だって恥ずかしいんだもん!
フランツが、宮廷の女性たちのハートを射抜いたことは、ディートリヒシュタインにもわかっていた。
それどころか、フォレスチとコリン……彼の同僚たち……でさえ、そのけなげさについて言及することが、多くなった。
……甘い顔をしてはいかん。
ディートリヒシュタインは思った。
教育とは、魂から魂への、知の伝達である。生半可なことは許されない。
しかし、今はまだ、教育以前の段階だった。
授業中のフランツには、覇気が感じられず、ディートリヒシュタインは苛立った。
そのくせ、いたずらをする時は、目を輝かせている。特に、教師を陥れるのが、大好きだ。
フランツのいたずらは破壊の芸術だと、ディートリヒシュタインは密かに名付けていた。完膚なきまでに、物を壊す。
ディートリヒシュタインが、最も耐えられなかったのは、その騒音だ。食器を叩くのはさすがに止めたが、今でも、玩具のドラムが大好きだ。
それに、あの、甲高い叫び声。
音楽を愛する彼の耳には、苦痛以外のなにものでもない。
この腕白者には、ディートリヒシュタインといえど、全力で立ち向かわなければならなかった。少しでも手を抜けば、こちらがやられる。
……ディートリヒシュタイン先生は厳しすぎる。
そんな声が……主に女性たちの間に……湧き上がっていた。
だが、こうした抗議にもかかわらず、真摯にまじめに、ディートリヒシュタインは、フランツの教育に勤しんだ。
*
所作を美しくする為に、フランツは、ダンスを習うことになった。
ある程度習熟したので、それなら、室内ホールで踊ってみようということになった。
その日。
プリンスは、髪をつやつやと撫で付け、白い小さな衣装に身を包んで、ホールに現れた。
ため息が……主に、集まった女性たちの口から……漏れた。
「まるで天使のようね」
「ええ、天使そのものですわ」
そんなささやきが、観客たちのあちこちで聞かれた。
教え子を褒められ、ディートリヒシュタインは、いささか得意になった。
だが、
……彼女たちは、プリンスの正体を知らないからな。
ディートリヒシュタインは思った。
一度でも彼のいたずらの犠牲になれば、さしもの彼女たちといえど、プリンスを敬遠するようになるだろう。
フランス人の
それもまた、ディートリヒシュタインを苛立たせた。
……
やがて、パートナーを務めるダンスの講師たちが現れた。
ホールには、人がたくさん、集まっていた。皇帝の孫のダンスを見物に来たのだ。
大勢の見物客は、フランツには、予想もしなかったものであるらしい。
プリンスは、少し、緊張しているようだと、普段の様子を知っているディートリヒシュタインは思った。
カドリーユ(4組の男女のカップルが、四角くなって踊る。スクエアダンスの先駆け)が始まった。
軍事パレードに端を発するこの踊りは、本来は、4人の騎手と馬が演じるパフォーマンスだった。フランツは、この踊りが好きだった。
小さなフランツは、スクエアの忠心を向いていた。ちょこまかと、しかし転ぶことなく、ステップを踏んでいる。
パートナーとなる講師たちが、次々と入れ替わった。
相手が変わるたび、ディートリヒシュタインは、はらはらとした。
だが、さすがというべきか、講師たちは、自分たちの腹の辺りまでしか身長のないフランツを、巧みにリードしていた。
気がつくとディートリヒシュタインは、両手を握りしめ、息を詰めて、教え子の踊りを見ていた。
一曲、終わった。
続いて、次の音楽が流れる。
プリンスが、ちょこんと、お辞儀をした。
「いいぞ、フランツ!」
観客の中から、声が飛んだ。
皇帝の弟、アントン大公の声だ。声のした方向に、フランツの頭が、わずかにふれた。
次の瞬間、その体が、大きく傾いだ。
前にいた講師が、すばやく手を差し伸べた。だが、間に合わなかった。フランツは自分の足に躓き、転んでしまった。
しばらくの間、彼は、立ち上がろうとしなかった。
ホールが、しーんとした。
やがて彼は自力で起き上がった。赤い顔をしている。
何事もなかったかのように、楽団が音楽を再開した。
その後、踊り手が入れ替わり、また、観客達も踊りに加わり、ダンスパーティーが始まった。
……プリンスがいない。
混雑したホールを、ディートリヒシュタインはあちこち探し回った。ホールは暑く、人いきれがすごかった。早くプリンスを見つけて、部屋に連れ帰らなければ。
やっとのことで彼は、ホールの隅で、壁に向かって立っているフランツを見つけた。
「探したぞ、フランツ君。こんなところで何をしているんだ?」
ディートリヒシュタインが声を掛けると、ぱっと振り返った。
「だって、恥ずかしいんだもん!」
未だに顔は真っ赤だった。弾けそうな赤い頬をしたまま、彼は叫んだ。
「だって、ほんとにほんとに、恥ずかしいんだもん!」
……う。かわいい。
ディートリヒシュタインは陥落した。
……たしかにこれは、天使だ。
あわてて、心の中でつけ加えた。
……外見は。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます