抑止力


 兵営復帰の許可を、主治医のマルファッティから、半ば強引に奪い取るようにして、ライヒシュタット公は、軍務に戻った。


 9月14日、彼は、大隊の指揮を執った。

 それは、寒い日だった。

 ハンサムでスマートな司令官の姿に、見物に来ていた群衆は喜んだ。だが、彼は、スマートすぎた。その上、号令の声は小さく、観客達には、聞き取れなかった。




 へとへとに疲れ、部屋に帰ると、アシュラが待っていた。

 軍務はまだ無理だと止めるアシュラを、シフランソワは、シェーンブルン宮殿に置き去りにしてきた。

 どうやら自力で、ここまで来たようだ。彼は、モルのなりをしていた。



 疲れ切って部屋に戻ってきたフランソワに、アシュラは、手紙を差し出した。

 家庭教師のディートリヒシュタインからだった。

 彼は、教え子の晴れ姿を見学に来ていた。そして、観覧席の最前列で見た、フランソワの痩せ方に、衝撃を受けた。

 元家庭教師は、それに関する意見をまとめ、兵営付きの兵士にことづけてきた。



 プリンスの声は小さく掠れ、私は全く、驚かされました。私がいつも言っているように、プリンス、あなたがご自身で、軍の指揮を執る必要はありません。次のパレードは、観覧になさい。

 全く、あなたが何を考えているか、私にはさっぱりわかりません。しかし、いいですか。このままいったら、あなたは、永遠に、自分の健康を犠牲にするはめになりますよ? それも、たかだか2時間ばかりの無駄な虚栄の為に。私の意見を申し上げれば、ですね。それは、あなたにとって、まったくもって、少しも良いことにはなりません。

 ……。


 手紙の中身は、いつもの愚痴と叱責だった。

「……」

フランソワは無言で、手紙をアシュラに突き返した。







 その次の日も、フランソワは、大隊の指揮をした。彼の声の小ささとかすれ具合に、観覧に来ていた人々は驚いた。連隊司令官の声は、隊列の兵士たちにも聞き取れないほど弱々しく、かすれていた。







 兵士たちの間にも、コレラは広がっていた。

 感染拡大防止の為、アルザー通りの兵舎は、当面、閉鎖されることになった。

 フランソワは、シェーンブルン宮殿へ戻らざるを得なかった。







 「なんですって?」


ランシュトラーセにある、メッテルニヒ邸。相変わらず人けの少ない邸宅で、思わず、マルファッティは、声を上げた。


 宰相は、眉を顰めた。

「だから、ライヒシュタット公の症状の改善に努めよと、命じている」


「では、転地療養をお認めになるのですね?」

 それができれば、患者の病状は回復する可能性がある。

 というか、それしか、今のプリンスを救える方法はない。


 「ウィーンを出るのは、許さぬ」

だが、宰相の口から出たのは、冷たい拒絶の言葉だった。

「彼が結核であることも、引き続き、黙秘せよ」

「そんな……」


 ……彼が、結核で死んだら、どうなるのだ。

 ……肝臓や皮膚の病、それにカタルなどと診断した自分の、医師としての評判は?



 プリンスは、今も、せっせと塩風呂に入っている。肌を強くする為に、マルファッティが勧めたからだ。そして、まずいと不平をこぼしながら、ミルクを炭酸水で薄めて飲んでいる。肝臓を浄化するためだ。

 炭酸水は、ひどくむかつくと言っていたが、喉を強くする効果があると教えたところ、熱心に飲用するようになった。


 彼は、どうしても、声を取り戻したいのだ。

 将校として、自分の連隊を率いるために。

 その努力には、涙ぐましいものがあった。



 思わず強い調子で、マルファッティは尋ねた。

「宰相は、いったい、プリンスをどうなさりたいのですか?」

 ……鋼の意思に、ガラスの体を持った青年を。

「どうしたいとは?」

「彼は宰相の、喉に刺さった棘なのでしょう?」

 赤い黴を使ったり。

 結核であることを、周囲や患者本人にも隠し、軍務に邁進させたり。

「棘は、取り除きたいと考えるのが、普通でしょう?」


 「状況が変わったのだ」

メッテルニヒは、まともに、マルファッティに目を据えた。蛇のそれのように、瞬きをしない目だ。

「ブルボン家のアンリ5世待望論が、力を得てきている。母親のマリー・カロリーヌも、スペインで暗躍している。抑止力が必要だ」(※)

「抑止力?」

「ナポレオン2世だ」


叩きつけるように、メッテルニヒはその名を口にした。


「今、フランスに争いが起これば、戦乱は、瞬く間に、ヨーロッパに広がるだろう。全く気が進まぬことではあるが、我々は、ルイ・フィリップの新政権を守ってやらねばならぬ」

「……はあ」

「抑止力が必要だ。アンリ5世を抑止することができるのは、ナポレオン2世だけなのだ」

「それはそうでしょうな」

「すでに、イタリア出兵の時も、彼は、役に立ってくれた。鷲の子を解き放つぞ、と言ったら、ルイ・フィリップの奴め、真っ青になって……」



 ナポレオン2世の名が出た途端、フランスルイ・フィリップ政権は、イタリアのカルボナリへの支援を止めた。国内の革命家を拘束し、全面的に、オーストリアを支持した。

 ……カルボナリにとっては……マルファッティにとっても……、苦々しい記憶だ。



 イタリア争乱では、ナポレオン2世の名は、フランスルイ・フィリップ政権の介入を抑える為に利用された。

 そして今また、ブルボン家が新政権ルイ・フィリップ政権を脅かさないように、利用されようとしている。



 ……これでは、プリンスは、いいように利用されているだけではないか。

 ……まるで、宰相のおもちゃだ。


 マルファッティの憤りが伝わったのだろうか。

 メッテルニヒが、にやりと笑った。


「やはりナポレオンの息子は、便だな。彼は、使える。ライヒシュタット公には、もう少し、生きていてもらわねば。少なくとも、脆弱なルイ・フィリップ政権が安定するまでは」

