ママ・キューの帝王教育
暗くなりがちな宮廷において、唯一の救いは、ローマ王だった。
父の不在は、今までにも何度かあった。大好きな父は、きっとすぐに帰ってくると、彼は信じて疑わなかった。
ローマ王は、天真爛漫で、わんぱくな少年に育っていた。
目下のところ、彼の最大の関心事は、間近に控えた誕生日だった。誕生日には、素敵なプレゼントを、たくさん、もらえる。
待ち遠しくて、仕方なかった。
「プレゼントは何?」
と、何度も母親に尋ねた。
あまり何度も聞かれ、マリー・ルイーゼは、音を上げてしまった。3歳の誕生日が来る前に、彼女はプレゼントを渡してしまった。
このことを知ったモンテスキュー伯爵夫人は、眉を釣り上げた。言い訳のように、マリー・ルイーゼは急いで言った。
「父親が出征してしまって、どれだけ寂しい思いをしているかと思ったものだから……。これからは、できるだけ、あの子を甘やかしてあげたいの」
「それは、むしろよいことです」
生真面目な顔を崩さず、モンテスキュー伯爵夫人は答えた。
*
ローマ王は、国民軍の制服を誂え、三角帽を被って、軍の閲兵式に出席した。兵士たちの歓呼に応えて、小さな手を上げ、敬礼した。
そういう日は、夜になってからが大変だった。
小さな王は、興奮しきっていた。部屋中を走り回り、叫び声を上げる。目がぎらぎら輝いていて、夜遅くまで眠ろうとしない。
侍女達の手には負えなかった。
「お手紙を書いて、お父様に言いつけますよ」
ついに皇妃が言うと、
「へっちゃらさ」
と返すありさまだった。
ローマ王はまた、非常に頑固で反抗的な面も見せるようになった。甘やかされて育った子どもの、典型のように。
……始終、「王様」なんて呼ばれ、かしずかれていたら、無理もないことだわ。
……ただでさえ、3歳は、反抗期なのだから。
……でも、このままではいけない。
帝王としての教育を身につけさせようと、モンテスキュー伯爵夫人こと、ママ・キューは決意した。
ある日、ローマ王は、ナニー(子守り)のちょっとした手出しに腹を立て、いつものように、癇癪を破裂させた。足を踏み鳴らし、喚き散らす。
ママ・キューは、ナニーに退室するよう、目で促した。真っ赤な顔をしたまま、ナニーは頷いた。
ローマ王と二人きりになると、ママ・キューは、大急ぎで、部屋のドアを閉めた。ついで、窓の鎧戸を次々と降ろし、厚いカーテンも引いた。
部屋の中は、薄暗くなった。
さすがに、ローマ王は驚き、おとなしくなった。
「私は、殿下が大好きです。殿下のことを、とても大事に思ってます」
まず、ママ・キューは強調した。
「だから、今みたいな乱暴な声を、他の人に聞かせたくないのです。ローマ王は、こんなにわからずや、どうしようもない子だった、って知ったら、フランスの人は、どう思うかしら。これから先、殿下に従ってくれるでしょうか?」
ローマ王の目に、涙が溜まった。彼は、ママ・キューの腕に飛び込み、囁くような声で尋ねた。
「どうしよう。今の声、みんなに聞かれちゃったかな?」
「そうでないことを祈ります」
「ごめんなさい、ママ・キュー。もう、絶対、しない」
モンテスキュー伯爵夫人の目にも、涙が浮かんだ。彼女は、ぎゅっと、小さな体を抱きしめた。
ローマ王は、父に似て、音楽のセンスがなかった。というより、いっそ、騒音に耐性があったと言ったほうが、的確だろう。
食事の時、彼は、ナイフやフォークで、食器を叩いて鳴らすのが好きだった。そうすると、笑って貰えたからだ。
もちろん、母親を含め、誰も彼を叱らなかった。
ある時、この無作法について、食卓専従のメイドの誰かが、小声で何事かささやいた。
「何か言った?」
子どもはすぐに聞き返した。自分の立てる音がうるさくて、よく聞こえなかったのだ。
答えは帰ってこなかった。
いつもならここで、ローマ王は、癇癪を起こすところだ。だが、この時の彼は、そうはせず、黙り込んだ。
ローマ王が食卓を離れるとすぐ、皇妃の着替えの間……今の時間、そこには誰もいないはずだった……から、凄まじい音が聞こえてきた。
