シューベルトの子守歌 2



 「……殿下」

すうーっと、アシュラの目が細くなった。

「俺は、あなたに文句を言いたい。無理のし過ぎです! シェーンブルン宮殿に移ってからだって、あなたは、毎日のように、外出された。あれだけの咳と高熱があったのに! マルファッティ侍医なぞは、病が重篤になったのは、殿下ご自身のせいだと言ったんですよ? 俺はもう、悔しくて悔しくて……」


「マルファッティも、自分のヤブ処置のせいだとは言えないからな」


「亡くなる間際まで、お庭に出たがって。椅子に座れない状態になるまで、一日に何度も! ……ベッドで休まれていた方が、お楽でしたろうに」

 だから、メフィストフェレスなどは、自殺だと決めつけたのだ。

「いったい、なぜ、殿下は、あんなに、外へ出ることにこだわられたのですか?」


 アシュラが詰め寄ると、フランソワは肩を竦めた。


「それは、モルにも言った。体を鍛える為だ。使わなければ、筋肉は衰えてしまうからな。病が治った時に、体がついてこれないようでは困る。軍務復帰に時間がかかる」



 誕生日までという期限付きで、フランソワの顔を知っている唯一の親族、従姉のエリザ・ナポレオーネが、国境で待っていたから。

 叔父のルイが、マルファッティ医師の診療への疑問と、民間療法の採用を勧めてきたから。

 一日も早く、軍務に戻りたかったから!



「……」


 アシュラにもわかっていた。彼は半分信じ、それでも、残り半分を探るような目で、フランソワを見つめた。

 フランソワは、ため息をついた。


「正直に言おう。僕はもう、我慢がならなかった。ハプスブルクの城の、澱んだ空気を吸うことに。オーストリアの宮廷に囚われていることに! たとえ庭なりとも、僕は、外の空気に触れたかった。この体に、外気を取り込みたかった!」


「殿下……」

 アシュラは項垂れた。だがすぐ、思い切ったように顔を上げた。

「ひとつだけ、確認したい。殿下、あなたは、自ら、命を手放そうとは、なさいませんでしたよね?」


「当たり前だ」

アシュラを見下ろし、プリンスは言い放った。

「僕には、やることがあるのだから」


「ワーグナー司祭を退けたのは?」

「仮にも国家転覆に関わる計画だ。彼に、胸のうちを明かすわけにはいかないだろう?」



 イタリアの統一。

 フランスへの帰還。そして、ゾフィーの子どもたちと図る、オーストリアと、フランスの協和。

 また、プロケシュを介しての、トルコとの友誼。

 ヨーロッパと隣接するアジアを、同じ価値観のもとにまとめ、真の平等と平和を築き上げる……。



ナポレオンの意志を継ぐ為に。父の誤りを正す為に。そして、父を乗り超えるために」


 ……幼い頃から、弱い立場の者を気にかけ、自らの豪奢を嫌い、質素に暮らしてきたフランソワ。


 アシュラの目が輝いた。

「あなたなら、きっと、弱い者の立場に立てる為政者になれたでしょう」


「時代は変わる。必ずしも帝王である必要はない。もしかしたら、軍事力でさえ、ないのかもしれない。けれど……人々の平等は、代わることのない、普遍の真理だと、信じる。それこそが、僕が受け継ぐべき、ナポレオンの意志だったのだ」

「……」

「僕には、やることがあった。自殺などするわけがない」


「メフィストフェレスは、完敗しました」

 低い、だが、確かな声で、アシュラが宣言した。



 ……「若い命に執着したなら、救済を。けれどもし、自ら死を招いたことを認めたなら」

 ……「貴方の、その気高い魂は、私のものです」(※5)



「ですが、一時は、ひやひやしましたよ。あの日(死の前日)、あなた、『死にたい』とか、口走るから」



 ……「死。死だけだ!」

 ……「死だけが、僕の為なんだ!」(※6)



 死の間際の苦痛の中で、何を口走っても、それは、植物神経系の反射(脊髄反射)に過ぎない。

 彼の意思ではない。


 メフィストフェレスも、わかっていたはずだ。

 たとえわかっていても、悪魔は、付け入る隙を逃さない。貴重な魂が手に入る時を、今か今かと狙っている。



「でも、モルが、イタリアの話を始めたら、殿下は、すぐに、落ち着かれました。穏やかな笑みさえ浮かべて! あれで、メフィストフェレスは、完敗したんです。ざまあみろだ。俺が、部屋の外から、吸い出してやりましたよ! 低気圧に巻き込まれて、どこか遠くへ行っちまえ、って!」


