療養の日々



 静かな、療養の日々を、フランソワは送っていた。

 熱や悪寒、咳はひっきりなしだった。

 それでも、彼は、一日に一度、外へ出ることを日課にしていた。

 外に出れないほど具合の悪い日は、漆の間から、ベランダへ出た。

 外の空気に触れることを、何より好んだ。

 当時、民間療法では、外の空気に触れることは、結核の治療とされていた。その意味で、馬車での外出も、推奨されていた。







 馬車に乗り、モルはちらちらと、上官を横目で見た。

 ワゴンを、新調したのだ。

 モルは、ディートリヒシュタイン伯爵に代わり、ライヒシュタット家の財政をみている。だから、金に糸目をつけず、あるじの為に、最高の馬車を誂えた。


 今やプリンスには、外へ出るくらいしか、気晴らしはない。

 だから、体の負担にならぬよう、乗り心地が良く、揺れが少ないことに、最も配慮した。


 ワゴンに乗り込んだプリンスは、しかし、それが新調されたばかりだとは気が付かなかった。


 モルは、がっかりした。


 けれどまあ、仕方がない。彼は、具合が悪いのだ。馬車がどうであるかなどと、気にしている余裕はなかろう。

 そう思いつつも、モルは悲しかった。


 ……あんなに馬や馬車が好きだったプリンスが、新しいワゴンに気が付かないなんて……。





 馬車は、ローター・シュタードル(ウィーン近郊の休憩所)で停車した。


 食事の時間だった。

 プリンスは、マリエンバート水2杯と、フリップ(ワインなどの酒に、卵、砂糖、香料などを混ぜた飲料)を口にした。


 それから、歩く練習をした。

 筋肉は、使わずにいれば、衰えてしまうと、口癖のように、プリンスは言っていた。


 しかし、数歩、歩いただけで、座り込んでしまった。胸が苦しく、体を動かすことが負担になるのだ。


 未だに、モルは、彼の口から、苦痛を表す言葉を聞いたことがない。この時も、プリンスはただ、へたりこんだだけだった。モルは、肩を貸し、座り心地のいい安楽椅子へと誘った。


