パリ 6月暴動


 パリの街に、再び、バリケードが築かれた。

 事の起こりは、6月1日の、ラマルク将軍の死だった。



 ラマルク将軍は、ナポレオンの元帥だった。ナポレオンがセントヘレナに流された後、フランス国外に追放された。しかし、3年後に戻ってきて、ブルボン家の旧体制アンシャン・レジームに対する、反撃の論陣を張った。やがて、国会議員に選出され、ルイ・フィリップ王朝の今に至るまで、激烈な反体制派として、脚光を浴びていた。


 ラマルク将軍の目は、貧しい労働者階級に向けられていた。それゆえの、ブルボン王制アンシャン・レジーム批判、また、ブルジョワ王制ルイ・フィリップ批判だったのだ。


 そしてまた、ラマルク将軍は、最後まで、ナポレオンの元帥だった。彼は、100日天下の諸将から贈られた剣を抱いて、臨終を迎えた。ちなみに、ナポレオンの100日天下の折、彼は、ヴァンデ地方へ、王党派の暴動鎮圧に赴いていた。


 葬儀では、反体制派による混乱が懸念された。ラマルクの葬儀は、厳重に管理され、厳戒裡に行われることとなった。



 ところで、その半月前の5月16日に、カシミール・ペリエが没していた。

 ルイ・フィリップの首相であった彼の葬儀は、大規模に、金をかけて行われていた。



 フランスでは、ここ5年ほど、ひどい不作が続き、物価が上昇していた。民衆、特に労働者階級の間には不満が鬱積していた。


 そこへ、コレラが襲った。


 ルイ・フィリップ現政権により、市民階級ブルジョワジーが保護され、栄華を極める一方で、労働者階級プロレタリアートの困窮は増すばかりだった。


 そして、現政権首相、カシミール・ペリエの華美な国葬。

 続く、民衆への同情厚いラマルク将軍の葬儀。あまりに無情で、ものものしい……。


 この落差は、民衆の怒りに火を付けた。



 6月5日。義憤を感じた民衆は、ラマルク将軍の棺を取り囲んだ。

 その数は次第に増していった。やがて、共和派や、亡命中のポーランド人、イタリア人も加わった。


 ついに、葬列は叛徒の群れと化し、棺を包囲したまま、バスティーユに向けて、行進を開始した。


 政府軍はこれに向けて発砲、暴動は本格化した。


 もとより、警戒を強めていた、政府の反応は早かった。

 すぐに、国民衛兵ら、非常勤兵が集められ、暴徒らの鎮圧が行われた。


 民衆は武装し、サン=マルタン通りとサン=ドニ通り周辺に、バリケードが築かれた。





 翌6日。

 サン=ドニの裏通りは、静まり返っていた。

 しかし、辺りは、明らかに異様だった。


 積み上げられた敷石の上には、屋根の垂木たるき、引き抜かれた煙突、戸棚、テーブル、椅子、とにかく、ありとあらゆるものが、積み上げられ、バリケードとなっていた。


 まるで、フランス大革命の再来のように。そして、2年前の7月革命の再現のように。



 通りの角に、一人の男が現れた。

 ゆっくり、ゆっくり、バリケードに向けて歩いていく。男は、記者であることを示す、目立つ腕章を身につけていた。


 微かな音がした。

 敷石に僅かに開けられた銃眼から、銃身が、彼を狙っていた。


「俺だ。ユゴーだ。エミールに会いたい」

腕章を示し、男は言った。


 6月の路上を、白い蝶が、幻のように飛んでいった。


 「ユゴー」

 バリケードの向こうで声がした。

 エミールだ。

「来てくれたんだな」

「違う、エミール。俺は、お前を止めに来た」

「帰れ」


銃口が、はっきりと、彼を狙った。


「ユゴー、お前にもわかるだろう? 今こそ、ローマ王即位の時だ。ルイ・フィリップではダメだ。大衆と、そして、憎い政府軍だが、軍もまた、ローマ王を支持している。アンリ5世ブルボン家の王子なんかより、ずっと! ローマ王しかいないんだよ、フランスの王は!」


