母と過ごす夏 1


 マリー・ルイーゼがパルマへ赴いて、1年が経った。

 1年経ったら、母は会いに来てくれると、フランツも、教師たちも聞かされていた。

 だが一向に、マリー・ルイーゼが訪れる気配はない。



 その年、フランツはひどい熱が3日も続き、発疹が出た。

だね。しばらくは安静にしていないといけないよ」

主治医のフランク先生はそう言って、薬を処方した。


 季節は、春から夏に移る頃だった。

 蒸し暑く、湿気の多い日が続いて、フランツは、見るからに哀れだった。


 「かわいそうになあ」

先生方の控室に戻ると、コリンはつぶやいた。

 幼い子どもがいる彼は、力ない咳をして、ぐったりしているフランツが、気の毒でならない。


 「こういう時は、母親がそばにいるべきだ。ルイーゼ様は、来られないのかな」

フォレスチも、同情的だった。


 生真面目なディートリヒシュタインは、早速、パルマのマリー・ルイーゼに、手紙を書いた。



 間もなく、返事が届いた。


 フランツがとのこと。それなら、なおいっそう、ウィーンへ行くわけにはいきません。なぜなら私は、に罹ったことがないからです。

 私は、フランツが、羨ましいです。子どもの時にこの病気に罹ってしまえば、これから先、もう二度と、この不快な病気になる心配をしなくてすみますものね……。




 「お母様から手紙が来たよね!」

勉強部屋に入ると、早速、フランツが問いかけてきた。

「お母様は、いつ、来られるのかな」


 さすがに、ディートリヒシュタインといえど、子どもが気の毒になった。


 すばやく、フランツは、ディートリヒシュタインの顔色を読んだ。

「そうか。お母様は、来られないんだね」

つぶやくように、フランツは言った。


 側仕えのフランス人の、誰がいなくなっても、フランツは泣くことがなかった。

 マリー・ルイーゼが、彼に一言も告げずに、パルマへ去っていった時も、フランツは、平然としていた。


 この時も、彼は言った。

「きっとお母様は、パルマで、貧しい人々を助けるのに、お忙しいんだね」


「フランツ君」

ディートリヒシュタインは、耐えられなくなった。

「お母上が会いに来られないというのは、君にとって、とてつもない不幸だ。君は、泣いてもいいんだよ」


「僕は、いつもお母様のことを考えているし、お母様のことが大好きだ」

 ささやくような声で、フランツは言った。

 言い終わらないうちに、涙が、滝のように溢れた。


 普段の謹厳な態度を、ディートリヒシュタインはかなぐり捨てた。

 彼は、プリンスのもとに駆け寄り、その小さな体を抱き締めた。


 「私達を、もっと、信頼してほしい。そして、君の気持ちを打ち明けて欲しい。私達はきっと、君の力になれるはずだ。みんなで力を合わせて、お母様の愛情を勝ち取ろうじゃないか」


 プリンスは、声を上げて泣き出した。

 気がつくと、なんと、ディートリヒシュタインの目からも、涙が溢れていた。


 次の授業のコリン先生が勉強部屋に来ると、二人は、まだ、泣いていた。二人の涙が合わさって流れ落ちるのを、コリンは見た。





 フランツが待ちに待った、母親、マリー・ルイーゼが、息子の元を訪れたのは、1818年夏。ウィーンを離れてから、2年3ヶ月ぶりのことだった。


 5歳になる直前だったフランツは、7歳になっていた。



 母と息子は、ウィーン近郊の、小さな町で落ち合うことになっていた。

 ところが、情報が漏れていた。

 ナポレオンの妹のカロリーヌと、弟のジェロームが、この町の、すぐ近くに住んでいたのだ。


 マリー・ルイーゼの馬車が到着すると、そこには、大勢の人たちが集まっていた。

 彼らは、ナポレオンについて戦った、かつての傭兵たちだった。

 フランス人だけでなく、スペイン人、エジプト人、ロシア人、そして、ドイツ人。あらゆる人種の人たちが、普段は静かなこの村に、集結していた。



 馬車の音を聞いて、建物の中にいたフランツが、外へ飛び出してきた。あっという間に、彼は、彼を追って出てきたディートリヒシュタインと共に、集まった人々の真ん中に、取り囲まれてしまった。


 元兵士達は、フランツの姿を見て、涙を流した。そして、ナポレオンの息子に、深々と頭を下げた。

 すぐに、歓声とどよめきが、地から沸き立つように上がった。彼らに、共通の言葉は、なかった。だが、その態度は、何よりも雄弁だった。



 「皆さん! お静かに」

ディートリヒシュタインは叫んだ。


 オーストリアに、ナポレオンの弟と妹が入国しているらしいということは、ディートリヒシュタインも知っていた。

 ナポレオンの元傭兵たちが集まったのは、二人の差金であろうと、彼は判断した。プリンスを、フランスに連れ去りに来たのだ。


 大事な大事な、彼の生徒を!


 絶対に、ナポレオンの妹と弟を、プリンスに近づけてはならぬと、ディートリヒシュタインは、緊張した。

 彼らは間違いなく、フランス語で話しかけてくるだろう。


 否。

 プリンスは、ドイツ人だ!


 ディートリヒシュタインは、叫んだ。

「皆さん! プリンスはドイツ人です。話しかけないで下さい。プリンスは、ドイツ語しか、話せません!」


 この期に及んで何を言うのだと、自分でも思ったが、とにかく夢中だったのだ。



 人の輪は、ますます狭まり、プリンスと家庭教師を閉じ込めた。

 このどこかに、ナポレオンの弟と妹がいる!


 絶体絶命だった。前も後ろも、囲まれてしまっている。ディートリヒシュタインは、プリンスを抱き締めた。



 その時、人の輪をかき分けて、隻眼の男が近づいてきた。

 マリー・ルイーゼの護衛官、ナイペルク将軍だった。


「後ほど!」

 彼はディートリヒシュタインに言うと、プリンスを、片手で抱き上げた。

 そして、人々をかき分け、マリー・ルイーゼの馬車に乗り込んだ。

 馬はギャロップで走り、馬車は土埃を上げて、去っていった。





【注】


ですが、私が読んだ限りでも、ライヒシュタット公は、


・"measles(麻疹/はしか)" にかかった、という記事

・まだ "measles" をやっていないので、注意しなければならない(16歳の時の医者の報告)


という、2つの記述がありました。


資料の信憑性からは、後者の罹っていない説が正しい気がします。ただ、この医者は、16歳からの主治医なので、幼い頃のことは、前任者から引き継いでいない可能性があります(医者の報告書を見て、ディートリヒシュタイン先生辺りが、罹った罹ったと、大騒ぎするような気もしますが……)。


前者の罹った説には、マリー・ルイーゼからの手紙も載せられていました(小説に書いたとおりです)。母親との絡みで表現したかったので、こちらを採用しました。


いずれにせよ、ライヒシュタット公は、これ以降、麻疹に罹っていません。




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