パリ陥落

 この頃、ナポレオン軍は、小さな戦いで、いくつかの勝利を収めていた。

 だが、いずれも小競り合いのような戦いで、同盟軍のフランス包囲網を解除させるには至らなかった。


 ロシア・オーストリアを含む同盟軍の意中は、もはやナポレオンその人にはなかった。

 同盟軍は、パリへ向けて、進軍を開始した。





 最初、マリー・ルイーゼは、パリを脱出することを拒んだ。彼女は、戦況を理解していなかった。パリはまだ、安全に見えた。

 摂政会議が開かれた。ナポレオンの兄、ジョセフが、「最新の」ナポレオンからの手紙を読み上げた。そこには、妻と子は決して敵の手に落ちてはならない、と記されていた。

 ……敵の手に落ちるくらいなら、セーヌ川に身を投げた方がいい。

 皇妃とローマ王の、パリ脱出が決まった。



 テュルリー宮を出る間際、マリー・ルイーゼは、帽子を床に投げ捨てた。アームチェアーに腰を落とし、さめざめと泣いた。

 彼女が回復するのを待って、出発しようとすると、今度は、ローマ王が、椅子にしがみついて喚き始めた。

「ランブイエ(当初の避難先)には行かない! あそこは、怖い城なんだ。ここにいようよ。僕は、うちから出たくない!」


 秘書や侍従、居合わせた陸相までもが、なんとか彼をなだめようとした。

「行くもんか! パパがいない間は、僕が、王様なんだぞ!」


 諦めた従者たちは、彼を、強引に連れ出そうとした。

 椅子から引き離されたローマ王は泣きわめき、ドアにかじりついた。それも引きはがされると、今度は、階段の手すりに両手両足でしがみつく。

 力自慢の従者が、力ずくで彼を抱き上げ、馬車の中に押し込んだ。その間ずっと、ローマ王はすすり泣いていた。


 10台の四輪馬車が、走り始めた。まるで、葬列のように見えた。



 同盟軍がパリに入城したのは、その翌々日のことである。



 タレーラン臨時政府が成立し、元老院は、ナポレオンの廃位を宣告した。新たに、ルイ18世をフランス国王として迎ることが決議された。

 マリー・ルイーゼは、フランス皇妃ではなくなった。彼女の息子も、ローマ王の称号を剥奪された。幼いフランソワを「ローマ王」と呼ぶ者は、もういない。





 ランブイエでは安全を確保できないと、皇帝代理官ジョセフから手紙が来た。マリー・ルイーゼの一行は、あちこちをさすらい、ブロワに落ち着いた。

 ナポレオンは、フォンテーヌブローまで引き返していた。

 ブロワからフォンテーヌブローまでは、早馬で7時間ほどの距離だった。



 ナポレオンから、マリー・ルイーゼに、「お父上に対して、今こそ私達を救って欲しい、とお願いせよ」と手紙が来た。その通りに、彼女は書いて送った。

 オーストリアのフランツ帝は、娘の国の首都に入ることはためらい、ディジョンに留まっていた。

 「残念ながら、連合軍とフランスとの間に口は挟めない」

としながらも皇帝は、決して彼女を見捨てない、と、返事を寄越した。





 ナポレオンには、エルバ島が与えられることが決まった。マリー・ルイーゼには、イタリアのどこかを。

 二人は、別れ別れにさせられるのだ。

 だが、ナポレオンには、まだ、軍隊が残されていた。彼は、妻子をフォンテーヌブローまで呼び寄せたいと思った。





 「駄目です! 行かせませんからね! 皇帝のところへは、行ってはいけません!」

マリー・ルイーゼの馬車の前に、女官が立ち塞がった。モンテベッロ公爵夫人だ。

「私は、エルバ島へなんか、行きたくありません! あんなところで一生を終えるなんて、まっぴら。とんでもない話です」

目が座り、鬼のような形相だった。さすがに馬車の御者は鼻白んだ。


 その少し前、ナポレオンの手紙を携えた将校が、マリー・ルイーゼを訪れていた。

 ……馬車で行けば、すぐの所に皇帝はいる。ちょっと会って、また帰ってくればいい。

 説得されて、単身、夫に会いに行こうとしたマリー・ルイーゼを、モンテベッロ公爵夫人が引き止めたのだ。


 なおも彼女は続けた。

「第一、プリンスの教育はどうするんです! エルバ島では、ろくな教育もできないんですよ!」

 大騒ぎになった。

 こっそりと出かけようとしたマリー・ルイーゼは、出鼻を挫かれ、外出を取りやめた。




 「あなたにしたら、上出来だったわ」

モンテスキュー伯爵夫人は、甘く煮立てたワインの器を手渡した。

「確かに、教育は大事よ」


「マリー・ルイーゼ様は、『そうね。モンテスキュー伯爵夫人は、エルバ島には来てくれないわよね』って、おっしゃってたわよ」

呆けたような顔をして、モンテベッロ公爵夫人は、湯気の立つ陶器を受け取った。


「あら、行くわよ。プリンスが行くなら、どこへでも」

きっぱりとモンテスキュー伯爵夫人は答えた。


 モンテベッロ公爵夫人はため息を付いた。

「わたしは、いや。そんな僻地……ブタやイノシシと一緒に暮らすなんて、絶対、いやよ」


「そうね。それがあなたの生き方なのよ」


 ……皮肉か?

 思わず、モンテベッロ公爵夫人は顔を上げた。

 年上の女性の顔に浮かんでいるものは、もっと崇高なもののような気がした。



 その頃、マリー・ルイーゼは、父のフランツ帝に手紙を書いていた。

「息子が心配です。どうかお父様の国へ行かせて下さい。そこで、子どもに教育を受

けさせて下さい」

 もはやナポレオンは、息子のことは何も考えていない、と、マリー・ルイーゼは考えた。モンテベッロ公爵夫人の言う通りだ。夫の頭の中にあるのは、戦争だけなのだ。


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