メッテルニヒを追い落とすには


 コレラの猛威は収まり、ウィーンに、再び、活気が戻ってきていた。



 緑地グラシの外にあるその店は、会員制だった。部外者が入ることは許されない。

 チンツ張りのソファーに、紳士たちがくつろいでいる。煉瓦色の絨毯が敷き詰められた部屋は、足音も、人の話し声さえも、吸い取ってしまう。



 「やはり皇帝は、フェルディナンド大公に、帝位を譲られるつもりなんだろうな」

年老いた伯爵が、ため息をついた。

「サルディニアから妃を迎えたのが、何よりの、証」


「そもそも、長男の即位が、ハプスブルク家の鉄則だ」

「四角四面の、規則づくめの方だからな、皇帝は」

部屋のあちこちで、ため息が上がる。


「だが、フェルディナンド大公は……」

誰かが言い掛けた時だった。


「木偶のフェルディナンドに、我らが帝国の皇帝が務まるものか!」

怒声が上がった。顎髭を密生させた軍人が立ち上がる。

「おい。それは言い過ぎでは……」

誰かがいなすのを、彼は、遮った。

「みんなも、わかっているだろう? フェルディナンド即位は、メッテルニヒの目論見だ。彼には、補佐役が必要だからな。賭けてもいいが、フェルディナンドが即位したら、政治の実権は、メッテルニヒの手の内だ」


 人々は、顔を見合わせた。

 みんな、そのとおりであることを、知っていた。



 今、かろうじて、今上帝は、その威厳を保っている。メッテルニヒも、皇帝の威光には逆らえない。

 しかし、皇帝が崩御し、長男のフェルディナンドが即位したら?

 彼は、一人では、日常生活さえ、おぼつかない。



「いったい、いつまで、メッテルニヒの独裁を赦しておくというのだ?」

顎髭の軍人は、拳を振り上げた。

「植民地政策、鉄道敷設、それに、産業振興……明らかにわが国は、遅れを取っている。神聖ローマ帝国崩壊の次は、ヨーロッパの二流国への格下げだぞ」


「旧態依然とした官僚主義に囚われているからだ。軍の人事における、上からのトップダウンなど、その最たるものだ」

「ブルジョワジーの利権も、守られねばならない。市壁の外のプロレタリアートの存在も、もはや無視できない」


「しょせん、メッテルニヒは、外交畑の人間なのだ。それも、前世紀の」

「いずれにせよ、宰相のやり方は、もう、立ち行かなくなってきている。彼は、政治の実権を、手放すべきだ」


 メッテルニヒに対する不満の声が、次々と上がった。


「わが国には、カール大公がいらっしゃるではないか。ヨーハン大公も。たとえ、木偶のフェルディナンド大公長男が即位されたとしても、お二人のどちらかを摂政とすれば、メッテルニヒごときを追い出すのは、たやすいはず」


 誰かが言った。

 即座に、反論の声が上がる。


「いや。両大公は、メッテルニヒにより、確実に弾かれるだろう。おとなしいルードヴィヒ大公辺りが、お飾りの補佐役に任命されのが、せいぜいだろう」



 ルードヴィヒ大公は、皇帝の、下から2人目の弟だった。上の二人の弟……カール大公・ヨーハン大公……と違って、能力にも人望にも、恵まれていない。目立たない、万事控えめな大公だった。



 ため息が聞こえた。

「奥方を亡くされてから、カール大公は、がっくり力を落とされたからな。一気に老け込まれたようだ」

「ヨーハン大公にしても、彼は、国政よりも、アルプス妻の方が大切らしいしな」

 忍びやかな笑いが、一座を覆う。


 「いっそ、長男フェルディナンドは諦め、皇帝の次男の、F・カール大公が即位なさればいいのに」


ぼやきともつぶやきともつかぬ声が漏れた。


「いやしかし。F・カール大公は、下品だと評判だ。彼には、人気がない。何より、覇気がないし、やる気もない。父帝が崩御しても、後を襲うのはまっぴらだと、公言しているそうだぞ」


「……」

「……」

人々の間に、絶望が、広がっていく。



 「だが、F・カール大公の奥方ゾフィー大公妃は、勝ち気な方だぞ。彼女はすでに、フランツ・ヨーゼフ大公を挙げておられる」


 F・カール大公と、ゾフィー大公妃の間には、去年の夏、男の子フランツ・ヨーゼフが生まれたばかりだ。


 暖炉のそばにいた紳士が鼻を鳴らした。

「仮に、今上帝の長男、フェルディナンド大公が即位したとしても、彼に子どもをつくることは不可能だ。必然的に、その次の皇帝は、彼の弟の子、つまり、ゾフィー大公妃の産んだお子ということになる」


