パリ陥落
この頃、ナポレオン軍は、小さな戦いで、いくつかの勝利を収めていた。
だが、いずれも小競り合いのような戦いで、同盟軍のフランス包囲網を解除させるには至らなかった。
ロシア・オーストリアを含む同盟軍の意中は、もはやナポレオンその人にはなかった。
同盟軍は、パリへ向けて、進軍を開始した。
*
最初、マリー・ルイーゼは、パリを脱出することを拒んだ。彼女は、戦況を理解していなかった。パリはまだ、安全に見えた。
摂政会議が開かれた。ナポレオンの兄、ジョセフが、「最新の」ナポレオンからの手紙を読み上げた。そこには、妻と子は決して敵の手に落ちてはならない、と記されていた。
……敵の手に落ちるくらいなら、セーヌ川に身を投げた方がいい。
皇妃とローマ王の、パリ脱出が決まった。
テュルリー宮を出る間際、マリー・ルイーゼは、帽子を床に投げ捨てた。アームチェアーに腰を落とし、さめざめと泣いた。
彼女が回復するのを待って、出発しようとすると、今度は、ローマ王が、椅子にしがみついて喚き始めた。
「ランブイエ(当初の避難先)には行かない! あそこは、怖い城なんだ。ここにいようよ。僕は、うちから出たくない!」
秘書や侍従、居合わせた陸相までもが、なんとか彼をなだめようとした。
「行くもんか! パパがいない間は、僕が、王様なんだぞ!」
諦めた従者たちは、彼を、強引に連れ出そうとした。
椅子から引き離されたローマ王は泣きわめき、ドアにかじりついた。それも引きはがされると、今度は、階段の手すりに両手両足でしがみつく。
力自慢の従者が、力ずくで彼を抱き上げ、馬車の中に押し込んだ。その間ずっと、ローマ王はすすり泣いていた。
10台の四輪馬車が、走り始めた。まるで、葬列のように見えた。
同盟軍がパリに入城したのは、その翌々日のことである。
タレーラン臨時政府が成立し、元老院は、ナポレオンの廃位を宣告した。新たに、ルイ18世をフランス国王として迎ることが決議された。
マリー・ルイーゼは、フランス皇妃ではなくなった。彼女の息子も、ローマ王の称号を剥奪された。幼いフランソワを「ローマ王」と呼ぶ者は、もういない。
*
ランブイエでは安全を確保できないと、皇帝代理官ジョセフから手紙が来た。マリー・ルイーゼの一行は、あちこちをさすらい、ブロワに落ち着いた。
ナポレオンは、フォンテーヌブローまで引き返していた。
ブロワからフォンテーヌブローまでは、早馬で7時間ほどの距離だった。
ナポレオンから、マリー・ルイーゼに、「お父上に対して、今こそ私達を救って欲しい、とお願いせよ」と手紙が来た。その通りに、彼女は書いて送った。
オーストリアのフランツ帝は、娘の国の首都に入ることはためらい、ディジョンに留まっていた。
「残念ながら、連合軍とフランスとの間に口は挟めない」
としながらも皇帝は、決して彼女を見捨てない、と、返事を寄越した。
*
ナポレオンには、エルバ島が与えられることが決まった。マリー・ルイーゼには、イタリアのどこかを。
二人は、別れ別れにさせられるのだ。
だが、ナポレオンには、まだ、軍隊が残されていた。彼は、妻子をフォンテーヌブローまで呼び寄せたいと思った。
*
「駄目です! 行かせませんからね! 皇帝のところへは、行ってはいけません!」
マリー・ルイーゼの馬車の前に、女官が立ち塞がった。モンテベッロ公爵夫人だ。
「私は、エルバ島へなんか、行きたくありません! あんなところで一生を終えるなんて、まっぴら。とんでもない話です」
目が座り、鬼のような形相だった。さすがに馬車の御者は鼻白んだ。
その少し前、ナポレオンの手紙を携えた将校が、マリー・ルイーゼを訪れていた。
……馬車で行けば、すぐの所に皇帝はいる。ちょっと会って、また帰ってくればいい。
説得されて、単身、夫に会いに行こうとしたマリー・ルイーゼを、モンテベッロ公爵夫人が引き止めたのだ。
なおも彼女は続けた。
「第一、プリンスの教育はどうするんです! エルバ島では、ろくな教育もできないんですよ!」
大騒ぎになった。
こっそりと出かけようとしたマリー・ルイーゼは、出鼻を挫かれ、外出を取りやめた。
「あなたにしたら、上出来だったわ」
モンテスキュー伯爵夫人は、甘く煮立てたワインの器を手渡した。
「確かに、教育は大事よ」
「マリー・ルイーゼ様は、『そうね。モンテスキュー伯爵夫人は、エルバ島には来てくれないわよね』って、おっしゃってたわよ」
呆けたような顔をして、モンテベッロ公爵夫人は、湯気の立つ陶器を受け取った。
「あら、行くわよ。プリンスが行くなら、どこへでも」
きっぱりとモンテスキュー伯爵夫人は答えた。
モンテベッロ公爵夫人はため息を付いた。
「わたしは、いや。そんな僻地……ブタやイノシシと一緒に暮らすなんて、絶対、いやよ」
「そうね。それがあなたの生き方なのよ」
……皮肉か?
思わず、モンテベッロ公爵夫人は顔を上げた。
年上の女性の顔に浮かんでいるものは、もっと崇高なもののような気がした。
その頃、マリー・ルイーゼは、父のフランツ帝に手紙を書いていた。
「息子が心配です。どうかお父様の国へ行かせて下さい。そこで、子どもに教育を受
けさせて下さい」
もはやナポレオンは、息子のことは何も考えていない、と、マリー・ルイーゼは考えた。モンテベッロ公爵夫人の言う通りだ。夫の頭の中にあるのは、戦争だけなのだ。
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