「ですが、転地療法もなしに……せめて、結核だという自覚を、患者自身に持たさねばなりません」


 ライヒシュタット公には、無謀な軍務への傾倒を、慎んでもらわなければならない。

 それには、自分が罹っているのは、放っておけば死に至る病なのだという自覚を、どうしても、持ってもらわなくてはならない。


 すうーっと、メッテルニヒは、目を細めた。


「貴殿には、病状を改善させることができぬと言うのか? それは、貴殿に、医師としての技量が足りないせいなのか?」

「……誰がそのようなことを」

家庭教師ディートリヒシュタイン伯爵が、あちこちで言い散らかしている。新しい主治医は、信用ならぬと」


 ……あの、クソジジイめ!

 謹厳実直な家庭教師の顔を思い出し、マルファッティが、歯ぎしりをした。


 メッテルニヒが、にやりと笑った。

「転地や結核の告知がなくとも、貴殿ほどの名医なら、患者を生かしておくことくらい、可能であろう? 結核と悟られぬよう、それらしい診断を下すのも、名医でなければできぬことだ」

「……」


 ……可能だろうか。

 マルファッティには、自信がなかった


 軍務で無茶を繰り返したことにより、ライヒシュタット公の症状は、かなり進行している。

 決定的な治療法もないというのに、どうやって、回復させたらいいのか。



 さりげない口調で、宰相は話題を変えた。

「ペッリコといったか? 彼が、オーストリアへ入国したぞ」

「なんですって!」



 ペッリコは、カルボナリと、マルファッティの連絡役だった。ウィーンで流行っている医師マルファッティから金を受け取り、同志達に流す役割だ。


 だが、オーストリアの出兵で、カルボナリのイタリア蜂起は、壊滅した。

 それ以降、ペッリコからは、何の連絡もない。

 だから、彼は死んだものとばかり、思っていた。

 それはそれで、都合がよかった。定期的な送金は、負担になりつつあった。

 マルファッティは、油断していた。


 一方、オーストリアの宰相にとって、一度壊滅したカルボナリなど、敵ではなかったのだが。


 「また、金がいるな」

メッテルニヒが笑った。







 約2週後、9月27日。

 シュメルツ(在ウィーン。現在も、運動場や競技場がある)で、大規模なパレードが行われた。

 このパレードは、宮廷の人々が、参加するものだった。


 フランソワは、自分の部隊の前で、行軍を見守っていた。すぐそばには、祖父の皇帝もいた。



 鼓笛隊が通過していった時だ。

 皇帝のそばに、医師のマルファッティが近寄ってきた。彼は、皇帝の耳に、何事か囁いた。

 皇帝は、くるりと孫の方を向いた。


「聞こえたか?」

「はい?」

「マルファッティ医師は、お前には、2ヶ月間の、完全な休養が必要だと言っている。今すぐ、シェーンブルンへ帰るように」


 将校にとって、皇帝の命令は、絶対だ。

 フランソワは、黙従するしかなかった。




 シュメルツを離れる前。

 フランソワは、ついてきたマルファッティを、まともに睨み据えた。怒りに燃える目が、青い輝きを放って、医師を射すくめる。


「そうか。僕を拘束したのは、あなたなんだな」

「何をおっしゃいます。そんな熱のあるお体で……」


 マルファッティの声を、プリンスは、聞いていなかった。

 馬上でしゃんと背筋を伸ばし、去っていった。




 こうして、再び、フランソワの療養生活が始まった。







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※アンリ5世

7月革命で亡命したブルボン家のシャルル10世の孫のことです。正式な即位ではないのですが、シャルル10世祖父が孫に譲位したので、こう呼ぶ場合があります。


生まれる前に父ベリー公を暗殺された彼は、1歳年上の姉と共に、伯母であるマリー・テレーズ(アントワネットの娘)に養育されています。


当時、フランスでの人気は、このアンリ5世とナポレオン2世、若き二人の王子に、二分されていました。





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【ブルボン家の現在。蛇足です】


ブルボン王朝は今(7月革命後)、イギリスの片田舎におり、家族は、


・シャルル10世


・アングレーム公

(シャルル10世の長男。7月革命でフランスを亡命した際、「マルヌ伯爵夫妻」と名を変えていますが、このお話では「アングレーム公」で通します)


・アングレーム公妃マリー・テレーズ

(シャルル10世の姪でもある)


・ルイーズ

(シャルル10世の孫。アングレーム公夫妻の姪)


・アンリ(アンリ5世)

(ルイーズの弟)


の5人です。



なお、ルイーズとアンリ姉弟の母、マリー・カロリーヌは、ヨーロッパの各地を放浪中です……。



系図でご覧になりたい方は、恐れ入りますが、私のホームページを御覧ください。


https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html#henri


(ページトップは

https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html

6「ライヒシュタット公とボルドー公(アンリのことです)」

を御覧ください。


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