 心地よい春の風が、吹き渡っていく。

 静かな声で、モルは、本を読み始めた。

 しばらくの間、プリンスは、モルの朗読に耳を傾けていた。

 すぐに、瞼を閉じ、うたた寝を始めた。

 静かな声で、モルは、朗読を続けた。

 3時近くに、帰路についた。





 馬車の中で、プリンスは無言だった。

 午後になると、決まって、高熱に襲われる。モルが横目で様子を窺うと、彼は、荒い息をつき、ひどく苦しそうだった。


 ……それなのにこの方は、決して、苦しいとおっしゃらないのだ。


 「馬車を、新調したね」

眠ってしまったのかと思っていた頃、唐突に、プリンスが口を開いた。

「とても乗り心地がいい。まるでゆりかごのようだ」

 プリンスは、目を閉じたままだった。


 ……馬車を新調した心遣いに、気がついて下さったのだ。

 モルは悟った。

 何か答えようとして、言葉に詰まった。







 メッテルニヒが声明を出した、同じ日。

 ウィーンで、ゲンツ秘書長官が亡くなった。

 68歳だった。

 ゲンツは、メッテルニヒの懐刀だった。言論弾圧で有名な、「カールスバートの決議書」の草稿を書いたのは、彼である。

 しかし、次第にゲンツは、メッテルニヒと、袂を分かちつつあった。都市労働者の悲惨な環境を見聞するに及び、ウィーンの優秀な若者を集め、勉強会を開くなどしていた。




 奇しくも同じ、6月9日。

 イタリア、フィレンツェで、ザウラウ伯爵が亡くなった。

 今上帝の信頼厚い重臣だった。

 ザウラウは、財務大臣、警察大臣を歴任後、70歳で、トスカーナ大公国の大使を拝命した。

 イタリア派遣から2年後。

 72歳だった。







 その日。

 ハルトマンが話していると、突然、プリンスが立ち上がった。

「出かける」

 唐突に話を遮られ、ハルトマンは鼻白んだ。

「……では、私もご一緒に」

「いい」


そっけなく断り、プリンスは、侍従の手を借りて、歩きだした。


「そういうわけには。ご一緒します、殿下」

「いいと言った」


侍従の肩を借りて、おぼつかない足取りで歩み去っていく。


「殿下! どちらへ!?」

プリンスは立ち止まった。

「ナポリへ」

「!」

ハルトマンは絶句した。







 休憩から帰ってきたモルは、廊下で、プリンスが侍従と歩いてくるのに、出くわした。

 一人では歩けないプリンスは、侍従の肩を借りている。


「おや。また、お出かけですか?」

 気軽に、モルは尋ねた。

 午前中にも、馬車で出掛けている。

「お供しますよ」


 答えず、侍従に寄りかかり、プリンスは、車寄せへ歩いていった。




 毛布を取りに、モルは、プリンスの部屋へ入った。


 「大変だ!」

 部屋には、青ざめた顔のハルトマン上官がいた。

「プリンスが、イタリアへ行ってしまう」

「はい?」

「プリンスが、俺らを置いて、ナポリへ行ってしまうんだよ! ああ、俺は、政府宰相に、なんて報告したらいいか……」



 この日に、メッテルニヒは、フランス以外ならどこへ行ってもいい、という声明を発していた。しかし、付き人達にはまだ、その情報は届いていなかった。



 ナポリへなど行けるわけがないではないか、と、モルは思った。

 昨夜の医療ミーティングでも、今の状態では、イタリアどころか、イシュルにさえ行けないと、医師の一人が口走っていたではないか。


「秋になったら、イタリアへ療養へ行くよう、医者が進言したからですよ。プリンスはただ、希望を持ちたいだけですよ」


 第一、彼は、一人で歩くことさえ、できないではないか……。

 だが、ハルトマンは、頑固だった。


「君はそう言うが、彼は、イタリアだって、へっちゃらさ。プリンスは、十分、お元気だ。絶対、あの方は、回復なさる。そうでないわけがない」


 ここだけが、ハルトマンの良い点だった。

 都合のいい診断……マルファッティの診断……だけを信じ、ひたすら、主の回復を信じている……。

 そういう、融通の効かない、妄信的なところが、ハルトマンにはあった。


 それは、言い方を変えれば、主に対する絶対の忠誠、ということになるだろう。ハルトマンが、プリンスの付き人の長に選ばれた、まさにその根拠だ。


 ハルトマンはまだ、悩んでいる。

「プリンスは、俺が話している途中で、出ていってしまった。俺は、同行を許されなかったのだ。ああ、困った。モル、どうしよう」


 プリンスは、ハルトマンを、メッテルニヒの手先だと、疑っている節があった。それで、ことあるごとに、ハルトマンに逆らってきた。


 落ち着き払って、モルは上官を諭した。

「いずれにしろ、イタリア療養の拒否権は、皇帝にあります。私は、プリンスの希望を、大事にしてさしあげたい。ですが、いざとなったら、医師の先生方が、彼の夢を打ち壊してくれるでしょう。……イタリアへ行くなんて、とても無理だ、と」


「それもそうだな」

 なんとか、ハルトマンは落ち着きを取り戻した。


 ……プリンスの反抗なんて。

 ……ハルトマン将軍は、コップ一杯の水を見て、溺れると、騒いでいるようなものだ。


「いったい、何があったんですか?」

 改めてモルは尋ねた。

 ハルトマンはため息をついた。

「俺は何もしてないよ。ただ、ゲンツの死をお伝えしただけだ」

「ゲンツ秘書長官……亡くなられたのですか?」

「うん。殿下は、ゲンツとは顔見知りだからな。だから、できるだけ、ショックをお与えしないよう、優しい顔で、お伝えしたのだ」


 その心遣いは、是とすべきだった。だが……。


「優しい顔?」

ちょっと想像がつかないと、モルは思った。







 「今朝、ゲンツ秘書官が亡くなったのを、知っているか?」

 馬車に乗るとすぐ、プリンスが尋ねた。


 さきほど、ハルトマンから聞いたと、モルは答えた。

 苦い、憤慨しきった顔で、プリンスは続けた。


「僕もハルトマンから聞いた。彼は、笑いながら話した! ゲンツ秘書長官が亡くなったと! この王朝で、最高の知性であるゲンツ秘書長官の死を、笑いながら!」


 ハルトマン自身は、プリンスへの配慮から、あえて優しい表情を作ったのだと言っていた。

 ただ、あの将軍は、笑い慣れていなかった。もしくは、優しくする手管を知らなすぎた……。


 プリンスは、怒り冷めやらぬ顔をしている。

 プリンスが、ここまでゲンツと親しかったとは、モルは知らなかった。


 ……恐らく、プロケシュ少佐の影響だろう。

モルは確信した。



 ゲンツは、自分の囲っていた若い踊り子ファニー・エルスラーの家で、勉強会を開いていた。その勉強会へ、プロケシュは、頻繁に通っていた。


 ……前に、一騒動あったな。プリンスがプロケシュに届けた手紙を、踊り子宛てと、ハルトマンが勘違いして。

(※10章「踊り子 ファニー・エルスラー、ご参照下さい)


 苦い気持ちで、モルは思い出した。

 ……勉強会か。プロケシュ少佐は、プリンスをフランスへ連れて行くつもりでいる。そうして、ちゃっかり、フランスの重臣に納まるつもりなんだ。



 何日か前、ディートリヒシュタイン伯爵が訪ねてきた。

 彼は、プリンスにもしものことがあったら、手紙……特に、プロケシュからプリンスに宛てた手紙を確保し、当局の目から隠してくれるよう、モルに頼んだ。


 もちろん、モルは、断った。

 ……「プリンスの持ち物を持ち出すには、厳しい検認が必要です」

 言い訳だった。

 ……誰が、あのプロケシュの為になんか!