「ゾフー大公妃か……」

「賢くで美しい。それに何より、まだお若い」


「どのみち、帝位は、彼女の息子の元へ行くのだから。勝ち気な上に、彼女には、怖いものなしだ」

「ゾフィー大公妃なら、メッテルニヒに引導を渡すことも可能なのではないか。なにしろ、女は、自分の子どもの為なら、なんでもするからな」


 人々は、一様に、同調した。

 最初の老伯爵が首を傾げる。


「だが、いかに聡明な奥方がいたとしても、F・カール大公は次男だからな。ハプスブルク家の皇帝は、長男の即位が鉄則だ」

「長男? だが、フェルディナンド大公皇帝の長男の即位は、メッテルニヒの独裁が続くことを意味する」

「オーストリア帝国衰退を防ぐために、我々は、長くは待てないというのに」


堂々巡りだった。



 その声は、部屋の隅から漏れた。

「つまり、フェルディナンド大公が、いなくなればいいわけだな。メッテルニヒの横暴を、これ以上続けさせない為に」


 貴族ではないようだった。裕福な市民ブルジョワジーのように見える。彼は、ふてぶてしい笑いを浮かべていた。

フェルディナンド大公が死ねば、怠惰な弟F・カール大公も、考えを改めるだろうよ」


「死ぬ……」

「そうだ」


愕然とつぶやいた男に、ブルジョワジーは、力強く頷いてみせた。


「だが、誰がやるのだ。そのような恐ろしい……」

怯えた声が問う。


「俺がやってもいい」

藁色をした、縮れた髪の男が立ち上がった。

「俺は、今年、軍を除隊になった。退職金として、俺は、900ギルダー(約540万円)を要求した。ところが、どうだ。支給されたのは、たったの100ギルダー(約60万円)だった。これっぽちでは、この先、生活できない!」


 縮れた藁のような髪の男は、少し酔っているようだった。

 呂律が回っていない。

「政府や宮廷のせいだ。早急に、今の体制は、変えられねばならない。これ以上、メッテルニヒに独裁を許してはならない。今すぐ、フェルディナンドは、死ななければならない!」


「君がやる必要はない」

顎髭の軍人が諫めた。彼はかつて、藁のような髪の退役軍人と、同じ軍にいたことがある。

「我らは、一度は、皇帝に、献身を誓った身、」


「彼がいるではないか」

 その時、あのブルジョワジーが遮った。


「彼?」

顎髭の軍人が聞き返す。


「ライヒシュタット公フランツだ」

ブルジョワジーは即答した。


「ライヒシュタット公? 皇帝の孫じゃないか!」

 部屋のあちこちで、驚きの声が上がる。

 どよめきに負けない声で、ブルジョワジーは言い放った。

「そうだ。ナポレオンの息子だ」


「ナポレオンの息子……」

人々は、初めて知ったというように、お互いに顔を見合わせた。

「……ナポレオンの息子」

口々に繰り返す。


 ブルジョワジーの男は、大きく頷いた。

「彼は、メッテルニヒにより、このウィーンに繋がれている。叔父フェルディナンド大公が即位すれば、その監禁が、まだまだ続くのだ。それに……」


にやりと笑った。下卑た笑みだった。

「彼とゾフィー大公妃は、仲がいい」


 人々の間に、動揺が走る。やがて、次々と声が上がった。

「フェルディナンド大公でなければ、皇位は、彼女の夫F・カール大公のものだ」

「それか、彼女の息子フランツ・ヨーゼフ殿下の」

「フェルディナンド大公さえ、いなくなれば、ゾフィー大公妃は、大きな力を得ることができる」


 人々を制し、一際高い声で、ブルジョワジーは言い放った。

「そうなれば、彼女は、ライヒシュタット公を解放するだろう」


 部屋には、水を打ったような沈黙が広がった。


 なおも、彼は続けた。

ライヒシュタット公は、彼女ゾフィー大公妃の為なら、何だってやるだろう」


 この認識が、人々の頭に染み込むまで、ブルジョワジーの男は待った。

 やおら、口を開いた。


「我々が、本当に取り込まねばならないのは、ライヒシュタット公だ」







 部屋から、次々と、紳士方が出てくる。

 ボーイは、彼らの帽子とステッキ、外套を手渡すのに、大わらわだった。


「ありがとう」

最後の紳士が言った。


 見たことのある顔だった。

 サレルノ公レオポルドだ。(※)

 レオポルド大公は、なにかと評判の悪い大公だった。その言動が不穏だというので、秘密警察の尾行がついてきたこともあった。


 このクラブには、皇族も来ているのだな、と、ボーイは思った。

 だが、それは、うさんくさい大公だ。








・。・。・。・。・。・。・。・。・。


※サレルノ公レオポルト


祖父の皇帝今上帝の従兄弟に当たります。彼の姉が皇帝の2番めの妻(マリー・ルイーゼらの母)で、この姉の産んだ娘(マリー・ルイーゼの同母妹)を、彼は、妻に迎えています。


ホームページに系譜がありますが(「6 ライヒシュタット公とボルドー公」)、いずれお話の中で触れていきますので、ここでは、皇族だというだけのご理解で大丈夫です。




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