フランス以外、どこへ行ってもかまわない
ライヒシュタット公の侍医たちが集まり、医療会議が開かれた。
話し合いそのものには、何の新味もなかった。
患者の容態は、もはや望みがないということは、医師たちの暗黙の了解だった。
「患者には希望を与えず、生活への助言を与えていく」
それが、結論だった。
「ただし、秋まで生き残った場合は、暖かい気候の地への転地療法を提言する」
*
「今年の秋と冬は、ナポリで過ごすんだ。医療会議でそう決まった」
かすれた声が話しかけてきた。
「南の地方と聞きましたが。ナポリなんですね」
かいがいしく、毛布を被せながら、モルが尋ねる。
「うん、ナポリだ」
プリンスは、とても嬉しそうだった。
だが、すぐに、不安そうな顔になった。
「何か問題はないだろうか」
メッテルニヒが、横槍を入れてこないか心配しているのだと、モルにはわかった。
そこで彼は言った。
「暖かい南の地方に行けば、あなたの健康状態に関する、あらゆる懸念は取り除かれると聞いています。宰相が反対する理由は、ないはずですよ」
プリンスは、嬉しそうだった。
イタリア旅行の旅程、行きたい都市、母と同じように、自分も蒸気船に乗ってみたいこと……。
珍しく、次々と、彼は、口にした。
頷きながら、モルは聞いていた。
……だが、決して、この人がイタリアへ行くことはないのだ。
「ナポリでは、たくさんの人と知り合いたい」
ふと、その言葉がモルの気を引いた。
ナポリには、モーリツ・エステルハージや、グスタフ・ナイペルクがいる。あの、プロケシュ少佐も、同じイタリアにいる。モルは、プロケシュが、大嫌いだった……。
「有能な若い力を合わせ、ナポリから、ヨーロッパを、世界を、変えていきたい。すべての人が等しく公平に、幸せになれるように」
「それは、素晴らしいですね」
上の空でモルは答えた。
ナポレオンの遺志を引き継いでいるのだとは、息子が
……医者たちは、イシュルの温泉さえ難しいと言っていた。
……イタリアへ行くなど、空中の城を見るようなものだ。
込み上げてくる悲しさを、モルは押し殺した。本を持ち、ベッドの右側に座る。プリンスの左の耳は、もう、殆ど聞こえていない。
朗読は、いつの間にか始まった習慣だった。モルの落ち着いた静かな声は、プリンスの気持ちを鎮め、眠りへと誘うようだった。
モルは知らない。
この声は、アルマッシィの魔法によるものだ。
ジプシーに育てられた妖女……プリンスを誘惑しようとした淫婦だと、モルは思っているが……、アルマッシィが、モルに与えたもの。
プリンスが眠りに落ちた。モルは、声の音量を下げた。だが、朗読は止めない。小さな声で読み続ける。
そして、何かの拍子で、彼が目を覚ますと、再び、音量を上げるのだ。
大丈夫、自分はここにいますよ、と、知らせる為に。
眠っている間に、章が変わり、違う話になっていても、プリンスは、全く気が付かなかった。ただ、音として聞いているだけから。モルの声が聞こえていると、彼は、安心できるようだった。まるで、子守唄を聞いているように。
そして再び、うとうととし始める。
それが、だいたい、2~3時間、続く。
……。
*
その頃。
メッテルニヒは、声明を出した。
「
ライヒシュタット公に於かれては、フランスを除き、どこの国でも、好きな所へ行かれてかまわない。皇帝陛下が最も心に留めておられるのは、孫であられる公の、回復である。
」
医療会議の翌日。また、フランスの6月暴動鎮圧の、2日後のことだった。
*
ライヒシュタット公がシェーンブルンへ移ったのに合わせ、侍医、マルファッティは、ヒーツィングに移り住んだ。シェーンブルン宮殿のすぐ近くだ。(※)
暖かくなるに従って、医師の中風の痛みも、次第に和らいできた。
7月には、ゾフィー大公妃のお産も控えている。
マルファッティは、熱心に、シェーンブルン宮殿に通っていた。
6月上旬、マルファッティは、ランシュトラーゼの邸宅に呼び出された。
宰相、メッテルニヒの私邸だ。
「ライヒシュタット公は、どうだ」
部屋に入ってきた
「どうだ、とおっしゃられますと?」
憮然としてマルファッティは尋ねた。
「彼は、転地療法の許可を、喜んでおられるかな」
マルファッティは、呆れた。
もはや、彼は、自分ひとりで歩くことさえできぬほど弱っているというのに!