 しかし、もはや、プリンスは、フランス王になど、少しの未練もないことを、モルは知っていた。

 ……だから、プリンスは、少佐が帰って来るのを、待ってなんかいないんだ。彼が今、興味を持っているのは、フランスなんかじゃない、それは……。



「……ナポリに来てもらいたいと思っていたのだ」

はっと、モルは、我に返った。

「ゲンツ秘書長官には、ぜひ、ナポリへお越しいただいて、イタリアの若者たちの指導を、お願いしたかった」


 ……いったいどのような砂上の楼閣を、プリンスは、イタリアに描いているのだろうか。


 モルは、プリンスが震えているのに気がついた。熱が上がったのだ。

「そろそろ城へ帰りましょう」

 穏やかに促した。


 拒絶の言葉はなかった。

 馬車は、シェーンブルン宮殿へ戻った。





 部屋につくと、プリンスは、ソファーに倒れ込んだ。クッションや毛布をかき集め、自分の体を覆い隠した。

 疲労と倦怠感から、すぐに眠りに落ちた。




 30分ほど経ったろうか。

 マルモン元帥が訪ねてきた。

 フランスの、ナポレオンの元帥だった男だ。またの名を、裏切り者のラグーザ。


「僕は眠っていると、伝えてくれ」

侍従が取り次ぐと、クッションの間から、声がした。

「マルモン元帥には、こんな姿を、見られたくないんだ……」


 実は、それ以前にも、マルモンは、何度か、プリンスを訪問していた。

 だが、彼は常に、長居をした。彼が帰った後はいつも、フランソワはひどく疲れ、発熱した。

 それで、何度か、ハルトマンが応対に出て、フランソワには会わせずに、帰ってもらっていた。


 後からそれを知っフランソワは、怒り狂ったものだ。


 それなのに、この日、フランソワは、自ら、マルモンの訪問を断った。

 マルモンは、ナポレオンのかつての部下だ。父の話を聞くのは、フランソワにとって、何よりの喜びだったはずなのに……。



 これが、ナポレオンの部下、マルモン元帥の、最後の訪問となった。





 夜、7時。

 フランソワは、ベッドに入ると、騒ぎ始めた。いくらなんでも早すぎると、従僕たちが、戸惑っている。


 同じく8時。

 彼はそれを実行する。


 8時過ぎ。

 マルファッティ医師が、往診に来た。

 けれど、なんとしたことか。既にプリンスは寝てしまっていた。だから彼は、医師の診察を受けることができないのだった……。



 もはやフランソワは、マルファッティを、信用しなくなっていた。

 くるくる変わる治療方針、場当たり的な対処療法。決して、根本的な病に向き合おうとしない……。

 信用できるわけがない。

 彼は、具合が悪くても、マルファッティには決して、伝えない。



 「ふむ。午後は、ソファーで過ごされたのだな。だが、椅子には、隙間がある。背もたれと座面の間とか、肘掛けの横とか。そこから、冷たい風が入って、発熱の原因となるのだ。プリンスにおかれては、午後に、発熱悪寒があったというが、原因は、このソファーのせいに違いない」


 椅子に向かって、大真面目で、マルファッティが、診断を下していた。







◆───-- - - - 


1832年6月9日、ゲンツと、同日、ザウラウが亡くなります。

亡くなった日を含め、二人の経歴は、ともに史実です。




【以下、虚実のご説明です。興味をお持ちの方だけ】



プロケシュ少佐がゲンツの私塾で学んでいたことも本当にです。ゲンツが、踊り子のファニー・エルスラーを囲っていたことも。(一説には、若い愛人を持ったせいで、ゲンツは早死に(?)したと言われています)


ザウラウ公爵に関しては、亡くなる2年前にイタリア派遣になったこと、ヨーハン大公の幕僚であったことも本当です。


ですが、6章「年寄りの冷水」には、少し、嘘が混じってます。ナポレオンの弟リュシアンが手紙攻勢を仕掛けてきたのは本当ですが、これを受け付けたのがザウラウだった……というのは、微妙です。ですが、この年、ザウラウはトスカーナ大使になっているので、可能性はあります。


同じく、下の弟ルイ・ボナパルトの手紙をヨーハン大公経由で届けた……というのは、私の願望です。



メッテルニヒがヒ素入りワインを、二人に贈った、というのは、……フィクションです。





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