頬の赤い筋



 6月に入ると、フランソワの熱は、決して、下がることがなくなった。


 その日。

 赤い顔で寒気に震えるプリンスを相手に、マルモン(※)が、長居をして帰った。

 すぐに、ディートリヒシュタイン伯爵がやってきた。


 「マルモン元帥が来ていたのか?」

伯爵は、付き人のモルに尋ねた。

「はい」


「プリンスは、少しは、具合がいいのか? マルモン元帥は、随分長く、話し込んでおられたようだが」

一抹の希望を込めて、ディートリヒシュタインは尋ねた。

「それが……」

 モルは、暗い顔で言い淀んだ。


 ディートリヒシュタインは、モルを押しのけ、プリンスの部屋へ入った。

 かつての教え子は、肘掛けのない長椅子にいた。厚いマントを肩から引きかぶっている。


 息詰まるほど、暑い日だった。

 それでも彼は、がたがた震えていた。


 「具合はどうだね?」

 やや強めの声で、ディートリヒシュタインは尋ねた。

 プリンスの左の耳は、ほぼ、機能していないからだ。

 

「絶好調です」

マントに埋もれたまま、彼は、答えた。

「もう3日も、熱が出ていません」


「フランツ君……」

 思わず、子どもの頃の呼び名が出た。


 ……熱が出ていないだと!

 現に今現在も、彼は、高熱からくる悪寒に、震えているではないか。

 ……なぜ、辛い、苦しいと、言ってくれないのだ。

 ……この私にさえ!


 これほどの苦しみに、一人で耐えるプリンスの孤独に、ディートリヒシュタインは絶望した。


 ……だがそれは、自分たち家庭教師が育んでしまったものではないのか。

 ……常に彼の行動を「監視」してきた、自分たち、家庭教師が。


 ふと、ディートリヒシュタインの目が、プリンスの頬に吸い寄せられた。そこには、赤い筋が走っていた。


 立っていられないくらいの衝撃を受けた。


 ディートリヒシュタインもまた、身の回りの者を、何人か結核で亡くしている。その末期の様子を、思い出したのだ。彼らのある者は、死の間際に、このような赤い筋を、頬に浮かべていた……。


 ……いよいよ、末期なのか。


 よろめく足取りで、彼は、プリンスの部屋を出た。

 控えの間では、モルとその上官ハルトマンが、何事か話し合っていた。どうやら、長居をしがちなマルモン元帥の訪問を、どうやったら断ることができるか、相談しているらしかった。


 難しい顔で話し合う将校二人の横を、よろよろと通り抜け、ディートリヒシュタインは、宮殿の外へ出ていった。





 家に帰り着くとすぐ、彼は、パルマのマリー・ルイーゼへ向けて、手紙を書いた。


このような場合は、真実を語らねばなりません。それが私が、たびたび、プリンスの容態が危険なものであり、病は、急速に進行していると申し上げてきた理由です。今現在、試みられている治療は、どれも、彼を治すことができません。なぜなら、彼の生命力が、目に見えて衰えているからです。


(中略)


もし、女公陛下が、生きているプリンスにもう一度お会いになりたいのなら、どうかどうか、今すぐに、馬を馬車につけて、飛び乗って下さい。

陛下のお越しが必要です。自然の摂理が、我々の最愛のプリンスに残した時間は、誰にもわかりません。







 ……医者は、神経のせいだという。けれど、具合が悪いのは、腹部だと思う。


 イタリアで、マリー・ルイーゼは、考えていた。

 立て続けに届くディートリヒシュタインからの手紙に、彼女は、逡巡していた。


 ……シェーンブルンへ行かなくてはならないのか。

 ……私自身、こんなに体調が悪いのに?

 ……長旅は、無理だと思う。


 父の皇帝に相談しよう、と、マリー・ルイーゼは思った。


 もうすぐ、父の皇帝は、トリエステ(イタリア半島北東の、付け根にある街。オーストリア領)に来ることになっていた。

 長引くイタリアの混乱への対応を、協議する為だ。


 6月4日、皇帝はトリエステに到着し、翌5日、マリー・ルイーゼは、父の皇帝に合流した。





‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥


※ マルモン元帥

かつて、ナポレオンの部下だった軍人です。マルモンは、ナポレオンの悪いところも教える、という条件で、ライヒシュタット公の元へ通うことを、メッテルニヒから許されました。(8章「裏切り者のラグーザ」)


現在マルモンは、フランス7月革命で、オーストリアへ亡命中です。


なお、マルモンの講義は、前の年の4月で終わっていますが、それ以降も、フランソワの元を訪れていたようです。ナポレオンの思い出話でもしてたのでしょうか……。









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