……いったい、誰のせいで、この俺は、楽観的な発言を続けてきたというのか。
他ならぬ、
だから、新しく加わった医師たちが、何と言おうと、胸の病を認めなかった。彼に反抗の気配を見せたヴィーラーを、慰留することさえ、やってのけた。
マルファッティは、また、パルマのマリー・ルイーゼへは、ご子息の病は、重篤ではないという報告を送り続けてきた。
……今更、転地を許す、だと?
……もう遅い。手遅れだ。
「なぜ、今頃……」
思わず、声が漏れた。
マルファッティの声は、震えていた。
「フランスの暴動は鎮圧された。これにより、ルイ・フィリップの政権は安定した。また、フランスへ上陸した、マリー・カロリーヌ(ブルボン家のアンリ5世の母)の逮捕も、時間の問題だ」
マリー・カロリーヌは、シャルル10世の、亡くなった次男、ベリー公の妻だ。彼女は、息子を、アンリ5世としてフランス王に担ぎ出そうと、ヨーロッパ各地で暗躍していた。
「アンリ5世即位の目は、もう、ない。今まで、ナポレオン2世は、アンリ5世の抑止力だった。つまり、」
メッテルニヒは、気持ちよさそうに笑った。
「ナポレオン2世もまた、不要となったのだよ」
「……不要に……なった?」
マルファッティが震える声で問うと、宰相は頷いた。
「暴動が失敗したおかげで、脆弱だったルイ・フィリップ政権も、ようやく安定した。オーストリアには、ナポレオン2世など、もはや必要ではない」
……オーストリアに、必要ない?
マルファッティは、唖然とした。
……だってライヒシュタット公は、皇帝の孫じゃないか!
宰相は、心から楽しそうな顔をしていた。
「いずれにしろ、彼は、もうすぐ死ぬ。
轡云々が何を指すのか、マルファッティには、わからなかった。だが、言い知れぬ不快を感じた。
マルファッティの顔色を読んだのか。宰相が、語調を和らげた。
「私も、彼にはできる限りのことをした。なにしろ、皇帝陛下の最愛の孫だからな。どうだね。モル男爵は、期待通り、完璧な看護をしているだろう?」
「ええ、彼は非常に献身的です」
言いながら、マルファッティは首を傾げた。
モルは、ライヒシュタット公の就任に当たってつけられた、軍の付き人だ。
彼の仕事は、ライヒシュタット公の軍務における補佐、そして相談役だったはずだ。
宰相は、上機嫌だった。
「前に、プロケシュ少佐から聞いたよ。『モルは、本物の愛情を彼に捧げている』、と」
「……」
マルファッティは、あっけに取られた。確かに、30歳を過ぎて、モルは未だに独身だが……。
「貴殿の最後の仕事は、」
高い椅子の上から、宰相が、マルファティを見下ろした。冷たい、計算ずくの目だ。
「彼の死を、世界に知らしめることだ」
「なんですって!」
思わず、マルファッティは叫んだ。
医者の仕事は、患者を助けることだ。
結核という診断は避けたが、彼は彼なりに、患者の為に最善を尽くしてきた。それは、明らかに、自分の技量には、余る仕事であったけれども。
「フランスには、ナポレオン2世を諦めきれない馬鹿どもが、まだたくさんいる。イタリア始め、ヨーロッパ各地には、彼を、民族自決の革命の、牽引役に据えたいと目論んでいる輩も多い。……無駄なことだ! 彼は、もう、死ぬというのに!」
宰相の顔に、一瞬、満足そうな笑みが浮かんだ。
「この私が、直接、手を下すまでもない。ただ、待っていればいいのだ。彼が死ぬのを」
「……」
あまりの言いように、マルファッティは、言葉を失った。
