フランス以外、どこへ行ってもかまわない



 ライヒシュタット公の侍医たちが集まり、医療会議が開かれた。

 話し合いそのものには、何の新味もなかった。

 患者の容態は、もはや望みがないということは、医師たちの暗黙の了解だった。


 「患者には希望を与えず、生活への助言を与えていく」


 それが、結論だった。


「ただし、秋まで生き残った場合は、暖かい気候の地への転地療法を提言する」







 「今年の秋と冬は、ナポリで過ごすんだ。医療会議でそう決まった」

かすれた声が話しかけてきた。


「南の地方と聞きましたが。ナポリなんですね」

かいがいしく、毛布を被せながら、モルが尋ねる。


「うん、ナポリだ」

 プリンスは、とても嬉しそうだった。

 だが、すぐに、不安そうな顔になった。

「何か問題はないだろうか」


 メッテルニヒが、横槍を入れてこないか心配しているのだと、モルにはわかった。

 そこで彼は言った。


「暖かい南の地方に行けば、あなたの健康状態に関する、あらゆる懸念は取り除かれると聞いています。宰相が反対する理由は、ないはずですよ」


 プリンスは、嬉しそうだった。

 イタリア旅行の旅程、行きたい都市、母と同じように、自分も蒸気船に乗ってみたいこと……。

 珍しく、次々と、彼は、口にした。

 頷きながら、モルは聞いていた。


 ……だが、決して、この人がイタリアへ行くことはないのだ。



 「ナポリでは、たくさんの人と知り合いたい」

ふと、その言葉がモルの気を引いた。


 ナポリには、モーリツ・エステルハージや、グスタフ・ナイペルクがいる。あの、プロケシュ少佐も、同じイタリアにいる。モルは、プロケシュが、大嫌いだった……。


「有能な若い力を合わせ、ナポリから、ヨーロッパを、世界を、変えていきたい。すべての人が等しく公平に、幸せになれるように」

「それは、素晴らしいですね」


 上の空でモルは答えた。

 ナポレオンの遺志を引き継いでいるのだとは、息子がナポレオンを凌駕しようとしているのだとは、考えも及ばなかった。


 ……医者たちは、イシュルの温泉さえ難しいと言っていた。

 ……イタリアへ行くなど、空中の城を見るようなものだ。


 込み上げてくる悲しさを、モルは押し殺した。本を持ち、ベッドの右側に座る。プリンスの左の耳は、もう、殆ど聞こえていない。



 朗読は、いつの間にか始まった習慣だった。モルの落ち着いた静かな声は、プリンスの気持ちを鎮め、眠りへと誘うようだった。


 モルは知らない。

 この声は、アルマッシィの魔法によるものだ。

 ジプシーに育てられた妖女……プリンスを誘惑しようとした淫婦だと、モルは思っているが……、アルマッシィが、モルに与えたもの。


 プリンスが眠りに落ちた。モルは、声の音量を下げた。だが、朗読は止めない。小さな声で読み続ける。


 そして、何かの拍子で、彼が目を覚ますと、再び、音量を上げるのだ。

 大丈夫、自分はここにいますよ、と、知らせる為に。


 眠っている間に、章が変わり、違う話になっていても、プリンスは、全く気が付かなかった。ただ、音として聞いているだけから。モルの声が聞こえていると、彼は、安心できるようだった。まるで、子守唄を聞いているように。

 そして再び、うとうととし始める。


 それが、だいたい、2~3時間、続く。

 ……。







 その頃。

 メッテルニヒは、声明を出した。


ライヒシュタット公に於かれては、フランスを除き、どこの国でも、好きな所へ行かれてかまわない。皇帝陛下が最も心に留めておられるのは、孫であられる公の、回復である。


 医療会議の翌日。また、フランスの6月暴動鎮圧の、2日後のことだった。







 ライヒシュタット公がシェーンブルンへ移ったのに合わせ、侍医、マルファッティは、ヒーツィングに移り住んだ。シェーンブルン宮殿のすぐ近くだ。(※)


 暖かくなるに従って、医師の中風の痛みも、次第に和らいできた。

 7月には、ゾフィー大公妃のお産も控えている。

 マルファッティは、熱心に、シェーンブルン宮殿に通っていた。




 6月上旬、マルファッティは、ランシュトラーゼの邸宅に呼び出された。

 宰相、メッテルニヒの私邸だ。



 「ライヒシュタット公は、どうだ」

部屋に入ってきたマルファッティライヒシュタット公の侍医を見ると、メッテルニヒはおもむろに尋ねた。


「どうだ、とおっしゃられますと?」

憮然としてマルファッティは尋ねた。


「彼は、転地療法の許可を、喜んでおられるかな」



 マルファッティは、呆れた。

 もはや、彼は、自分ひとりで歩くことさえできぬほど弱っているというのに!


