愛する恋人を失ったような悲しみ
メッテルニヒは、ライヒシュタット公の親友、プロケシュ少佐を呼び出した。
ナポレオンの息子の様子を探ろうと、いつものように四方山話をしていると、プロケシュの方から、尋ねてきた。
「宰相。あのお話は、どうなりましたか?」
さりげない口調だった。
「あの話?」
「短期間で結構です。私は、フランスへ行きたいと思います」
「……」
とんでもない話だった。
……そんなことをしたら、フランスのボナパルニスト達と手を結ぶのは、目に見えている!
メッテルニヒは、目の前の若い男を見下ろした。
プロケシュは、いかにも、下心なさそうな顔をしている。
……一度、却下したはずだが。
……さては、ゲンツか。
腹心だった秘書官長が離れていく気配を、メッテルニヒは感じた。
かつては、メッテルニヒの懐刀だった、筆の立つ男……ゲンツについても、手を打たねばならない時が来ているのかもしれない。
「考えておこう」
もちろん、今回も却下に決まっている。
……つまりは、プロケシュも、信頼できなくなったということだ。
プロケシュの退出した後、メッテルニヒは考えた。
……さすがは、ナポレオンの息子。人を籠絡する術に長けている。
春になれば、皇帝は孫を、ブルノの駐屯地へやるつもりでいる。ライヒシュタット公は、プロケシュ少佐を副官として、連れていくだろう。すでに、有力な将校に根回しを始めたと、メッテルニヒの耳にも入ってきていた。
……ナポレオンの息子が、手の届かないところへ行ってしまう。
……何をするかわからない青年が、信頼できる、有能な副官を伴って。
早急に手を打つ必要があると、メッテルニヒは感じた。
*
皇帝は、執務室にいた。
書類に向かって屈み込み、細かな字で、熱心に何か書き込んでいる。
……皇帝は、何をお考えなんだろう。
孜々として事務仕事に励む皇帝の、手が空くのを待ちながら、メッテルニヒは、去年の夏に、思いを巡らした……。
……。
「最終的には、彼を、フランスへ返したいのだ」
フランスでは、7月革命が起き、ルイ・フィリップが王座に就いた。ブルジョワ王制の誕生だ。
「ライヒシュタット公を、ですか?」
メッテルニヒは問いただした。
皇帝の孫を通じて、フランスを自由にできるのなら、メッテルニヒとて、否やはなかった。ハプスブルクのやり方は、充分、理解している。
だが……。
「私には到底、彼が、オーストリアの意のままに動くとは思えません。フランス王などになれば、軍や民の無責任な熱狂のまま、周辺の国々を、次々と戦禍に巻き込んでいくことでしょう。このオーストリアとて、例外ではありません」
「だが、フランツは儂の孫だ。あれは、儂のことを、敬愛してくれている」
「陛下が在命中はいいのです!」
皇帝は息を飲んだ。
礼を失したとは思わなかった。メッテルニヒには、言わねばならぬことがあった。
「フェルディナンド大公のことも、お考え下さい。時期皇帝となられる、大公のおかれる境遇を!」
誰からも愛されるフェルディナンド。
いずれは、宰相メッテルニヒの傀儡となるはずの……。
皇帝は首を傾げた。
「君はそう言うが、クレメンス。長男即位は、ハプスブルク家の鉄則だ。フェルディナンドの立場は、盤石のはずだ。去年の9月には、
オーストリア皇帝は、ハンガリー王も兼ねる。父である皇帝の在命中に、
「皇帝。皇帝は、お忘れですか?」
皇帝にすり寄り、メッテルニヒは囁いた。
「何年か前の宮廷狩猟で起きた出来事を。ライヒシュタット公が……」
皇帝は、目を見開いた。
「あれは、事故だった。そばで見ている者も大勢いた。故意であることを示す、どんな些細な証拠もなかった。全くの事故だったにも関わらず、フランツは、己の不注意を詫び、それを許したフェルディナンドの徳を、深く讃えた」
「彼は、ナポレオンの息子です」
メッテルニヒは言った。
「お忘れなきよう。彼は、ナポレオンの息子なんです」
まるで、初めて聞いたとでもいうように、皇帝は、目を丸くした。
その目のまま、いつまでも、メッテルニヒの顔を見つめていた。
……。
「ところで、陛下。プロケシュ=オースティンを、そろそろ返してほしいのですが」
一通り、その日の報告が済むと、メッテルニヒは口にした。
「返してほしいとは?」
細かな虫が這っているように、びっしりと書き込まれた書類を、皇帝は片付けた。怪訝そうな顔をしている。
「おや。ご存知なかったのですか? プロケシュは、ライヒシュタット公のところに、足繁く通っております。二人で軍務の話に興じているようです」
「そうだったのか」