 その時のことを思い出したのか、アシュラは、小気味よさそうに笑った。


「それにしても、悪魔というものは、全く、しつこいものですね。どさくさに紛れて、メフィストのやつ、あなたを引きずり込もうとしたんだ。自分のいるところ……地獄へ」



 ……「沈んでいく。沈んでいく……」



「あなたは、モルの腕にしがみつきました。彼が、あなたの最後の言葉を聞き取りました」


 ……「発泡剤……、湿布……」



「発泡剤(※7)と湿布(※8)は、マルファッティが……ヤブ医者の極みですが……言いおいていったものです。呼吸が弱まったら使うようにと。最後の最後に、あなたは医師の指示通り……、」


「内服薬じゃなかったからだ」

フランソワが遮った。

「発泡剤を塗ると、その痛みで、意識がはっきりする。湿布は、発作の後に使うんだ」


 賛嘆の目で、使い魔アシュラは、フランソワを見た。


「想像を絶する苦しみの中で、あなたは、なおも、意識を清明に保とうとした。発泡剤と湿布……、これらは、死の淵から生還しようという、強い意志の表れです。死に際の苦しみの中でさえ、あなたは、生きようとしたのだ。俺がそのことに気がついた時、ゆっくりと静かに、あなたの魂が、肉体から、離脱を始めました」


 アシュラは、言葉を途切らせた。


「さっきは、さらったなんて言ってごめんなさい。嘘です。俺はあなたの魂に付き従って、ここまできました」



 美しく、純粋で、汚れのない、その魂。

 透明で、しかし、あらゆる色に輝き、

 柔らかく形を変え……。

 それでいて、それは確かに、フランソワの姿をしていた。

 フランソワの匂いがした……。



 「殿下」

 アシュラが一歩退いた。深く頭を垂れ、恭順の意を示す。

「あなたは、ご立派でした。親族の中での己の位置に苦しみ、けれど決して、血の重みに屈しなかった。宗教が、優しい顔をして襲い掛かってきた時、毅然としてワーグナー司祭を退けた。病んだ肺で苦しい呼吸をしながら、パルマからヴァーラインを取り返し、ナポリへの旅を、綿密に計画し続けた。死の前日まで!」


 感極まり、涙ぐみながら、使い魔は続けた。


「死に際の苦しみの中にあってさえ、あなたは、虚無の安寧に身を委ねようとはせず、意識を清明に保つ為の気付けを所望した。より長く、恐怖と苦痛を味わうことになるにもかかわらず、あなたは、最後まで、生きようとした。回復の希望を、決して、手放さなかった」


 その場に、アシュラは跪いた。


「わが主、魔王よ。私は、永遠に、あなたに仕えます」


「……」

返事はなかった。


「我が君。魔王よ……」


 フランソワが顔を上げた。

「僕は、魔王になるのだな?」

「そうです」

 うきうきと、アシュラが答える。

「あなたは、俺の、永遠のあるじになるのです。この世に居場所のない魂たちを、救済し、全ての人類を、その足元にひれ伏させるんだ!」

「そうなったら、僕は、人ではなくなる?」

「そういうことになりますね。魔王ですから。つか、殿下はもう、死んでますし」


「お祖父様に会いたい」

「皇帝に?」

「そうだ」

「今、リンツにいますものね。だから、具合が悪くなってから、一度も、会うことが叶わなかったんですよね」


 まっすぐにアシュラを見つめ、フランソワは言った。

「魔王になる前に、僕は、お祖父様に会いたい」


 不思議そうに、けれど、アシュラは頷いた。

「ちょうどモルが、リンツへ行くところです。あなたの死を知らせに。いいですよ。彼と一緒に、皇帝に会いに行きましょう」









*:..。o○☆○o。..:*゜*:..。o


※5

10章「賭け」


※6

12章「雲隠れ 4」

以下、引用は、「雲隠れ」からです。


※7 発泡剤

外用することによって、皮膚に水疱を引き起こし、治療します。皮膚や内科の病気に用います。飲用する場合もありますが、毒性が強いので、ごく微量を用います。ここでは、湿布と並んで「塗る」とあったので、外用です。


※8 湿布

19日に大きな発作があった後、プリンスは、温めたタオルと共に湿布を、胸や腹に乗せ、そのまま眠ったということがありました。(12章「雲隠れ3」)





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