オーストリア皇帝フランツ 3
……「わんわん群れ飛ぶ蜜蜂の大群が、それはそれは喧しくて、目眩がするほどだったわ。でもね。蜂や鷲やNの字よりも、もっとずっと目障りなものがあったの。何だかわかる?」
マリー・テレーズは、フランスを訪れた親友の息子、モーリツ・エステルハージに話した。彼が、ナポレオンの息子と親しいと、知ってのことだ。
……「兵隊の人形。木馬。ラッパ。積み木。チュルリーやサン・クルーの宮殿には、子どもの玩具が、いっぱい、散らばっていたわ。それらはほんと、不愉快で邪魔だった」
……「もし、無事に生まれていたら、私にも、子どもがいたの。その子は、あの男の息子より、2つ、年下だった……」
彼女の流産は、恐らく、タンプル塔にいた時に盛られた、毒のせいだったろう。革命を標榜する「
そして、ナポレオンは、「フランス人民の皇帝」を名乗っていた……。
「マリー・テレーズが」
呆然として、皇帝がつぶやく。
「アントワネットの娘……、儂の従妹が……」
ブルボン家は恐らく、
マリー・テレーズは、ルイーゼが、パルマで、ナポレオンの生存中に、ナイペルクとの間に、二人も子どもを産んでいたことを、知っていた。
だが、彼女の息子は、そうはいかなかった。妻と違って、息子には、ナポレオンの血が流れている。
……「母親に愛されているのなら、まだ、私にも我慢ができた。けれど、彼は、そうではない。彼は、ナポレオンの息子でしかない」
マリー・ルイーゼは、来る来ると言っておいて、なかなか、ウィーンの息子の元を訪れなかった。幼い息子が、母が帰って来るのを待ち侘びているのを知りながら、何度も、約束を破った。
マリー・テレーズ……子どもを産めなかった母……は、その事実さえも、把握していた。
テレーズは、ルイーゼを知っていた。タンプル塔を出てウィーンに引き取られてきた時、ルイーゼは、まだ4歳だった。テレーズはルイーゼに、本を読んであげたり、一緒にゲームで遊んだりした。彼女は、幼い少女を可愛がっていた。ルイーゼが、彼女の産んだ子が、やがて不幸になることを、誰が望んだだろう!
しかし、ルイーゼは、息子を裏切った。裏切り続けた……。
ルイーゼへ向けられるべき、同情と共感は、自分の両親、叔母・弟を殺した革命の継承者・ナポレオンへの憎しみの前には、風の前の灯と同じだった。
……「もし、誰かが、アンリが王位に着くことを妨げようとしたら、私はその者を、生かしてはおかない」
しかも彼は、テレーズが、我が子のように愛し、養育している甥、大切なアンリ(シャルル10世の孫)を脅かす存在でもあるのだ。
「幸い、
皇帝の許可の元、幼いフランソワに、メッテルニヒが仕込んだ結核は、「保険」でしかなかった。
彼が、オーストリアに逆らい、ヨーロッパを戦場にしようとした場合、この病は、明らかに、彼の足枷となったろう。
だが、フランソワが、よほどの無理をしない限り、発病することはなかったはずだ。
しかし16歳の夏、フランス・ブルボン家が仕掛けた毒により、フランソワの体は弱り、肺に押し込められていた結核は、一気に顕在化した。
家族を革命に殺された、マリー・テレーズが、憎いナポレオンの息子に送り込んだ、ヒ素によって。
「それから先は、ご存知の通りです。僕は体調を崩しがちになり、軍務就任を、先延ばしにされた」
「お前の体調を慮ってのことだ」
「ええ。感謝しています、お祖父様」
皮肉な調子は、みじんもなかった。
「けれど僕は、軍務に就きたかった。一刻も早く戦場に出て、戦場で、死にたかった。今からでも、僕の棺桶を、戦場に、引きずっていってもらいたいくらいです、カプツィーナ教会(※ハプスブルクの墓所)ではなく! 棺の上を飛び交う弾丸の音を聞く時、僕は、初めて、心に、安らぎを覚えることでしょう」
「その傾向だ! 」
思わず、皇帝は叫んだ。
「お前は、戦争を美化している! お前はまごうことなく、
「お祖父様。どうして信じて下さらなかったのですか? 幼い日、僕の憧れは、白の上着に赤いズボンだったのに(※白は、オーストリア将校の軍服の色)」
「……フランツ、」
「僕は、オーストリア軍に忠誠を誓いました。その最高司令官である皇帝、あなたにも」
「……」
「それなのに、あなたは、僕を信じてくれなかった……」
「お前の憧れは、青に派手な金ボタンだと思っていたのだ(※フランス軍の軍服)」
「お祖父様。時代は流れていくのです。王制とか教会とか、古い権威にしがみついていてどうしますか!」
「ああ、お前は、昔から、老成していた」
皇帝は嘆いた。
「お前は、真面目で思慮深く、普通の若者が見るようには、世の中を見ていなかった。お前の見る世界は、幻想と希望で彩られていた。しかし、実際には、それらの夢は、現実の前に叩き潰されることになるのだ!」(※1)
皇帝は言葉を途切らせた。肩で息をしている。
すぐに続けた。
「いつの日か、お前の夢は、お前に、苦い失望を齎すことになるだろう。儂は……」
喉を詰まらせた。
「儂は、そのような思いを、お前にさせたくなかった!」
「お祖父様……」
フランソワの姿がゆらぎ始めた。
皇帝は気が付かない。
「儂は、あまりによく、お前を知りすぎている。だから、この地上に留まるよりも、天上に昇っていったほうが、お前にとってずっと幸福だと、思わずにいられないのだ! 今、この時も!」(※2)
フランソワの姿が、ふっと消えた。
同時に皇帝は、前のめりになり、机に伏した。
宰相への返信を受け取りに来た侍従が、執務室へ入ってきた。机に付したまま眠ってしまっている皇帝に気が付き、そっと揺り起こした。
きまり悪そうに笑い、皇帝は、寝室へ退いた。
*
「殿下」
フランソワの前で、アシュラは項垂れた。
「……殿下」
「なにを、お前が、悄気げている」
「だって……そんなにたくさんの人から、命を狙われて……
アシュラは、両手をもみ絞った。
「ああ! まさか皇帝が、黒幕だったなんて!」
「黒幕? ひどい言いようだな。だが、ああ見えて、
「最後まで、転地療法を許さなかったのは……あなたを、ウィーンから出さなかったのは、皇帝の意思だったんだ!」
アシュラは、いよいよ強く、両手を捩じり合わせた。
「殿下。ああ、なんてことだ。あなたは、あんなにお祖父様を慕っていらしたのに……」
嘆くアシュラを、フランソワが遮った。
「前に、お前、僕に尋ねたろう?」
……「教えて下さい、殿下。あなたにとって、人間とは、善なる存在ですか? それとも、悪でしかないのですか?」(※3)
「あの時、僕には答えられなかった。でも、今なら言える。人の存在は、悪だ。自分以外の何かを守ろうとする時、人は、圧倒的な悪になる。また、ならなくてはいけないのだ」
「魔王……。わが
覚えず、アシュラはひざまずいた。
「行くぞ」
「今度はどこへ?」
「まだ会っていない者のところへ」
*~*~*~*~*~*~*~*~*~
※
……「
」
は、5章「ファニーの手柄」の中にある会話文です。
※1
後に皇帝がモルに言った言葉です。
※2
これも、別の時に、皇帝がモルに語った言葉です。
※3
9章「魔王にふさわしい……」、ご参照下さい。
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