マクシミリアンは誰の子?



 F・カールが泣き止まない。

 おはよう、と言っては泣き、おやすみ、と言っては泣く。

 彼は、本当に、がっくりきていた。



「知ってるか、ゾフィー。初めて会った時、あいつ……」


 ぐすぐすと鼻をすすりながら、F・カールは、昔の話を始めた。

 思い出の中に、逃げ込もうとしているのだ。



義母はは(マリア・ルドヴィカ。皇帝の3人めの妻)に連れられ、僕は、シェーンブルンの庭園を訪れた……」



 シェーンブルンには、すでに、姉のマリー・ルイーゼとその息子フランツが、来ていた。



「二人っきりで遊んでおいで、って、母は言うんだ……」



 どうやら、マリア・ルドヴィカは、子どもたち……叔父と甥の関係だが……を、仲良くさせたいらしかった。



「でも、あいつ、生意気でさ……」



 フランツは、4歳か、5歳になったばかりの頃だったろう。F・カールは、彼より9歳、年上である。

 フランスから来たこのチビは、フランス語しか、話そうとしなかった。服も、フランス製のものにしか、袖を通さない。



「僕はその頃、フランス語の授業に落ちこぼれてたし、」



 当然、この二人に、意思の疎通はなかった。フランツは、F・カールに近寄ろうともしない。が、こちらが気になるのだろうか。おもちゃ(それは、F・カールのものだった。突然のパリ脱出で、彼は、自分の玩具を持ち出せなかったのだ)で遊びながら、ちらっ、ちらっ、と、横目で見ている。



「で、僕は、言ってやったんだ……」



 ……「僕は、フランス人の子どもとは、遊ばない」


もちろん、ドイツ語を使った。にも、関わらず、甥は反応した。


 ぎぃゃーーーーーーーーーーーーっ!


 それが、彼からの返事だった。

 慌てて駆けつけてきたマリー・ルイーゼに向かって、彼は叫んだ。(こちらは、フランス語だった。意味はあとから、家庭教師に聞いた)


 ……「ママ! このクソガキを、早くあっちへ連れて行ってよ!」(※1)



「生意気なガキでさ。くそナマイキで、でも、かわいいんだ。僕は、彼を、放っておけなかった……」




 もう、何度目になるだろうか。この話を聞かされるのは。

 それでもゾフィーは、辛抱強く夫の話を聞き、最後の方では、笑ってみせもした。



 彼女は彼女で、鬱屈していた。

 ……フランツル。

 最後に彼に会ったのは、7月5日のことだ。

 翌6日に、マクシミリアンが生まれ、22日早朝に、彼は亡くなった。


 ……亡くなるまでの、17日もの間、私は、一度も、彼に会わなかったのだわ……。


 それは、年齢の近い叔母として、何より、ウィーン宮廷での同志として、あまりにも、薄情に過ぎるのではなかったか。


 ……でも、彼には、お母様マリー・ルイーゼ様がついていらした。

 それだけが、ゾフィーの慰めだった。


 会いに行かなかったのは、産後であり、また、彼はもう、会える状態ではないと周囲が……特に夫が……彼は、毎日、フランツルに会いに行っていた……止めたからだ。

 だが、ゾフィーは疑念を抱いていた。


 ……あの子は、私を拒絶しない。

 ……どんな状態でも、絶対に。


 ちらりと、ゾフィーは、夫を見た。

 相変わらず鼻の頭を真っ赤にし、F・カールは、一枚の絵を見ていた。

 フランツルが亡くなってから、宮廷の所蔵庫から出してきた絵だ。


 1826年、レオポルド・バウアーが描いている。

 この年は、パルマから、マリー・ルイーゼが里帰りした年だった。絵には、あずまやに、皇帝の家族が集っている様子が描かれている。


 皇帝、皇妃、マリー・ルイーゼ、フランツル。

 フェルディナンド大公、F・カール、そして、ゾフィー。



 「見ろよ。このフランツの顔ったら! まるで、いたずら小僧そのものだな!」


 絵の中のフランツルは、母の日傘をステッキのように突き、得意げに母の傍に立っている。まるで、母を守る、小さな騎士のようだ。



 気持ちのいい初夏の日だった。

 ゾフィーはよく覚えていた。

 家族でプラーター公園を歩いていた皇帝一家は、絵の道具を抱えた青年に声を掛けられた。

 画学生だという。皇帝一家と気づいて、素描をさせてほしいということだった。


 ウィーンでは、皇族と市民の距離は近い。微笑みながら皇帝は頷き、一家は、気軽に、若い画学生のリクエストに応じた。


 ……「出来上がったら、見せて欲しい」

口々に言いながら、一同は、あずまやを後にしたのだが……。



「この絵のフランツルは、ひどく幼く見えるわね」

絵を見ている夫に、ゾフィーは言った。



 当時、彼は、15歳だった。背丈は、3年ぶりに再会した母と、ほぼ同じくらいになっていた。声変わりだってしていた。

 それなのに、絵の中の彼は、10歳くらいの子どもにしか見えない。顔つきも、子ども子どもしている。



「あ、それは、ほら。あの頃は、いろいろ物騒なことが続いて……」

背中を見せたまま、F・カールが言う。


 3月に、皇帝が重篤な病に陥った。幸い、すぐに回復はしたが、皇帝の病は、国民に大きな衝撃を与えた。


 8月。皇室の馬車に、三色旗が投げ込まれるという事件があった。

 馬車には、フランツルと、今は亡きルドルフ大公(皇帝の末の弟)が乗っていた。三色旗は、ルドルフ大公の膝に落ち、フランツルは気がつかなかった……。(※2)



