オーストリア皇帝フランツ 2



 皇帝は、モルの届けた、メッテルニヒからの手紙を読んでいた。



陛下におかれましては、ご帰国前に、ライヒシュタット公が亡くなられたことは、幸いなことであられました。陛下は、悲痛な光景をご覧になることを免れたからです。私は最近、公を尋ねましたが、あのようなひどいご病状は、いまだかつて、見たことがありませんでした。



 ……孫は、ひどく苦しんだのだ。

 乾いたはずの涙が、再び、皇帝の目から溢れた。

 彼はペンを持ち、返事を認めた。



……死は、彼自身とっても、また、私の子どもたちにとっても、そして、一般に、世界にとっても、祝福だったと考える。

 しかし私は、彼が恋しくてたまらない。





 「まだ僕を、思ってくれているんですか?」

背後で声が聞こえ、皇帝は、顔を上げた。

「フランツ?」

「ええ、僕です」


 これは夢だ、と、皇帝は思った。

 素直に彼は、夢の中に入っていった。


「当たり前じゃないか。儂はお前が、愛しい。お前が大事だった」

「子どもの頃から? ずっと?」

「もちろんだ。ランブイエで初めて会ったあの日から……、いいや、お前が生まれたその日から」

「それなら、なぜ、9歳の僕を、結核に感染させることに、同意したんです?」


 静かな間があった。

 やがて、皇帝がつぶやいた。


「やはり、知っていたのか」

「確信はありませんでした。結核は、遺伝性の病だといわれています。幸いにして、僕の身の回りで、他に、この病に犯された者は出ていませんし」

「せめてものことだ。従者達の健康が、お前の心の平安に繋がるのなら」


 皇帝がつぶやく。

 孫は、小さく頷いた。


「ですが、ある人が、幼かった僕に、教えてくれました。自分が僕を、死に導くのだ、と」

「……」

「彼女は、結核で亡くなりました」

「なるほど」


 祖父は、全てを悟ったようだった。


宰相メッテルニヒを恨まないでやってほしい」

皇帝は言った。

「彼は、彼なりに、オーストリアの、ヨーロッパの秩序を守ろうとしただけだから」


「もちろんですとも」

にっこりとフランツは微笑んだ。

「宰相は、僕を殺そうとしたわけでない。僕の命に、少し、傷をつけただけです。彼は、予感してたのでしょう。どんなに押し込めておいても、いつの日か、必ず僕は、ウィーンから出ていくと。その時、世界を混乱に陥ることのないように、彼は、僕に、手綱をつけたのです」


「全ては、この国のためだ。そして、ヨーロッパ、ひいては、世界の為でもある。……結核は、発病しないこともあると、メッテルニヒは言った。よほどの無理をしない限り、肺の奥に潜伏し続け、お前は、普通の生活を送ることができると。それは、一種の賭けだった。そして、お前は、賭けに勝った」

「……」


 青い目が、射すくめるように、皇帝を見つめている。

 皇帝は、その目をしっかりと、見返した。


「儂には、勝算があった。マリー・ルイーゼ……お前の母も、結核を隠し持っている。お前は、この病に強いと、儂は、確信していた」

「……そうですか」

「ただ、将来もし、お前が、無理をしたら……」

「無理?」


嘲るような笑いが響き渡った。皇帝が、今まで聞いたこともないような、孫の声だった。


「フランスの正統な王を追い落とすとか? イタリアを統一しようとするとか、教皇領を接収しようとするとか! ……そういうことですか?」


「戦争だ」

動ぜず、皇帝は答えた。

「お前が世界を戦場に変えようとした時、我々は、手綱を引き締めるつもりだった。その方法も、宰相は模索していた。何より、結核を患う者が、戦場で長く生きられるわけがない」


 孫を見つめ、皇帝は続けた。

「お前が、神に逆らおうとした時だ。お前の父親のように!」


「最後まで転地療養を許さなかったのは、皇帝のご意思ですね?」


 今年の春。

 皇帝と共に狩猟に参加し、芝居を観に行き……。

 あの辺りが、最後のタイミングだった。

 転地療養が、効果を上げる……。

 ぎりぎり、命を救える……。


 だが、皇帝は、転地を、ウィーンから出ることを、認めなかった。



 「エンツォ王は、お前に似ているな」

しわがれ、掠れた声で、皇帝は言った。

「そして、エンツォの父、フェデリーコ2世は、ナポレオンとそっくりだ」


 「やはり、父の名が出てきますか」

深い溜め息を、孫はついた。

「宰相が僕に植え付けた結核は、ずっと、肺の奥に潜伏したままでした。子どもの頃、何度か強い咳と発熱があったけれど、それらはいつの間にか治まっていた。僕はこのまま、発病せずに生きていけるはずだった」


「赤い黴は、ほんの微量を、試みに使ってみたのだ。実際に有害なら、同じ性質を持つものを、極力、お前の身の回りから排除する必要があるから。宰相はそう、言っていた」

「ただし、故意による結核感染という事実を、公にするわけにはいかなかった。フランク医師は、コリン先生は、ゴリス医師・シュタウデンハイム医師は……」

「侍医たちと家庭教師が、どうしたのだ?」


「お祖父様。ご存じないのですね。そうか。宰相は、皇帝を守ったわけか」

フランソワはつぶやいた。

「なら、お忘れください」


小さく指を鳴らす。皇帝は、はっとしたように、目を見開いた。

「わしは……」


フランソワが続ける。


「時間がありません。続きをお話ししましょう。覚えておいでですか、お祖父さま。16歳の夏、グラーツ城でのことを」

「ああ、食事の後、お前は、ひどく具合が悪くなった。思春期の一過性の病だと、シュタウデンハイム侍医は言った」

「思春期の病などではありません。僕は、毒を盛られたのです」

「毒だって?」


「前の年の春に、お祖父様、あなたが誤って、口にされた毒と同じものです」

「1826年に儂は死にかけたが……あれは、毒だったのか!?」

「ヒ素です。緑色の皿に塗り込められていました。ですがそれは、僕を狙ったものでした。僕が食べるべき皿を、お祖父様が、引き取って下さった。お祖父様は、僕の身代わりになってしまわれたのです」

「ヒ素? 緑の皿?」


「お陰で、僕は無事でした。この失敗から、十分な時間をおいた、1年半後、グラーツ城で、再び、毒が仕掛けられたのです」

「いったい、誰が……」


 ゆっりと、フランソワは、その名を口にした。

 モーリツ・エステルハージが、カール大公に訴えた、その名を。(※)


「毒は、ブルボン家から出たものです。……アングレーム公妃マリー・テレーズの元から」








・~・~・~・~・~・~

5章「マリー・テレーズではない」、ご参照下さい。






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