愛する恋人を失ったような悲しみ


 メッテルニヒは、ライヒシュタット公の、プロケシュ少佐を呼び出した。


 ナポレオンの息子の様子を探ろうと、いつものように四方山話をしていると、プロケシュの方から、尋ねてきた。

 「宰相。あのお話は、どうなりましたか?」

さりげない口調だった。


「あの話?」

「短期間で結構です。私は、フランスへ行きたいと思います」

「……」


 とんでもない話だった。

 ……そんなことをしたら、フランスのボナパルニスト達と手を結ぶのは、目に見えている!


 メッテルニヒは、目の前の若い男を見下ろした。

 プロケシュは、いかにも、下心なさそうな顔をしている。


 ……一度、却下したはずだが。

 ……さては、ゲンツか。あやつ秘書官長が、もう一度、ねばってみろと、入れ知恵したんだな。

 腹心だった秘書官長が離れていく気配を、メッテルニヒは感じた。

 かつては、メッテルニヒの懐刀だった、筆の立つ男……ゲンツについても、手を打たねばならない時が来ているのかもしれない。



 「考えておこう」

もちろん、今回も却下に決まっている。




 ……つまりは、プロケシュも、信頼できなくなったということだ。

 プロケシュの退出した後、メッテルニヒは考えた。

 ……さすがは、ナポレオンの息子。人を籠絡する術に長けている。


 春になれば、皇帝は孫を、ブルノの駐屯地へやるつもりでいる。ライヒシュタット公は、プロケシュ少佐を副官として、連れていくだろう。すでに、有力な将校に根回しを始めたと、メッテルニヒの耳にも入ってきていた。


 ……ナポレオンの息子が、手の届かないところへ行ってしまう。

 ……何をするかわからない青年が、信頼できる、有能な副官を伴って。


 早急に手を打つ必要があると、メッテルニヒは感じた。







 皇帝は、執務室にいた。

 書類に向かって屈み込み、細かな字で、熱心に何か書き込んでいる。

 ……皇帝は、何をお考えなんだろう。

 孜々として事務仕事に励む皇帝の、手が空くのを待ちながら、メッテルニヒは、去年の夏に、思いを巡らした……。



 ……。


 「最終的には、彼を、フランスへ返したいのだ」

フランスでは、7月革命が起き、ルイ・フィリップが王座に就いた。ブルジョワ王制の誕生だ。

「ライヒシュタット公を、ですか?」

 メッテルニヒは問いただした。

 皇帝の孫を通じて、フランスを自由にできるのなら、メッテルニヒとて、否やはなかった。ハプスブルクのやり方は、充分、理解している。

 だが……。


「私には到底、彼が、オーストリアの意のままに動くとは思えません。フランス王などになれば、軍や民の無責任な熱狂のまま、周辺の国々を、次々と戦禍に巻き込んでいくことでしょう。このオーストリアとて、例外ではありません」

「だが、フランツは儂の孫だ。あれは、儂のことを、敬愛してくれている」

「陛下が在命中はいいのです!」


 皇帝は息を飲んだ。

 礼を失したとは思わなかった。メッテルニヒには、言わねばならぬことがあった。

「フェルディナンド大公のことも、お考え下さい。時期皇帝となられる、大公のおかれる境遇を!」


 誰からも愛されるフェルディナンド。

 いずれは、宰相メッテルニヒの傀儡となるはずの……。


 皇帝は首を傾げた。

「君はそう言うが、クレメンス。長男即位は、ハプスブルク家の鉄則だ。フェルディナンドの立場は、盤石のはずだ。去年の9月には、聖イシュトヴァーンの冠ハンガリーの王冠も譲り渡したし、サルディニアから、妃も娶らせたばかりだ」


 オーストリア皇帝は、ハンガリー王も兼ねる。父である皇帝の在命中に、長男フェルディナンドは、ハンガリー王に即位した。


「皇帝。皇帝は、お忘れですか?」

 皇帝にすり寄り、メッテルニヒは囁いた。

「何年か前の宮廷狩猟で起きた出来事を。ライヒシュタット公が……」


 皇帝は、目を見開いた。

「あれは、事故だった。そばで見ている者も大勢いた。故意であることを示す、どんな些細な証拠もなかった。全くの事故だったにも関わらず、フランツは、己の不注意を詫び、それを許したフェルディナンドの徳を、深く讃えた」