 「メッテルニヒ辺りが言って、幼く描かせたんだろ? 諸外国のスパイに顔が知れて、誘拐でもされたら、大変だから」

 F・カールが、いつもの推測を披露した。相変わらず、ゾフィーには、背を向けたままだ。


「あなたでしょ?」

「え?」

「フランツルを子どもっぽく描くように画家に指図したのは、あなたよ、F・カール」

「……」


 F・カールが振り返った。

 愕然とした顔をしている。



 ……「叔父さんは、下品だ!」

 フランツルが、ずけずけと、叔父を糾弾し始めたのは、この頃からだった。


「フランツルは、気づいていたわよ」


「なんだって!?」

「私もよ、F・カール!」


 観念して、F・カールゾフィーの夫は、告白し始めた……。




 ……。

 愛想の良い挨拶を残して、皇帝一家が、次々と、あずまやから出ていく。


 F・カールは、最後まで、残った。

 あずまやから、全員が出ていったのを確認し、画家に笑いかけた。

 ……「君は、ライヒシュタットのこと、どう思った?」


 ……「魅惑的な貴公子だと思いました」

頬を紅潮させ、若い画家は答えた。


 ……「なるほど!」

 F・カールは、手を打った。

 ……「だが、あいつはまだ、全然子どもでさ。久しぶりにパルマから母親が帰ってきたんで、孔雀のように得意なんだ」

 ……「それは、そうでしょうね」

 ……「姉上は、予定より、早くパルマを出立したんだ。というのもね……」


 姉から見せられた、甥からの手紙を、F・カールは諳んじた。


お祖父様に聞かれたので、母上は6月の終わりにお帰りになると申し上げました。でも、大好きなママ。どうか僕のことを、『嘘つき』にして。お願い。5月になったら、こっちに来てよ……。



 24歳の画家……フランソワより9歳年上だ……は、目を、宙に据えた。(※3)

 彼の頭の中で、甥のイメージが、急激に幼くなっていくのを、F・カールは見て取った。

 密かに、ほくそ笑んだ。

 ……。




 「だって、君が、フランツとばかり、外出するから」

ぼそぼそと、F・カールがつぶやく。

「フランツとばかり並んで。あいつ、僕の背丈を抜きやがって」


 ゾフィーは呆れた。

「……だって、フランツルとなら出掛けていいって言ったじゃない!」

「うん、言った。でも、悪い噂が立ち始めたから……」

「噂?」

「君とフランツができ……、その、つきあってるって」

「フランツルは、まだ、たったの15歳だったのよ?」

 ゾフィーはため息を付いた。

「くだらない噂を、気にするなんて……」


「妻の噂を気にしない夫なんて、いないよ」

「それが私の夫だと思っていたのよ! 人の言うことなんか、気にしないのが!」


言い返してから、ゾフィーは、はっとした。

「じゃ、お産の後、私に、フランツルの病室に行かないほうがいいって言ったのは……」



 生まれたばかりの次男……マクシミリアンは、実は、ライヒシュタット公の子どもだと、ウィーン宮廷では、まことしやかに囁かれていた。


 噂は、ゾフィーの耳にも入っていた。だが、彼女は、まるで気にしなかった。息子達の養育係のマダム・ストゥムフィーダーもだ。彼女は、熱烈な、ライヒシュタット公の支持者ファンであったにもかかわらず。


 それなのに、自分の夫が、気にしていたなんて!


「まさか……まさか、そんなことで、私を彼から遠ざけたの?」


「違うよ!」

F・カールが否定した。珍しく、強い声だった。

「彼は、病んだ姿を見てほしくなかったんだ。この僕にさえ。まして、君には……」


 自分が眠っているところを訪れたせいで、後からモルがひどく叱られていた、と、F・カールは話した。


「フランツは、礼儀を何よりも大事にしていた。病が重くなった後でさえもね! でも、ベッドの上に起き上がることさえ、あの子にはもう、難しくなっていたんだ……」


おいおいと、F・カールは泣き出した。


「逆だ。逆なんだ。僕はね、ゾフィー。マクシミリアンが、フランツの子どもだったら、どんなに良かったかと思ってる。だって、そうしたら……」

鼻を詰まらせ、涙を口の中に流し込みながら、F・カールは続けた。

「そうしたら、まだ、フランツが、生きているような気がするじゃないか……」




 ……「その子は、僕の子だ。いいね?」

 ゾフィーの耳に、フランツルの声が蘇った。

 最後の秘跡を受けるよう、勧めに行った時のことだ。


 ……普通の聖餐だと告げた。でも、彼は、信じただろうか。


 聡い彼が、気がつかなかったわけがないと、ゾフィーは思っている。これが、皇族最後の儀式であるということを、彼は、間違いなく、悟った筈だ。


 ……なんと残酷なことを、自分たちは、彼にしてしまったことか。




 ベビーベッドで、むずかる声がした。

 父親の泣き声で、小さなマクシミリアンが目を覚ましたのだ。

 生まれたばかりの息子を抱き上げ、ゾフィーは尋ねた。

「あなたのお父様は、ライヒシュタット公フランツ。それでいい?」


 よだれで濡れた拳を、マクシミリアンは、突き上げた。







「いいんですか、殿下」

「いい」

「もし、会いたいのなら……」

「いいと言っている!」


 魔王と使い魔は、静かに、宮殿を離れた。








*~*~*~*~*~*~*~*~*~


以下をご参照下さい。

※1

1章「ちっちゃなナポレオン」

※2

4章「投げ込まれた三色旗と、崇高な義務」

※3 レオポルド・バウアーの絵

この絵です↓

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