「落ち着け、エミール。共和派に利用されているのがわからないのか。ハイネというドイツの詩人が言っているぞ。ナポレオン2世は、反体制の始まりだと」



 「ナポレオン、万歳」の声が、ないわけではなかった。しかしそれは、共和派の挙げるスローガンだった。

 「共和党、万歳!」と叫ぶのは、ロベスピエールの恐怖政治の時代を思い起こさせるから、好ましくなかったのだ。その代わりに、彼らは、「ナポレオン、万歳!」と叫んだ。



「ユゴー、お前、ローマ王を、ナポレオン2世を、貶めるつもりか?」

危険なほど、冷たい声だった。


「貶めてなんかいない。彼を利用するなと言いたいだけだ。彼を、共和派に利用させてはいけない。いずれにしろ、いいか、よく聞け、エミール。俺は前に言った。フランスに来れないというのが、問題だ、と」

(※9章「ユゴーとエミール」ご参照下さい)


大きく息を吸い、ユゴーは続けた。

「そして、今回もまた、彼は来ない」


「そんなこと、あるものか! 彼は来る! 絶対!」

「来れないんだよ!」

思わず、ユゴーは怒鳴った。


 自分の声に、はっと正気づき、トーンを下げた。

「だって、彼は、死にかけている……遠いウィーンの、とばりの中で」


「そんなの、デマだ!」

激しい声が遮った。

「俺たちは、彼を信じている。俺たちの気持は、純粋だ。純粋に、ナポレオン帝国の復興を望んでいるんだ。ナポレオン2世の即位をね! 共和派に利用されてなんかいない。だから、この蜂起が成功すれば、ローマ王は必ず、フランスへ来てくれるはずだ」


「いいや、来ない。噂は本当だ。ライヒシュタット公は今、死の床に就いている」

「信じるものか!」


 すぐそばの銃眼がこじ開けられた。

 怒りに燃える目が、睨みつけてくる。


「あのローマ王が。生命力に満ちた、金髪碧眼の王子が! 彼は、21歳になったばかりだ。まだ、死ぬべき年齢ではない」

「結核だ。白いペストに侵されたのだ」

「……信じない」


「信頼できる筋からの情報だ。シャラメ書店の店主も、同じことを伝えてきた」

「いいや!」


声が、一層の烈しさを増した。強い信念を込め、エミールは叫んだ。

「俺らがパリを制圧すれば、ルイ・フィリップを追い落としさえすれば、あの方は、蘇る。どのような病であろうとも! たとえ、死の淵にあろうとも、だ!」


「エミール……」

ユゴーは、声を詰まらせた。


 辺りを見回す。

 朝方の砲撃で、バリケードの一角が崩れかけていた。布団がそこを覆っている。

 次の砲撃を和らげる為だ。

 狭い隙間から、ユゴーは素早く、手にしていた包みを押し込んだ。


「……なんだ、これは」

「それに着替えろ、エミール」


 少しの沈黙があった。


「俺を侮辱するのか」

激怒を通り越し、不気味なまでに静かな声が返ってきた。

「これは……、政府軍の軍服じゃないか」


「それを着れば、ここから、脱出できる。今からでも遅くない」

「ユゴー!」

「だが、時間はあまりない。次の大砲が、サン=ドニ通りへ向かっている。発射架に入れられ、前輪が外されていた。ここに着いたら、すぐにでも砲撃できるように。その上、砲手長は、沈着冷静な軍曹だ。急げ!」