驚いた侍従が駆けつけると、部屋中のものがひっくり返され、散乱していた。
「パパに会いたい」
目にいっぱい涙をため、ローマ王はしゃくりあげた。
モンテスキュー伯爵夫人シャルロットは、孫娘に会いに、自宅へ帰っていた。宮殿に戻ってきたところを、モンテベッロ公爵夫人に、腕を、ぎゅっと掴まれた。
「ローマ王が大変だったのよ!」
吐き捨てるように、彼女は言った。
……それは、この前自分が、人前で怒りを見せたらいけないと、諭したからだ。
モンテベッロ公爵夫人の話を聞き、すぐにシャルロットは思い当たった。
だからローマ王は、食卓ですぐに怒りを爆発させなかった。誰もいない母親の着替えの間に籠もるまで、耐えたのだ。
……なんて素直で、まっすぐなご気性なんだろう。
しかも彼は、戦争に行った父親が恋しいと言って、泣いていたという。シャルロットは、胸がいっぱいになった。
「皇妃様は、ひどく驚かれ、嘆かれていたわ。もう二度と、あんなことのないように、ローマ王から目を離さないで頂戴」
背の高いモンテベッロ公爵夫人が、シャルロットを見下ろして言い放った。
シャルロットはむっとした。
「母親にとって、子どものいたずらは、むしろ楽しいものですよ。まあ、あなたのように、子どもをご実家に預けっぱなしの人にはわからないでしょうけどね」
周囲にいた女官達が、しん、と静まり返った。
モンテベッロ公爵夫人が、殆ど自宅に帰らず、皇妃の部屋の隣で寝泊まりしているのは、周知の事実だった。皇妃は、彼女だけを頼り、人前には、殆ど姿を見せなくなっていた。
「……」
シャルロットの投げつけた皮肉を受け、モンテベッロ公爵夫人は、胸を抑えた。浅い呼吸を繰り返す。
さらにシャルロットは追い打ちを掛けた。
「子どもには、母親がそばにいてやることが必要なんです。少なくとも、小さいうちはね!」
彼女は、知っていた。
ローマ王断乳の折、彼女と激しく対立したコルヴィサール医師の後ろには、モンテベッロ公爵夫人がいたことを。
「お前、あの二人から、ひどく悪く言われてるぞ。皇妃様もご存知だ」
皇妃に同行してドレスデンに行った夫が教えてくれた。
シャルロットとしては、ローマ王の断乳に反対だったわけではない。ただ、子どもの情緒面に極めて重大な影響を及ぼすから、皇帝の許可が必要だと主張しただけだ。だから、医師の意見に従えという皇帝の言葉を受けて、断乳を認めた。それなのに、ウィーンとドレスデンの間で、かくも久しい間、彼女の悪口が飛び交っていたとは!
また、彼女は、モンテベッロ公爵夫人が、事あるごとに、自分の悪口を、皇妃の耳に入れていることも知っていた。
モンテベッロ公爵夫人は、完全に、皇妃に取り入っていた。
皇妃は、シャルロットがどんなに頼んでも、ローマ王と過ごす時間を増やしてくれなかった。モンテベッロ公爵夫人とおしゃべりばかりしている。
父親が出征して、子どもが、こんなに寂しく不安な思いをしているというのに。
モンテベッロ公爵夫人には、子どもが5人もいる。もっと気を使い、皇妃がローマ王と触れ合えるよう、配慮すべきではないのか!
いい加減、腹が立っていた。
「貴女にだけは、ローマ王のしつけについて、意見されるつもりはありません」
シャルロットが言うと、モンテベッロ公爵夫人は、目に見えて青ざめた。
「私の気持ちなんか、何も知らないくせに! 何がわかるっていうのよ!」
礼儀をかなぐり捨て、彼女は叫んだ。
すごい目で、シャルロットを睨んだ。
「私が、子どもたちの世話をろくにみてないって言うんです……」
モンテベッロ公爵夫人から涙ながらに訴えられ、マリー・ルイーゼは、怒りを覚えた。彼女は、戦場の夫ナポレオンに、モンテスキュー伯爵夫人の非礼をたしなめてくれるよう、手紙を書いた。
……モンテスキュー伯爵夫人は、幼い王にとてもよくしてくれているのだから、礼節を尽くして接するべきだ。
ナポレオンから返事が届いた。
……有徳で何の落ち度もない、善良な功績ある人々を貶めるようなことは、あってはならない。
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