 ……いったい、誰のせいで、この俺は、楽観的な発言を続けてきたというのか。

 他ならぬ、宰相メッテルニヒ自身の命令だったではないか。


 だから、新しく加わった医師たちが、何と言おうと、胸の病を認めなかった。彼に反抗の気配を見せたヴィーラーを、慰留することさえ、やってのけた。


 マルファッティは、また、パルマのマリー・ルイーゼへは、ご子息の病は、重篤ではないという報告を送り続けてきた。


 ……今更、転地を許す、だと?

 ……もう遅い。手遅れだ。



 「なぜ、今頃……」

 思わず、声が漏れた。

 マルファッティの声は、震えていた。


「フランスの暴動は鎮圧された。これにより、ルイ・フィリップの政権は安定した。また、フランスへ上陸した、マリー・カロリーヌ(ブルボン家のアンリ5世の母)の逮捕も、時間の問題だ」



 マリー・カロリーヌは、シャルル10世の、亡くなった次男、ベリー公の妻だ。彼女は、息子を、アンリ5世としてフランス王に担ぎ出そうと、ヨーロッパ各地で暗躍していた。



「アンリ5世即位の目は、もう、ない。今まで、ナポレオン2世は、アンリ5世の抑止力だった。つまり、」

メッテルニヒは、気持ちよさそうに笑った。

「ナポレオン2世もまた、不要となったのだよ」


「……不要に……なった?」

 マルファッティが震える声で問うと、宰相は頷いた。

「暴動が失敗したおかげで、脆弱だったルイ・フィリップ政権も、ようやく安定した。オーストリアには、ナポレオン2世など、もはや必要ではない」


 ……オーストリアに、必要ない?

 マルファッティは、唖然とした。

 ……だってライヒシュタット公は、皇帝の孫じゃないか!


 宰相は、心から楽しそうな顔をしていた。

「いずれにしろ、彼は、もうすぐ死ぬ。くつわが、完璧に機能したのだ。彼がどこに行こうと、どうしてこの私が、気にする必要がある?」


 轡云々が何を指すのか、マルファッティには、わからなかった。だが、言い知れぬ不快を感じた。


 マルファッティの顔色を読んだのか。宰相が、語調を和らげた。


「私も、彼にはできる限りのことをした。なにしろ、皇帝陛下の最愛の孫だからな。どうだね。モル男爵は、期待通り、をしているだろう?」

「ええ、彼は非常に献身的です」


 言いながら、マルファッティは首を傾げた。

 モルは、ライヒシュタット公の就任に当たってつけられた、軍の付き人だ。

 彼の仕事は、ライヒシュタット公の軍務における補佐、そして相談役だったはずだ。


 上官ライヒシュタット公の病で、やむなく任務がシフトしたが、本来なら、看護は彼の仕事ではない。


 宰相は、上機嫌だった。

「前に、プロケシュ少佐から聞いたよ。『モルは、本物の愛情を彼に捧げている』、と」

「……」


 マルファッティは、あっけに取られた。確かに、30歳を過ぎて、モルは未だに独身だが……。


 「貴殿の最後の仕事は、」

高い椅子の上から、宰相が、マルファティを見下ろした。冷たい、計算ずくの目だ。

「彼の死を、世界に知らしめることだ」

「なんですって!」

思わず、マルファッティは叫んだ。


 医者の仕事は、患者を助けることだ。

 結核という診断は避けたが、彼は彼なりに、患者の為に最善を尽くしてきた。それは、明らかに、自分の技量には、余る仕事であったけれども。


 その自分医者に、死を触れ回れというのか。



「フランスには、ナポレオン2世を諦めきれない馬鹿どもが、まだたくさんいる。イタリア始め、ヨーロッパ各地には、彼を、民族自決の革命の、牽引役に据えたいと目論んでいる輩も多い。……無駄なことだ! 彼は、もう、死ぬというのに!」


