ物にならない危険に、彼は晒されていると思わないか?」
ヒ素を塗られた緑の皿の件があった時、アシュラと一緒に、あちこち、駆け回ったのは、モーリツだった。彼は、カール大公のところにまで、善後策を練りに行った。
「お前はまた、そばで、彼を見守っているんだろう。だが、僕は、僕のやり方で、彼を守りたい。……女遊びの噂が立てば、彼をどこぞの国の王へ、なんて声も減るだろう。ヨーロッパの目は彼から離れ、彼の身は、安全に保たれるはずだ」
「……殿下はそれを、わかっているのか?」
アシュラの質問に、モーリツは答えなかった。代わりに、彼は言った。
「前にね。僕は、グスタフに言ったことがある。
……友情は、双方向とは限らない。それを僕は、献身と呼ぶ」
(※7章「それを僕は献身と呼ぶ」参照下さい)
「友情じゃないのか?」
「ああ、アシュラ! 僕は、その器じゃないんだよ! 僕は、彼の友情に値しない……だって僕は、地の果てまで、彼についていくことができない! ナポレオンの息子のあとに!」
「ついて行けばいいじゃないか。自分を卑下するなんて、あんたらしくない」
「卑下じゃない! 本家ではないが、僕は、エステルハージ家の長男だ。ナンディーヌのカロリィ家もそうだが、ハンガリー貴族なんだよ。ハンガリーは今、オーストリアの下に組み込まれている。僕らハンガリー貴族は、ハプスブルク家に、忠誠を誓ったんだ!」
東ヨーロッパに位置する、マジャール人の王国、ハンガリー。アジアと境界を接するこの国は、過去、モンゴルやオスマン・トルコの侵入に苦しめられてきた。
オスマン・トルコと戦い、最終的にその全土を挽回したのは、ハプスブルク家のオーストリアである。1699年のカルロヴィッツ条約で、オーストリアは、オスマン・トルコを退け、ハンガリーの全域を手に入れた。
ハンガリーは、今、オーストリアの支配下にある。
「こんなことを言うと、お前は馬鹿にするかも知れないが……僕には、父もいる。母もいる。エステルハージの家も、ハンガリーという故郷もある。守らなければならないものが、多すぎるんだ。ダメだ。僕は、彼についてはいけない」
「馬鹿になんかするもんか」
アシュラは言った。
「ただ……」
「ただ?」
「妬ましいな」
「妬ましい? 僕にはお前のほうが、ずっとうらやましいぞ。だって、お前は、どこまでも、殿下についていける……」
「親に疎まれたからだ。そして、恋を受け容れてもらえず、世界にたった一人だから」
「ん? アシュラ、お前、そんな寂しいやつだったっけ? 確かお前には、レオポルシュタット辺りに、かわいい恋人がいたはず……」
「ふられたよ」
いっそすがすがしい声で、アシュラは答えた。
「プリンスに取られた」
「プリンスに? まさか! たしかに一時、彼には、町娘と噂が立ったことがあったが、あれは、根も葉もない噂で……」
「そうだ。根も葉もない。安心しろ。俺は、プリンスについていく。モーリツ。あんたの分もな」
「頼んだ。殿下は、プロケシュ少佐を親友だと思っているが、少佐は、イタリアへ行っちゃったし」
「ああ。そのようだな」
「年上だし、広い目で物事を見ることのできるひとだったよ、プロケシュ少佐は。でも、なぜかな。僕には、お前の方が、信頼できる。お前が、いい加減で、けっこうな遊び人だからかな」
「あんたと一緒にするなよ」
アシュラは凄んだ。
少し、表情を和らげる。
「確かにプロケシュ少佐は、大事な友人かもしれないが……でも、あんただって、プリンスの友達だ。彼は、あんたが思っている以上に、あんたのことが、好きなんだよ。ある意味、プロケシュ少佐よりも、彼は、あんたのことが好きだ」
「だって、努力したもの」
泣き笑いの表情を、モーリツは浮かべた。
「共通の話題を。一緒に楽しめる時間を。それを、僕は、必死に探した」
「それがあの、ナンディーヌ・カロリィ嬢か?」
「わかってるじゃないか。だが、僕は、決して彼女を利用したわけじゃない。これは、プリンスの、自由恋愛だ」
「彼に、失恋させるなよ」
「それはわからない。さっきも言ったように、僕は、彼女を利用したわけじゃないから。でも、もし彼が失恋したら、また、次を探すさ」
「……他にないのかよ」
「生憎だね。僕にはこれしかない」
「あんたは、わかってないな。彼は、女が欲しいんじゃない。恋とかいう、曖昧なものを必要としているわけでもない。俺が見たところ、彼は、あんたと一緒に、何かを企むことが、楽しくて仕方がないんだ」
「光栄だ」
モーリツは、くしゃりと顔を歪めた。
「それはとても、光栄だ」
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