「彼は、ナポレオンの息子です」

メッテルニヒは言った。

「お忘れなきよう。彼は、ナポレオンの息子なんです」


 まるで、初めて聞いたとでもいうように、皇帝は、目を丸くした。

 その目のまま、いつまでも、メッテルニヒの顔を見つめていた。


 ……。



 「ところで、陛下。プロケシュ=オースティンを、そろそろ返してほしいのですが」

一通り、その日の報告が済むと、メッテルニヒは口にした。

「返してほしいとは?」

細かな虫が這っているように、びっしりと書き込まれた書類を、皇帝は片付けた。怪訝そうな顔をしている。


「おや。ご存知なかったのですか? プロケシュは、ライヒシュタット公のところに、足繁く通っております。二人で軍務の話に興じているようです」

「そうだったのか」

「はい。ですが、プロケシュは、優秀な外交官です。そろそろ、本来の仕事をさせねばなりません」

「そういうことなら、外交の仕事に戻すがよい。あれも、聞き分けるであろう」


 副官の話は、ライヒシュタット公と、プロケシュの間の、秘密の約束だ。皇帝は、何も知らない。

 皇帝は、孫がわがままで、優秀な人材を独り占めしていると、誤解したようだった。

 念の為、メッテルニヒは、もうひと押し、することにした。


「若く有能な人物は、時に、誇大な妄想に浸る危険があります。中東での経験が長いプロケシュは、ライヒシュタット公の胸に、およそ現実味のない、空虚な夢を吹き込む危険があります」

「それはよくないな」

皇帝は眉を顰めた。

「早急に、その、プロケシュという人物を、本来の職務に戻すがよい」

「御意」

メッテルニヒは、頭を下げた。



 ……だが、ナポレオンの息子には、彼にふさわしい人材を、すでにくれてやったからな。

 整ったモル男爵の顔と、しなやかな、均整の取れた体つきを思い浮かべる。

 ……ナポレオンの息子は、プロケシュ少佐の手を、握りしめたという。

 ……モルなら、きっと、彼の気にいるだろう。


 大事な「親友」を取り上げる代償に。

 我ながら、なんと気前の良い采配だったろうと、メッテルニヒはほくそ笑んだ。







 3月の終盤に差し掛かった頃。

 プロケシュ=オースティン少佐に、ボローニャ(イタリアの都市)への異動命令が下った。教皇庁への大使への辞令だ。

 まずは、栄転といえた。




 拒絶することは、できなかった。

 プロケシュは、オーストリアの軍人だ。

 この身分がなくなれば、もう二度と、プリンスには近づけなくなる。

 ひとまずボローニャへ行き……時を待つしかない。




 お別れの前日、フランソワは手紙を書いた。




 こんなに長いお別れは、私達の友情が始まって以来、初めてのことです。


 疑いもなく、私達が再び会う前に、大きな変革が、始まるでしょう。しかし、きっと、私が未来への重い義務に備えているうちに、時は飛び去ってしまう……そんな気がします。


 あなたがいなくなってしまったら、時は、ただ流れていくだけです。私の前には、つまらない、退屈な義務が続くだけです。


 今、私は、大きな犠牲を払わなければなりません。私の青春の、最も温かい希望を、それがまさに、明るく輝き出そうとする瞬間に、断絶させなければならないのです。


 ですが、感謝と献身の気持ちが、いつだって、私をあなたへと繋ぎ止めておくことでしょう。あなたが辛抱強く、私を導いてくれた軍務の学習が、あなたの誠実さが、あなたの私への信頼が、そして、私達お互いの愛情が、その証です。


 友情は、贈り物という外見上のものには表わせはしません。しかし、内なる価値なら! どうか、この時計を受け取って下さい。6年前、私が初めて、手に入れた時計です。この6年間、いつも、私の傍らで、時を刻んできました。

 この時計がこれから刻む「時」が、あなたにとって、幸福と栄光に満ちた「時」でありますように。


 ですが、それ以上に、どうか、お忘れなきよう。

 あなたは、私に、「時」を有益使えるように、導いてくれた人です。そして、私の人生で初めて、未来の、をつかみとるよう、教え諭して下さった人です。


 もし私が、あなたを私の副官に指名できたとしても、それは、あなたの才能にとって、ふさわしい職ではなかったかもしれません。

 しかし、私と一緒にいて下されば、あなたのような観察者にとって、有益なこともあったと思います。

 あなたはきっと、革命の動きと、人々の強さとの間に、リアルな関連性を見出したことでしょう。そして、今までは到達し得なかった偉大なる力を、私とともに垣間見るという領域に、あなたをお連れできたことと思います。


 私は母に、ちょっとだけ、あなたのことを書き送っておきました。プロケシュ少佐は、いつも、彼を慕う友に、温かい関心をもっていてくれた、と。



    ライヒシュタットより






 家庭教師のディートリヒシュタインも、プロケシュの出立を、残念がった。

 残念というのは、穏やかな表現だった。彼は、このような人事を発令した宰相メッテルニヒに対して、怒り狂っていた。

 プリンスが、永遠の友情を、プロケシュに対して誓っていたのを知っていたからである。







 この注目すべき人は、私の心まで入り込んできた、唯一の人です。

(中略)

 今、私は、愛する恋人を失ったように、悲しみに暮れています。いつの日か、彼が、突然、帰ってくることを、いつも願っています。



 後に、プロケシュがパルマに立ち寄ったと聞いて、ライヒシュタット公はこう、母のマリー・ルイーゼに書き送っている。

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