だって恥ずかしいんだもん!


 フランツが、宮廷の女性たちのハートを射抜いたことは、ディートリヒシュタインにもわかっていた。

 それどころか、フォレスチとコリン……彼の同僚たち……でさえ、そのけなげさについて言及することが、多くなった。


 ……甘い顔をしてはいかん。

 ディートリヒシュタインは思った。

 教育とは、魂から魂への、知の伝達である。生半可なことは許されない。


 しかし、今はまだ、教育以前の段階だった。


 授業中のフランツには、覇気が感じられず、ディートリヒシュタインは苛立った。

 そのくせ、いたずらをする時は、目を輝かせている。特に、教師を陥れるのが、大好きだ。


 フランツのいたずらは破壊の芸術だと、ディートリヒシュタインは密かに名付けていた。完膚なきまでに、物を壊す。

 ディートリヒシュタインが、最も耐えられなかったのは、その騒音だ。食器を叩くのはさすがに止めたが、今でも、玩具のドラムが大好きだ。


 それに、あの、甲高い叫び声。

 音楽を愛する彼の耳には、苦痛以外のなにものでもない。


 この腕白者には、ディートリヒシュタインといえど、全力で立ち向かわなければならなかった。少しでも手を抜けば、こちらがやられる。


 ……ディートリヒシュタイン先生は厳しすぎる。

 そんな声が……主に女性たちの間に……湧き上がっていた。

 だが、こうした抗議にもかかわらず、真摯にまじめに、ディートリヒシュタインは、フランツの教育に勤しんだ。





 所作を美しくする為に、フランツは、ダンスを習うことになった。

 ある程度習熟したので、それなら、室内ホールで踊ってみようということになった。


 その日。

 プリンスは、髪をつやつやと撫で付け、白い小さな衣装に身を包んで、ホールに現れた。


 ため息が……主に、集まった女性たちの口から……漏れた。

 「まるで天使のようね」

「ええ、天使そのものですわ」

そんなささやきが、観客たちのあちこちで聞かれた。


 教え子を褒められ、ディートリヒシュタインは、いささか得意になった。

 だが、


 ……彼女たちは、プリンスの正体を知らないからな。

 ディートリヒシュタインは思った。

 一度でも彼のいたずらの犠牲になれば、さしもの彼女たちといえど、プリンスを敬遠するようになるだろう。


 フランス人の女性レディたちに育てられたプリンスは、身分を問わず、女性にだけは、大変丁重で礼儀正しかった。

 それもまた、ディートリヒシュタインを苛立たせた。

 ……二重基準ダブルスタンダードはよろしくない。



 やがて、パートナーを務めるダンスの講師たちが現れた。

 ホールには、人がたくさん、集まっていた。皇帝の孫のダンスを見物に来たのだ。


 大勢の見物客は、フランツには、予想もしなかったものであるらしい。

 プリンスは、少し、緊張しているようだと、普段の様子を知っているディートリヒシュタインは思った。


 カドリーユ(4組の男女のカップルが、四角くなって踊る。スクエアダンスの先駆け)が始まった。

 軍事パレードに端を発するこの踊りは、本来は、4人の騎手と馬が演じるパフォーマンスだった。フランツは、この踊りが好きだった。


 小さなフランツは、スクエアの忠心を向いていた。ちょこまかと、しかし転ぶことなく、ステップを踏んでいる。


 パートナーとなる講師たちが、次々と入れ替わった。

 相手が変わるたび、ディートリヒシュタインは、はらはらとした。

 だが、さすがというべきか、講師たちは、自分たちの腹の辺りまでしか身長のないフランツを、巧みにリードしていた。


 気がつくとディートリヒシュタインは、両手を握りしめ、息を詰めて、教え子の踊りを見ていた。



 一曲、終わった。

 続いて、次の音楽が流れる。

 プリンスが、ちょこんと、お辞儀をした。


「いいぞ、フランツ!」

 観客の中から、声が飛んだ。

 皇帝の弟、アントン大公の声だ。声のした方向に、フランツの頭が、わずかにふれた。

 次の瞬間、その体が、大きく傾いだ。


 前にいた講師が、すばやく手を差し伸べた。だが、間に合わなかった。フランツは自分の足に躓き、転んでしまった。

 しばらくの間、彼は、立ち上がろうとしなかった。


 ホールが、しーんとした。


 やがて彼は自力で起き上がった。赤い顔をしている。

 何事もなかったかのように、楽団が音楽を再開した。


 その後、踊り手が入れ替わり、また、観客達も踊りに加わり、ダンスパーティーが始まった。





 ……プリンスがいない。


 混雑したホールを、ディートリヒシュタインはあちこち探し回った。ホールは暑く、人いきれがすごかった。早くプリンスを見つけて、部屋に連れ帰らなければ。


 やっとのことで彼は、ホールの隅で、壁に向かって立っているフランツを見つけた。


「探したぞ、フランツ君。こんなところで何をしているんだ?」

ディートリヒシュタインが声を掛けると、ぱっと振り返った。


「だって、恥ずかしいんだもん!」

未だに顔は真っ赤だった。弾けそうな赤い頬をしたまま、彼は叫んだ。

「だって、ほんとにほんとに、恥ずかしいんだもん!」


 ……う。かわいい。

 ディートリヒシュタインは陥落した。

 ……たしかにこれは、天使だ。


 あわてて、心の中でつけ加えた。

 ……外見は。

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