「はい。ですが、プロケシュは、優秀な外交官です。そろそろ、本来の仕事をさせねばなりません」
「そういうことなら、外交の仕事に戻すがよい。
副官の話は、ライヒシュタット公と、プロケシュの間の、秘密の約束だ。皇帝は、何も知らない。
皇帝は、孫がわがままで、優秀な人材を独り占めしていると、誤解したようだった。
念の為、メッテルニヒは、もうひと押し、することにした。
「若く有能な人物は、時に、誇大な妄想に浸る危険があります。中東での経験が長いプロケシュは、ライヒシュタット公の胸に、およそ現実味のない、空虚な夢を吹き込む危険があります」
「それはよくないな」
皇帝は眉を顰めた。
「早急に、その、プロケシュという人物を、本来の職務に戻すがよい」
「御意」
メッテルニヒは、頭を下げた。
……だが、ナポレオンの息子には、彼にふさわしい人材を、すでにくれてやったからな。
整ったモル男爵の顔と、しなやかな、均整の取れた体つきを思い浮かべる。
……ナポレオンの息子は、プロケシュ少佐の手を、握りしめたという。
……モルなら、きっと、彼の気にいるだろう。
大事な「親友」を取り上げる代償に。
我ながら、なんと気前の良い采配だったろうと、メッテルニヒはほくそ笑んだ。
*
3月の終盤に差し掛かった頃。
プロケシュ=オースティン少佐に、ボローニャ(イタリアの都市)への異動命令が下った。教皇庁への大使への辞令だ。
まずは、栄転といえた。
拒絶することは、できなかった。
プロケシュは、オーストリアの軍人だ。
この身分がなくなれば、もう二度と、プリンスには近づけなくなる。
ひとまずボローニャへ行き……時を待つしかない。
お別れの前日、フランソワは手紙を書いた。
「
こんなに長いお別れは、私達の友情が始まって以来、初めてのことです。
疑いもなく、私達が再び会う前に、大きな変革が、始まるでしょう。しかし、きっと、私が未来への重い義務に備えているうちに、時は飛び去ってしまう……そんな気がします。
あなたがいなくなってしまったら、時は、ただ流れていくだけです。私の前には、つまらない、退屈な義務が続くだけです。
今、私は、大きな犠牲を払わなければなりません。私の青春の、最も温かい希望を、それがまさに、明るく輝き出そうとする瞬間に、断絶させなければならないのです。
ですが、感謝と献身の気持ちが、いつだって、私をあなたへと繋ぎ止めておくことでしょう。あなたが辛抱強く、私を導いてくれた軍務の学習が、あなたの誠実さが、あなたの私への信頼が、そして、私達お互いの愛情が、その証です。
友情は、贈り物という外見上のものには表わせはしません。しかし、内なる価値なら! どうか、この時計を受け取って下さい。6年前、私が初めて、手に入れた時計です。この6年間、いつも、私の傍らで、時を刻んできました。
この時計がこれから刻む「時」が、あなたにとって、幸福と栄光に満ちた「時」でありますように。
ですが、それ以上に、どうか、お忘れなきよう。
あなたは、私に、「時」を有益使えるように、導いてくれた人です。そして、私の人生で初めて、未来の、まさにその時をつかみとるよう、教え諭して下さった人です。
もし私が、あなたを私の副官に指名できたとしても、それは、あなたの才能にとって、ふさわしい職ではなかったかもしれません。
しかし、私と一緒にいて下されば、あなたのような観察者にとって、有益なこともあったと思います。
あなたはきっと、革命の動きと、人々の強さとの間に、リアルな関連性を見出したことでしょう。そして、今までは到達し得なかった偉大なる力を、私とともに垣間見るという領域に、あなたをお連れできたことと思います。
私は母に、ちょっとだけ、あなたのことを書き送っておきました。プロケシュ少佐は、いつも、彼を慕う友に、温かい関心をもっていてくれた、と。
ライヒシュタットより
」
家庭教師のディートリヒシュタインも、プロケシュの出立を、残念がった。
残念というのは、穏やかな表現だった。彼は、このような人事を発令した
プリンスが、永遠の友情を、プロケシュに対して誓っていたのを知っていたからである。
*
「
この注目すべき人は、私の心まで入り込んできた、唯一の人です。
(中略)
今、私は、愛する恋人を失ったように、悲しみに暮れています。いつの日か、彼が、突然、帰ってくることを、いつも願っています。
」
後に、プロケシュがパルマに立ち寄ったと聞いて、ライヒシュタット公はこう、母のマリー・ルイーゼに書き送っている。
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