宰相の顔に、一瞬、満足そうな笑みが浮かんだ。


「この私が、直接、手を下すまでもない。ただ、待っていればいいのだ。彼が死ぬのを」


「……」

あまりの言いように、マルファッティは、言葉を失った。


「だが、余計な血は、流すべきではない。フランスや、民族運動の首謀者どもには、ナポレオン2世は諦めてもらわねばならぬ、それも、一刻も早く!」

「何をおっしゃりたいのか……」


 マルファッティには、宰相の言っていることが、さっぱりわからなかった。

 医者の使命は、患者の命を救うことだ。その死を喧伝することではない。


 確かに、結核という事実を、隠しはした。だが、マルファッティは、プリンスの苦痛の緩和に、全力を尽くしてきた。


 冷たい目が、マルファッティを見下ろした。

「貴殿はただ、彼の死が差し迫っていることを認めれば良い。あとは、ワーグナー司祭が、万端、取り仕切ってくれるだろう」


 ワーグナー司祭は、宮廷司祭だ。ライヒシュタット公も、幼い頃から、彼による宗教教育を受けてきた。


 冷然と、メッテルニヒは続けた。

「秘跡の儀が必要だと、言うのだ」


 秘跡の儀。

 それは、死の迫ったハプスブルク家のメンバーが、必ず受けなければならない、宗教儀式だ。

 それなしで死ぬことは、カトリック教徒として、そして、ハプスブルク家の一員として、決して許されない。


 「宰相」

意を決して、マルファッティは言った。

「このままでは、私の立場がありません。ずっと、私は、彼は結核ではないと言い続けてきました。パルマのマリー・ルイーゼ様お母上にも、心配はいらないと書き送ってきました。宰相、あなたのご指示で!」


「だから?」

 マルファッティの長弁舌にも、メッテルニヒは、全く怯まなかった。


「私は、私の小さな評判を、考えてやる必要があります!」


「安心するがいい。民衆の怒りは、貴殿には向かわない。結核の診断は、難しいものだ。民の怒りは、献身的な侍医には向かわない。彼らの怒りは、薄情な母親へ、まっすぐに向かうはずだ。何年も息子を放っておいた挙げ句、死にかけても訪れようとしない、冷たい母の元へ」


 ……だから、パルマへ、楽観的な手紙を書き送らせたのか。

 ……無責任な噂を信じるな、などと。


「ですが、ディートリヒシュタイン伯爵が、プリンスの差し迫った病状を知らせています。至急ウィーンへ来るよう、嘆願の手紙を書き送っているはずです」

「パルマ女公に於かれては、貴殿の手紙を信用されたということだ。ディートリヒシュタイン伯爵ではなく。それが、彼女の意思なのだ。彼女は、ウィーンへ来たくなかった。病気の息子のことなど、放っておきたかった」


 再び、マルファッティは、声を失った。

 彼には、外交だけではない、皇族というものさえ、わからなくなった。

 高貴なお方には、庶民や、犬猫にさえ当たり前な、母親の愛情さえ、ないのだろうか。


 メッテルニヒが立ち上がった。

「なお、皇帝も、孫が秘跡を授けられることを、望んでおられる。貴殿は、自分の任務の重要性を、充分、理解する必要がある」


 言われるまでもなかった。

 この国の皇帝は、国民から信頼されていた。彼は、家庭を大切にする、愛情深い皇帝だ。


 そして、皇帝は、信心深かった。

 孫を、キリスト教徒として死なせたいのだ。

 その気持は、マルファッティにも、痛いほど伝わった。

 だが。


 ……秘跡の儀。

 それは即ち、お前はもう死ぬと、宣告するようなものだ。


 「次にプリンスが、大きな危機を迎えられました時に」

ようやくのことで、マルファッティは答えた。







◆───-- - - -            


※ヒーツィング

シェーンブルン宮殿の側面に、寄り添うような地域です。古くから、一流の別荘地として有名です。

時代は下って、グスタフ・クリムト(分離派の画家)の工房も、宮殿よりのこの地域にあったそうです。





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