パパは今…… 3
フランツには、ある不安があった。
数日後、彼は今度は、優しいコリン先生に尋ねた。
「僕のお父さんは、今、西インドにいるの?」
「いいや」
「アメリカ?」
「違うよ」
「じゃ、どこにいるの?」
「教えてあげられない」
きっぱりとコリンは答えた。
プリンスの保安の意味からも、その一線は譲れなかった。お父さんのいる島へ行こう、などと言われたら、プリンスは、簡単に信じて、ついていってしまうだろう。
セント・ヘレナ島の名は、告げられない。
だが、フランツはしぶとかった。
「イギリスでしょ。でも、パパはそこから、逃げたんだ!」
「うーん」
コリンはうなった。
確かに、セント・ヘレナは、イギリス領である。しかし、ナポレオンは、今も、セント・ヘレナにいる。脱走してはいない。
「それは、間違いだな」
きっぱりと、コリンは答えた。
「僕はね、」
不意に、フランツの声が弱々しくなった。
「僕は、パパが、みじめで貧乏で、辛い思い(Elend)をしているんじゃないかと、とても心配なんだ」
「みじめで貧乏?」
そりゃ、幽閉されてたら、みじめかもしれないが。また、ルイ18世は、約束していた年金を支払わなかった……。
しかし、コリンも、フォレスチと同じだった。たった5歳の子どもに、君のお父さんは、今、貧乏で不幸なんだよ、などと告げることは、できなかった。
……この話は、どこから出てきたんだ?
すばやく、彼は、頭を巡らせた。
フランツの周りには、今は、家庭教師の他は、ドイツ人男性の従者しかいない。
彼らが、ナポレオンの話をしていたのを、フランツが漏れ聞いたのだとしたら?
ナポレオン……セント・ヘレナ……。
セント・ヘレナ(St.Helena)。
ドイツ語の”Helena” の発音は、”Elend” (みじめ、貧困)と似ている。
コリンは、大きく息を吸った。
「君は、父君が、貧乏で悲惨な生活をする、なんて、そんなことがあり得ると思うかい? あるいは、そんな可能性があると?」
フランツの顔が、ぱっと輝いた。
「あり得ないよ、そんなこと! だって、パパは凄い人だもん! 偉大な将軍で皇帝だったんだから!」
「それなら、きっとその通りだ。君の父君は、みじめな思いなんか、しておられないよ」
フランツの為に、コリンは請け合った。
情報遮断。
フランツがもし、自分の頭で考えることをしない少年だったら、この教育方針は、多大な成果をあげたことだろう。
しかし、彼は、そうではなかった。
選ばれた知識だけを授けられ、その他のあらゆる情報から隔離されることは、人を、死に追いやることさえある。それを、教師たちも、祖父の皇帝も、考慮しなかった。
*
ちらちらと、モーベヒト男爵夫人は、隣を見た。
夏の暑い日だった。
彼女は、パラソルの陰に入り、暑さを凌いでいた。
彼女の隣には、いかめしい中年の紳士……ディートリヒシュタイン伯爵……が、まっすぐ前を見て、座っていた。
……皇帝の孫は、同じ年頃の子どもと遊ぶ必要がある。
そういうわけで、フランツ少年は、今、彼女の息子ルドルフと、モーベヒト邸の庭で遊んでいた。
二人の保護者……ディートリヒシュタイン伯爵とモーベヒト男爵夫人……は、少し離れたところで、子どもたちが遊ぶ様子を見守っているところだ。
「あの、お茶にしましょうか?」
おずおずと、男爵夫人は尋ねた。
「お構いなく」
堅苦しい口調で、ディートリヒシュタイン伯爵は答えた。
さっきから、会話が何もない。というか、このこわもての伯爵相手に、何を話せばいいというのだろう。
これが、他の母親仲間だったら、子どものいたずらとか、食べ物の好みとか、急に伸び始めた身長とか、足のサイズとか、とにかく、話すことはいっぱいあるのに。
彼女の息子とプリンスは、水鉄砲で、戦争ごっこをしていた。
プリンスが的確に指示を出し、ルドルフが指示通りに動く。
……あら、こけた。まあ、うちの子ったら、なんてどんくさい……。
役割が交代した。
今度は、ルドルフが隊長だ。
だが、ルドルフは口ごもり、へどもどするばかり。ついに、竜騎兵役のプリンスが、右へ向けて、威嚇射撃を始めた。
慌てて、ルドルフが、彼に倣う。
……もうっ! ルドルフったら、ニブいんだからっ! いやだ、父親に似ちゃったのかしら。
そうだ、それに違いない、と、男爵夫人は思った。
……私の家系は、あそこまでじゃないわ。
息子のルドルフは、不幸にも、彼女の夫、モーベヒト男爵に似たのだ。
……それに比べて、プリンスはステキ。すばしこいし、頭がいいし。やっぱり、お父さんに……。
夫人は、はっとした。
プリンスの父親は、ナポレオン。
プリンスは、父親に似ては、駄目なのだ。
男爵夫人は、再び、隣を盗み見た。
この暑いのに、首元にきっちりとカラーを巻きつけたディートリヒシュタイン伯爵は、相変わらず、背をぴんと立て、まっすぐにプリンスを見ている。
子どもたちの一生懸命な様子を見ても、にこりともしない。
戦闘ごっこが終わった。
「さあ、あなた達、汗を拭いて、お水を飲みなさい。日陰で少し休まないとダメよ」
子ども相手に、夫人は、少し油断した。慌てて言い直す。
「……ええと、フランツ殿下、」
「あなた達で結構」
すかさず、ディートリヒシュタイン先生が口を出した。プリンスはつまらなそうに下を向いている。
「殿下もお水をお飲み下さい。あちらに軽いスナックが用意してあります」
プリンスが、ディートリヒシュタインへ目をやった。
遊んでいた時の生き生きとした様子は、すでに消え失せていた。家庭教師の顔色を窺っているようで、男爵夫人は、気になった。
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