パパ・フランツをやっつけろ!




 オーストリア外相メッテルニヒが、ドレスデンで、ナポレオンと会見した。

 ナポレオンは、領土縮小は、フランスの降伏を意味する、和睦は受け入れられない、と頑強だった。

 メッテルニヒがいかに言葉を尽くしても、また、オーストリアの参戦を仄めかしても、無駄だった。


 「私は戦場で育った。だから、百万の人間の命が失われようと、気に掛けはしない」

興奮して叫び、ナポレオンは帽子を投げた。


 ……この男は、戦うことしか考えていない。

 床に落ちた帽子を拾い上げつつ、メッテルニヒは唖然とした。


 フランス軍は、古参の将校らと兵力の大半をロシア戦役で失っている。今は、新たに徴兵して集めた、若い、子どものような兵士しかいない。フランス皇帝は、その若い兵士たちさえも、死へと、追いやろうとしているのか。


 ……際限のない野心、誇り、幻想。

 メッテルニヒの中に、ナポレオンを見限る決意が芽生えた。


 「オーストリア皇女との結婚は、私の大きな失敗だった」

ナポレオンが叫び、また、帽子を投げた。


 ナポレオンとメッテルニヒとの会見は、物別れに終わった。何一つ、実りある結論は出なかった。




 その後、メッテルニヒはなおもドレスデンに滞在し、極秘に、フランスの元帥、将校らと接触した。


 「戦争は、回避すべきです。フランス軍は冬のロシアで、辛酸を舐めました」

 メッテルニヒから目をそらせ、ベルティエ元帥は、ぼそりと口にした。

 彼は、老け込み、疲れ果てて見えた。婚儀の特命大使としてオーストリアに来た頃の明朗さは、消え失せていた。


 俯いて、なおも彼は続けた。

「人民もまた、平和を希望しています。彼らはもう、家族を、失いたくないのです。平和を望んでいないのは……」


「皇帝だけですね」

メッテルニヒが継ぎ足すと、ベルティエは頷いた。



 ナポレオンとメッテルニヒは、もう一度、会見を持った。休戦期間の延長と、プラハでの講和会議の日程だけが決まった。



 ナポレオンは、ドレスデンにマリー・ルイーゼを呼んで、つかの間の休日を楽しんだ。そして、プラハでの会議をすっぽかし、講和会議は決裂した。



 プラハ会議決裂の翌々日。オーストリアは、フランスに宣戦布告をした。

 この事実を、ナポレオンは極力、マリー・ルイーゼに隠し、彼女をパリに帰らせた。



 1813年10月16日。ライプチヒの平原で戦闘が開始された。

 ナポレオン軍19万。対するオーストリア・プロイセン・ロシア・スウェーデンの連合軍36万。

 ナポレオン軍は敗北し、退却した。





 7ヶ月ぶりに、ナポレオンはパリ、サン・クルー宮殿に帰還した。

 息子のローマ王は大喜びし、父親の後を追い回した。

 あと4ヶ月で、ローマ王は3歳になる。誕生日までは一緒にいられないだろうと、ナポレオンは冷静に計算した。


 宮殿を訪れる役人や将校らは、しばしば、皇帝の執務室の机の下に、幼いローマ王が潜り込んでいるのを発見した。


 「また、挨拶をしなかったな。皆さんに、きちんとご挨拶しなさい」

 皇帝が叱ると、子どもは素直にテーブルの下から出てきて、頭を下げた。客人の手にキスをし、それから慌てたように、父親に抱きついた。ナポレオンが抱き上げると、その肩に、赤くなった顔を埋めた。


 ローマ王は、軍隊に憧れていた。槍騎兵や手榴弾兵の制服を作ってもらい、得意になっていた。この制服の着用を禁じることは、わんぱくが過ぎた時の、いい懲らしめになっていた。