「俺は逃げない」


「大砲だけじゃない。フランス全土から、非常勤兵たちも、続々と集められている。この戦いに、勝ち目はない」

「これは、俺の革命だ。虐げられた、俺たち世代の、革命なんだ!」

「馬鹿なことを、エミール!」


「だが、礼を言うよ、ユゴー」

語調が和らいだ。

「この軍服は、仲間を逃がすのに使わせてもらう。一番、子どもを多く持つ、父親だ。中でも、一番小さな子どもを持つ……」

詰まった鼻声で、エミールは続けた。

「ガブリエルのような子ども浮浪児を、一人でも減らす為に」



 銃眼は閉ざされた。

 ひとり、ユゴーは、その場を去るしかなかった。





 政府軍の大砲が到着した。

 満を持して、大砲が放たれる。バリケードの綻びを狙った砲弾は、布団で勢いを削がれた。


 暴徒たちも、黙ってはいなかった。中のひとりが、素晴らしい狙撃手だった。バリケードに身を隠し、彼は、大砲の砲手長を撃ち殺した。


 仲間の軍曹を殺され、政府軍に怒りが走った。

 激しい銃撃戦が始まった。


 だが、最初から、勝負は目に見えていた。

 政府軍の数は、蜂起軍を、遥かに上回っていた。そのうえ、いくらでも補充がきく。


 硝煙の霧が立ち込め、蜂起軍は追い詰められた。多くは怪我をし、または死んでいた。


 政府軍が、バリケードの壁を登ってくる。埋め込まれた硝子や尖った金属片を物ともせず、撃ち落とされても、次々に、人海戦術でよじ登ってくる。


 エミールは、防塞のてっぺんにいた。全身を晒し、カービン銃を撃ち続けていた。

 登ってくる政府軍の兵士を、なるべく近づけてから、発砲した。

 弾丸には限りがある。

 一発も、無駄にするわけにはいかない。


 足元には薬莢が撒き散らされ、火薬の匂いが漂っていた。あちこちに、たくさんの仲間が、血まみれで倒れている。まだ息があるのか、死んでしまったのかさえ、わからない。


 生き地獄だった。


 エミールの引いた引き金が震え、乾いた音を立てた。弾が切れたのだ。

「くそっ!」


 目の前に立った敵兵が、にやりと笑った。

 役立たずの銃を、エミールは投げ捨てた。腰の短刀を引き抜く。


「ローマ王、万歳!」


 力いっぱい叫んで、切りかかっていった。

 眉間に弾丸を受け、エミールは倒れた。





 2日で、暴動は鎮圧された。

 1832年のこの暴動で、帝国軍人の、目立った動きは見られなかった。

 ナポレオンの軍人は、老いて病気がちの者が多く、メッテルニヒの支持なしで行動を起こす気が、まるでなかった。





 ルイ・フィリップは再び、歓呼を以って、国民に迎えられた。

 7月王制ルイ・フィリップ王政が打破されるのは、1848年の、6月革命まで待たなければならない。







 6月5日から7日までのフランスの暴動と鎮圧は、すみやかに、ヨーロッパの御者、メッテルニヒの元へと伝えられた。

 この暴動により、ルイ・フィリップのブルジョワ政権が安定し、長期化の見通しが強まったことも。








・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥


ここに書いたのは、「6月」。ラマルク将軍の葬儀から派生した、単なる暴動です。

歴史的に重要なのは、16年後、1848年の「6月」の方です。




【蛇足:「6月蜂起」】


1848年、2月革命で、ルイ・フィリップは、退位し、第二共和制が敷かれます。その混乱の中で起きた労働者の蜂起が、「6月蜂起」です。

「6月蜂起」は、ブルジョワとプロレタリアートの、最初の大きな衝突事件としての意味を持ちます。


同じ「6月」なので、特に学生の方は、混同されないよう、ご注意下さい。





ここに描いた1832年の「6月暴動」は、あまり大きな事件ではありませんでした。皮肉にも暴動は、(完全に鎮圧されたことにより)ルイ・フィリップ政権を安定させる結果に終わりました。


しかし、この暴動に取材し、ヴィクトル・ユゴーが、『レ・ミゼラブル』に書いたことで有名です。

このお話にも、『レ・ミゼラブル』を擬した箇所があります。

心からの敬意をこめて。







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