オーストリア皇帝フランツ 1



 「ほんの数語しか、書けなかった」

モルに手紙を渡し、F・カールは啜り泣いた。

「彼が死んだこと、マリー・ルイーゼと私が立ち会ったこと……」

泣きながら、彼は続けた。

「君たちの奉仕には、感謝している。そのことも、書き添えておいた」



 F・カール大公は、すっかり力を落としてしまっていた。従者の前で、ひと目もはばからず、泣きじゃくっている。


 彼は、病床の甥の元を、ほぼ、毎日、訪れていた。マリー・ルイーゼと一緒に、時には、一人で。

 一人で来ると、ちょっと顔を見るだけで、すぐに立ち去っていった。甥が眠っていると聞かされると、決して、部屋に入らなかった。


 下品だと、悪く言われがちな大公だ。

 宰相の傀儡になるしかないフェルディナンドに代わり、皇帝に即位するだけの気概も覇気もない。


 ……でも、この人は信頼できる。

 モルは思った。

 ……だって、ずっと、プリンスのことを好きでいてくれた……。





 朝の6時にウィーンを出、16時間半、馬に乗り通して、モルは、リンツに着いた。

 皇帝はじめ、宮廷は今、このリンツに滞在している。

 夜の10時を回っていたので、友人の家に泊めて貰った。眠れぬ一夜を過ごし、翌朝、皇帝の謁見を許された。





 「悪い知らせなのだな」

 モルの訪れが、すでに、最愛の孫の死を、物語っていた。

 皇帝の目には、涙がいっぱいに溜まっていた。

「ウィーンに帰ったら、あの子に会いたいと望んでいた。彼に望みがないことはわかっていた。しかしもう一度、生きている彼に会いたかった」


「非常な苦しみであったにも関わらず、プリンスにおかれましては、最後の数週間は、純粋な、彼本来のお姿であられました」


 モルが奏上すると、涙が、老いた頬を、静かに伝った。


「死は、あの子にとって、希望であり、祝福でさえあった」


 この不思議な言葉を、モルは聞き流した。

 死の間際の苦しみを、彼は、間近で見ていたからだ。あの苦しみから逃れることができるのなら、確かに死は、救済だ。

 だが、皇帝は、彼の、最後の数週間を知らない……。


 静かに、皇帝は、涙を拭った。

「もう3週間ほど早く死が訪れたなら、と、願わずにはいられない。死の瞬間に立ち会えたなら、私も、安心できたであろうに。……教えて欲しい、モル男爵。あの子は、キリスト教徒として死んだのか?」


 皇帝は、プリンスの最期を心配しているようだった。

 ワーグナー神父を、露骨に追い払っていたことが、皇帝の耳に入っていたに違いないと、モルは思った。


「最後の日々におかれては、プリンスは、とても柔らかくなられました。彼本来の、穏やかで優しい性格が出てきたものと思われます。ご臨終には、お母上のマリー・ルイーゼ様と、叔父君のF・カール大公が、立ち会われました」


 深い溜め息を、皇帝は吐いた。

「あの子の死は、あの子自身と、わが王朝……両方にとって、本当に不幸だったのか。それを、考えずにはいられない」


 意外なことを、皇帝は、口にした。

 モルは、混乱した。


 プリンスの死は、プリンスにとって、不幸なことだ。ウィーン宮廷にとっても、大変な損失だ。

 モルにとっては、……他の従者たちにとっても……、それは、間違いのない事実だ。


 ……しかし、皇帝は疑っている?

 プリンスの死は、プリンスにとっても、宮廷にとっても、よいことだった、とでも言いたいのだろうか?



 皇帝の考えは、プリンスの境遇だけではなく、彼自身の性格に、深く起因するようだった。


「彼の不幸な性格は、その中に、悪の存在が内在することを予感させた」


 旅の疲れと、不眠で、モルの頭の働きは鈍っていた。

 皇帝の言葉の意味が、入ってこない。

 なおも、皇帝は続けた。


「私が生きている間は、大丈夫だろう。不幸が襲うのは、私の子どもたちだ」


 どうやらそれは、政治的なことだと、モルは判断した。

 ……ナポレオンの息子であったということだろうか。


「モル男爵。あなたは、いつも、孫のそばにいた。彼がいつ、どこで、そのような倒錯した思想に染まったのか、ご存知ないだろうか」


 モルが理解できていないと感じたのだろう。唐突に皇帝は、孫と観に行った芝居の話をした。

 これは、あまり適切な説明とはいえなかった。『エンツォ王』というその芝居を、モルは、観ていない。


 「国民の主権を守る、とか、そういうお話でしょうか?」

なんとか皇帝の話に沿おうと、モルは尋ねた。


「いいや! 皇帝は、民の下僕だ。私は、国民主権に、反対しないよ」

 涙の乾いた目でモルを見つめ、皇帝は、付け加えた。

「もし、私の民が、もう、私のことを愛していないと……臣下がそう、具申するのなら」


「申し訳ありませんっ!」

慌ててモルは許しを乞うた。



 この話がどこへ向かうのか、もはやわからなくなっていた。

 だが、皇帝は、モルの答えを待っている。

 プリンスが抱いていた思想について、知りたがっている。


 思い切って、モルは話を継いだ。


「私が付き人になりましてから、気がついたことを申し上げます。プリンスは、短い間に、善と悪、両極端に、ころころと意見を変えることが、よくありました。しかしながら、彼の思考様式が、もう少し固まったのなら、彼は、ご自分の経験に鑑み、必ずや善にのみ、目を向けられただろうと思われます。残念ながら、彼は、しばしば、悪を取り込むことによって、ご自身が、より賢明になりたいと望んでおられる節がありました。ですが、私の意見を申し上げるならば、彼は、絶対に、悪に傾倒することはなかったと、確信しております」


「あなたは正しい」

皇帝はつぶやいた。

「あなたは、彼を、よく理解してくれた。感謝します、モル大尉。この1年半の間、あなたは、常に、彼と共におられました」


 そこで皇帝は言葉を切った。

 探るように、尋ねた。

「あの子には、何か、考えがあったのだろうか」


「考え、と申されますと?」

「展望。計画。具体的な……」


 それは、モル自身も、心に引っかかっていたことだった。

 だがプリンスは、決して、心の裡を、打ち明けてくれなかった……。


「プリンスは、ご自分でも、何を望んでいたか、わからなかったのではないでしょうか。それこそが、私の慰めであり、私が彼に仕え続けることができた理由です」


 ……彼の計画は、神に逆らう、恐ろしいものであったに違いない。

 モルにはわかっていた。それでも、最後まで、彼についていきたかった。

 だが、皇帝に奏上すべきではない。



 30分程で、会見は終わった。

 皇帝に続いて現れた皇妃は、身も世もあらぬほど、泣き崩れていた。

 子どものいない彼女にとって、フランツェンは、同時に、息子でもあったのだ。







 「なんだか、奇妙な会見でしたね」

フランソワのそばに佇み、アシュラがつぶやく。

「皇帝は、あなたの死が、悲しくないのでしょうか」


「悲しいさ」

細い声が返した。


「でも、死は、あなたにとっても、宮廷にとっても良いことだった、とでも言いたげだったじゃないですか」

不満げなアシュラを、フランソワは遮った。

「今、お祖父様は、ほっとしていらっしゃる。なぜなら……」


 風が吹いた。


「さあ、アシュラ。使い魔の力を見せてくれ。お祖父様に会わせてほしい」







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