母と過ごす夏 2


 これより以前、ナポレオン2世をフランスに返せという手紙が、何通も、オーストリア政府に寄せられていた。


 ボナパルト派からのみではなかった。


 ナポレオンの後を襲ったルイ18世のブルボン復古王朝は、次第に、民意を無視した政治に舵を切りつつあった。

 ブルボン朝の政治に不満を持つ者は多かった。自由派や共和派までもが、ボナパルニストと結んだ。。

 彼らは、ナポレオンではなく、その息子、ナポレオン2世の帰還に、期待を持った。かつてのナポレオン皇帝のように、完全に政権を掌握するのではなく、限定的な王政を望んだのだ。



 プリンスをフランスに返せ、というだけなら、まだよかった。

 中には、ナポレオン2世暗殺計画の通報、などという、物騒な手紙もあった。


 ボナパルニスト派や共和派の担ぐナポレオン2世は、現政権、ブルボン王朝にとって、邪魔な存在だった。

 フランスでは、現在の王……肥え太り、病気がちなルイ18世より、幼く可愛らしいナポレオン2世の方が、明らかに人気があった。


 ローマ王(ナポレオン2世)の肖像画がついた、小さくて身近なもの……嗅ぎ煙草入れやメダル、ポケットハンカチなど……が、フランス国内で、大量に売りさばかれた。

 これらは、非常に安価だった。

 もちろん、ナポレオン2世を身近に感じてもらおうという、反王党派の策謀だ。


 人々は、争って、ナポレオン2世の肖像画を買い求めた。

 今や、ナポレオン2世フランソワ(フランツ)は、ブルボン王朝にとって、脅威だった。


 ブルボンの刺客が、ナポレオン2世を狙っているとの通報が、何度も、ウィーンに齎された。

 偽名、或いは通信社の特派員を名乗る者……。


 それらの殆どは、デマであると、オーストリア政府のメッテルニヒは判断した。

 密告の手紙を、メッテルニヒは、握りつぶした。




 かつてのローマ王は、何も知らなかった。

 幼いフランツは、久しぶりの母との再会に、幸せな日々を送っていた。

 朝9時から夜の10時まで、彼は、母のそばを離れなかった。





 母の滞在中の7月22日。フランツに、「ライヒシュタット公」の称号が贈られた。

 公爵は、皇帝の兄弟である「大公」に次ぐ、「殿下」である。年間の予算も、大公よりは少ないが、それなりにつく。


 祖父の皇帝の配慮だった。

 「孫はもう、ナポレオンの籍を脱した。フランスとは、何の関係もない。彼は、オーストリアのプリンスである」

 そう、宣言したのだ。


 もちろん、ブルボン王朝への、牽制の意味もあった。フランスと関わりのない、オーストリアのプリンスなら、ブルボン政権の脅威にはならない筈だ。



 「ライヒシュタット」の「ライヒ」には、ドイツ語で、「豊かな」という意味がある。「シュタット」は、都市、街。

 ライヒシュタットは、ボヘミアの、ハプスブルク家の領土(現ザークピ)の名称だ。


 いずれ、そこを、彼に授ける……そういう未来が、全くないわけではない。だが、全ては未定だった。


 ヨーロッパの情勢は、刻々と変化していた。それにともない、さまざまな思惑が、「ナポレオンの息子」に寄せられている。オーストリアの立場もある。

 フランツの将来は、相変わらず、白紙だった。


 ただ、

 ……ライヒシュタット公。


 生まれた時はローマ王で、わずか2週間だがフランス王位に在リ、やがてパルマ公国の跡継ぎと目されたが、それは叶わず……、

 ……ライヒシュタット公。




 「あの子の父親が与えた以上の名前を、誰も与えることなんかできやしないよ。ライヒシュタット公? なんだかうつろな響きじゃないか。ナポレオン・ボナパルト。この名は、世界中に永遠に響き渡るだろう。フランスの栄誉の元にね」


 ローマに逃亡中のレティシア……ナポレオンの母……そして、フランツの祖母……は、そう、くさしたという。







 マリー・ルイーゼは、1816年にパルマに出発してから、フランツが12歳になるまでの7年間に、わずか3回しか、息子の元を訪れていない。

 なかなか来てくれない母ではあったが、一度来たなら、2ヶ月近く、フランツのそばにいた。



 マリー・ルイーゼの訪れを待ちかねていた家庭教師たちは、教え子フランツの、後ろで結わえていた、長い髪を切ることにした。


 今まで、長いままにしておいたのは、 豊かで美しい金髪を、母親のいないところで切ってしまうことに、家庭教師たちのためらいと抵抗があったのだ。実際、1年前に、理髪師が呼ばれたことがあったのだが、彼が仕事を始める直前に、ディートリヒシュタインの気が変ったこともあった。



 髪を切り、より男の子らしくなったフランツを、ナイペルク……マリー・ルイーゼの護衛官だった彼は、パルマの執政官になっていた……は、狩りに連れ出した。フランツにとっては、初めての狩りだった。彼は、銃の音にも、獲物の血にも動じなかった。初めての狩りでのその胆力に、周囲の者は、驚いた。



 狩りの他にも、母の来訪中は、音楽会があったり、皇帝夫妻と一緒に旅行をしたり、少年ライヒシュタット公にとっては、楽しい日々が続いた。



 だがいずれの年も、母がパルマへ帰る時は、大泣きだった。母との別れに際し、彼は毎回、律儀に泣いた。

 あまりに泣くので、息が詰まってしまったことさえあったくらいだった。


 派手に泣き続けるフランツに、ディートリヒシュタイン先生は、トニック水(キニーネ入りの炭酸水)を飲ませたり、心を静める為に、近くの教会へお祈りに連れて行ったりした。


 ……タガが外れてしまったかな。

 ディートリヒシュタインは思ったものだ。

 ……自分が、母親に会えないのは、とんでもない不幸だなんて、言ったものだから。


 ウィーンでの日常に戻れば、フランツの嘆きは、ぴたりと治まった。むしろ、母親に手紙を書かせるのが大変なくらいだった。

 母親から来る返事は、大抵は、先生の言うことを聞きなさいという叱責なのだから、無理もなかったかもしれない。





 「君が、ナポレオンの息子か。とてもハンサムでチャーミングな少年だな」

たまたまウィーンを訪れたロシアのアレクサンドル帝にフランス語で話しかけられ、7歳のフランツは、顔を赤らめた。


 ロシア皇帝が、何を言っているのか、意味がとれない。

 フランス語を、忘れかけていたのだ。



 フランツが母に書いた、最後のフランス語の手紙は、8歳の時だった。

 9歳になると、初めて、ドイツ語で手紙を書いた。

 この年になると、フランス語は、ほぼ、完璧に忘れた。


 同時に、父の話もしなくなった。


 それはいいのだが、溌剌とした子供らしさを失ってしまったようで、ディートリヒシュタインら教師たちには、気がかりだった。



 9歳の義務として、基礎科終了の為の、科目試験が行われた。

 試験は口頭試問で行われる。試験場には、皇帝はじめ、皇族・貴族が列席する。

 香水の香りが漂い、小さな衣擦れの音さえ、大きく響く。ものものしい緊張の中で、皇族の子弟は、試験官の質問に答えなければならない。

 フランツは、優秀な成績でパスし、皇帝や教師たちを喜ばせた。

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