家族は裏切らない

 「さあ、殿下。跪いて、手を組んで。神にお祈りしましょう」

モンテスキュー伯爵夫人シャルロットは、ローマ王に、言った。小さな王子は、言われたとおり、両手を合わせた。

「いい子。本当に可愛い……」

思わずシャルロットはつぶやいた。




 シャルロットの長男、アナトール大佐も、ロシア遠征に従軍していた。彼が出征して半年以上もの間、シャルロットは、生きた気がしなかった。


 12月中旬、アナトールは、伝令としてパリに帰ってきた。皇妃に謁見に来た息子を見た時、安堵の余り、シャルロットは倒れそうになった。ふらつく体を支えてくれたのは、意外にも、モンテベッロ公爵夫人だった。


 痩せて汚れ、軍服はボロボロだったが、息子はなおも、意気軒昂だった。彼は、味方は勝利していると伝えた。

「敵方は、卑怯にも首都に火を放ちました。燃え上がるモスクワの街をご覧になれるよう、私は陛下に、この肩をお貸ししました!」

 母の気も知らず、得意気に、皇妃に報告していた。



 幸いアナトールは、無事に帰ってきてくれた。だが、いつまた、戦争に赴くことになるかわからない。それは、それほど遠い日のことではなかろう。果たしてその時も、今回と同じ幸運が続くだろうか……。


 フランスの兵士たちが、半死半生になって、ぽつりぽつりと帰ってきていることは、シャルロットも知っていた。

 先日も、仮面舞踏会の控え室で、親戚の大佐と会ったばかりだった。


 ……まるで、墓の上で踊っている気分だ。

 大佐は、吐き捨てた。彼は最後まで、撤退軍の指揮を執っていた。彼の兵は毎日のように、それも大量に死んでいき、最終的に1/15にまで減っていた。




 「目を閉じ、神様を思い描くのですよ。慈悲深き神に、佳き祖国の平和と、全ての民の幸せを祈りましょう」

 モンテスキュー伯爵夫人の声がする。子どものたどたどしい声が、祈りの言葉をつぶやいた。


 部屋の外を、ナポレオンが、足音を忍ばせて通り過ぎていった。





 ……ナポレオンはロシア遠征に失敗した。

 この機を、当のロシア、及び、ドイツ諸邦は見逃さなかった。

 酷寒のロシアで、ナポレオン軍は、兵力の大半を失っている。ベテランの将校も多数、戦死した。

 やるなら、今だ。


 プロイセンはロシアと同盟を結び、ドイツ解放を求め、戦争に突入した。またロシアはワルシャワを占領し、ナポレオンのポーランド政策は頓挫した。スウェーデンも、フランスから、離脱の意向を見せている。


 一刻の猶予もならなかった。


 出征に先駆け、ナポレオンは、マリー・ルイーゼを摂政に任じた。これは、オーストリア対策でもあった。父親のフランツ帝に、まさか、娘の政府は討てまい。マリー・ルイーゼには、補佐役に、カンバセレス大法官をつけた。彼は60歳の同性愛者で、皇妃のそばにおいても、安心できた。


 1813年4月15日、ナポレオンは、ドイツ戦役に向け、パリを出発した。





 5月の2つの戦いで、ナポレオンは、プロイセン・ロシア連合軍に勝利した。

 勝利してしまったのだ。

 フランス軍は、自覚を持つ機会を失った。

 古参のベテラン将兵の多くを失い、訓練不足の若い新兵ばかりの軍隊だという自覚を。軍馬も物資も不足し、機動力が大幅に減じているという自覚を。





 ドイツ戦役は、一応の休戦状態に入った。


 この間、オーストリアは、中立の立ち場を守っていた。ロシアが優勢になるのも、プロイセンが力をつけるのも、メッテルニヒは望まなかった。

 オーストリアの中立は、消極的な立場ではない。プロシア・ロシア連合軍及びフランス軍、どちらにも兵力をちらつかせ、力の均衡を図ろうというものだ。


 それに。

 ……余人は戦をすべし。幸いなるかなオーストリア、汝はまぐわうべし。


 ナポレオンの子には、ハプスブルクの血が流れている。ならば、その子を通して、オーストリアがフランスを手に入れることもまた、可能なのだ。

 今は、まだ。



 メッテルニヒが策略を巡らせる一方で、フランツ帝は、娘と孫のいる国と戦いたくなかった。


 オーストリア皇帝は、娘を嫁がせた日のことを、忘れることができなかった。

 婚儀は全て、マリー・アントワネットの前例に則って行われた。ギロチン台の露と果てた叔母、マリー・アントワネットの。

 ……見捨てまい。

 あの時、フランツ帝は決意した。長女マリー・ルイーゼは、国の犠牲となって、ナポレオンに差し出されたのだ。


 だが、父帝の不安をよそに、マリー・ルイーゼからは、夫婦仲の良さが窺える手紙が届くようになった。ナポレオンは、よい夫のようだった。そして、待望の子どもを授かり……。


 結婚は、最初マリー・ルイーゼにとって、「不幸」だった。彼女はそれを、自分の力で「幸福」に変えたのだ。

 今、オーストリアが同盟国側に参戦し、フランスと戦うことは、娘の幸せを打ち砕くことになる。彼女が自力で築き上げた幸せを、再び、国の都合で、破壊することになってしまうと、皇帝は案じた。


 ……ナポレオンが、メッテルニヒの和平提案を受け容れてくれたら!


 フランスは、ナポレオン時代に占領した地域を放棄する。だが、川や山脈などの自然によって形造られた国境は保持できる。


 ……それで十分ではないか。


 国が大きくても、ろくなことはない。反乱の芽を育むだけだ。

 かつて神聖ローマ帝国を崩壊させたフランツ帝は思った。

 なにより娘と孫を、政治の修羅に巻き込みたくなかった。





 ナポレオンは、岳父フランツ帝を信じることができなかった。なぜもっと、フランス寄りの態度を示してくれないのかと、不満に思った。

 自分たちは、「家族」ではないか。家族なら、お互い助け合うべきだ。

 コルシカ出身の自分たち、ボナパルト兄弟のように。離婚してもなお「皇后」であるジョセフィーヌと、その連れ子達のように。

 「家族」は、絶対、裏切らないものなのだ。


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