「だが、余計な血は、流すべきではない。フランスや、民族運動の首謀者どもには、ナポレオン2世は諦めてもらわねばならぬ、それも、一刻も早く!」
「何をおっしゃりたいのか……」
マルファッティには、宰相の言っていることが、さっぱりわからなかった。
医者の使命は、患者の命を救うことだ。その死を喧伝することではない。
確かに、結核という事実を、隠しはした。だが、マルファッティは、プリンスの苦痛の緩和に、全力を尽くしてきた。
冷たい目が、マルファッティを見下ろした。
「貴殿はただ、彼の死が差し迫っていることを認めれば良い。あとは、ワーグナー司祭が、万端、取り仕切ってくれるだろう」
ワーグナー司祭は、宮廷司祭だ。ライヒシュタット公も、幼い頃から、彼による宗教教育を受けてきた。
冷然と、メッテルニヒは続けた。
「秘跡の儀が必要だと、言うのだ」
秘跡の儀。
それは、死の迫ったハプスブルク家のメンバーが、必ず受けなければならない、宗教儀式だ。
それなしで死ぬことは、カトリック教徒として、そして、ハプスブルク家の一員として、決して許されない。
「宰相」
意を決して、マルファッティは言った。
「このままでは、私の立場がありません。ずっと、私は、彼は結核ではないと言い続けてきました。パルマの
「だから?」
マルファッティの長弁舌にも、メッテルニヒは、全く怯まなかった。
「私は、私の小さな評判を、考えてやる必要があります!」
「安心するがいい。民衆の怒りは、貴殿には向かわない。結核の診断は、難しいものだ。民の怒りは、献身的な侍医には向かわない。彼らの怒りは、薄情な母親へ、まっすぐに向かうはずだ。何年も息子を放っておいた挙げ句、死にかけても訪れようとしない、冷たい母の元へ」
……だから、パルマへ、楽観的な手紙を書き送らせたのか。
……無責任な噂を信じるな、などと。
「ですが、ディートリヒシュタイン伯爵が、プリンスの差し迫った病状を知らせています。至急ウィーンへ来るよう、嘆願の手紙を書き送っているはずです」
「パルマ女公に於かれては、貴殿の手紙を信用されたということだ。ディートリヒシュタイン伯爵ではなく。それが、彼女の意思なのだ。彼女は、ウィーンへ来たくなかった。病気の息子のことなど、放っておきたかった」
再び、マルファッティは、声を失った。
彼には、外交だけではない、皇族というものさえ、わからなくなった。
高貴なお方には、庶民や、犬猫にさえ当たり前な、母親の愛情さえ、ないのだろうか。
メッテルニヒが立ち上がった。
「なお、皇帝も、孫が秘跡を授けられることを、望んでおられる。貴殿は、自分の任務の重要性を、充分、理解する必要がある」
言われるまでもなかった。
この国の皇帝は、国民から信頼されていた。彼は、家庭を大切にする、愛情深い皇帝だ。
そして、皇帝は、信心深かった。
孫を、キリスト教徒として死なせたいのだ。
その気持は、マルファッティにも、痛いほど伝わった。
だが。
……秘跡の儀。
それは即ち、お前はもう死ぬと、宣告するようなものだ。
「次にプリンスが、大きな危機を迎えられました時に」
ようやくのことで、マルファッティは答えた。
◆───-- - - -
※ヒーツィング
シェーンブルン宮殿の側面に、寄り添うような地域です。古くから、一流の別荘地として有名です。
時代は下って、グスタフ・クリムト(分離派の画家)の工房も、宮殿よりのこの地域にあったそうです。
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