 「パパ・フランツをやっつけろ!」

夕食の後、小さなローマ王を膝に乗せ、ナポレオンは叫んだ。


 はっとしたように、マリー・ルイーゼが息を飲んだ。

 小さなローマ王は、きょとんしている。


「ほら、お前も言ってご覧。パパ・フランツを、やっつけろーーっ!」

 父親の声の調子がおかしかったのか、子どもは、けたけたと笑いだした。

「よし。じゃ、一緒に言おう。これは、大事なことだぞ? いいか。パパ・フランツを、」


「やっつけろーーー!」

元気よく、子どもは叫んだ。父親を真似て、握った手を振り上げている。


「いいぞ。もう一度!」

「パパ・フランツを、やっつけろーーー!」


 拳を突き上げ、何度も何度も、ローマ王は叫んだ。

 父親が喜ぶからだ。

 子どもは「パパ・フランツ」が、父の「敵」だということはわかった。でもそれが、母の「パパ」……自分の祖父……ということまでは、わからなかった。


 彼らの背後で、皇妃が、静かに泣き始めた。





 ナポレオンは再び、マリー・ルイーゼを摂政に任じた。今回は、兄のジョセフを皇帝代理官に据えた。


 「兄貴」

子どもの頃の呼び方で、ナポレオンが兄を呼んだ。


 周囲に人はいなかった。マリー・ルイーゼはすでに退出していたし、うるさく父親につきまとっていたローマ王も、たった今、ママ・キューに連れられて出ていったばかりだ。


「兄貴に、ひとつ、頼みがある」


「なんだ?」

 弟の言う事なら、何でも聞こうと、ジョセフは思った。

 スペイン王を封じられていた彼は、独立戦争に伴い廃位された。無聊をかこっていたのだが、弟は、再び、皇帝代理官という大役を与えてくれた。


 「ローマ王のことだが……」

ナポレオンはしばし、ためらった。うつむき、考え込んでいる。

 やがて顔を上げ、強い口調で言った。

「俺は、あの子が、オーストリア宮廷で王子プリンスとして育てられることを望まない。むしろ、絞め殺された方がいいと思っている」


 鬼気迫るその蒼白な顔に、ジョセフは絶句した。





 1814年1月23日。

 ナポレオンは、テュルリー宮殿大広間に、パリ国民軍800人の将校を集めた。

 歓呼に応じて、皇帝が現れた。だが、皇妃はなかなか出てこない。


 ついに、マリー・ルイーゼが姿を現した。彼女の傍らには、モンテスキュー伯爵夫人に抱かれたローマ王の姿があった。

 大広間は、しん、と静まり返った。


「諸君」

温かな響きを帯びた皇帝の声が、響いた。

「恐ろしい脅威が、わがフランスの領土を脅かしている。私は、わが軍の陣頭に立って戦うつもりだ。神の加護と、勇敢なるわが兵士達の力をもって、敵を国境の向こうへ追い返す。必ず」


 不意に、ナポレオンは後ろを振り返った。芝居じみた仕草で、妻と、養育係に抱かれたままの息子の手を取った。


「だが、もし……、もし敵がこの城まで攻めてきたら……私は……、私は、諸君ら、国民軍を信じる。諸君の勇気が、皇妃とローマ王を、わが妻と子を、必ずや、守ってくれることを!」


 熱狂的な歓声が沸き起こった。



 ナポレオンは、書類の整理を始めた。暖炉に火をおこし、不要なものは焼き捨てていく。


 ローマ王は、父親のそばにいた。カーペットに座りこんで、色とりどりの積み木を軍隊に見立てて遊んでいた。

 紙が一枚、落ちてきた。ナポレオンの軍事戦略書だ。赤い積み木……ローマ王の「大連隊」……が、その上を横に滑った。父親の軍事機密の粋である戦略書は、幼い息子の「大連隊」の角に擦れて摺り切れ、ぼろぼろになった。


 ナポレオンは、子どもを抱き上げて後ろに退かせた。腰を屈め、耳元で囁く。

「パパ・フランツを、やっつけに行くぞ」


 ローマ王は、いつものように雄叫びをあげなかった。

 父の声に含まれた、ほんの僅かな苛立ちに気づいたのだ。そして、母親のすすり泣きにも。

 子どもは、戸惑ったような瞳を上げた。



 25日早朝。

 軍服に身を固めたナポレオンが、息子のベッドを覗いた。

 子どもは、ぐっすりと眠っていた。長いまつげが、ふるふると震えた。

 ナポレオンは、そっと布団をめくった。現れた足の、小さな指をくすぐった。枕元に回り、頬にキスをした。

 予測通り、3歳の誕生日まで見守ってやることはできなかった。



 寒い中庭で、衛兵は待っていた。

 ようやく降りてきた皇帝は、皇妃と、義理の娘オルタンスを伴っていた。


「いつ、お帰りになるの?」

涙を含んだ皇妃の声が尋ねた。

「神のみぞ知る」

皇帝は答えた。

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