ウィーンの街の憎しみ
「ゾフィー大公妃はどう? 順調かしら」
モルが非番で街に出ると、フランチェスカ・ハーバースタイン伯爵夫人が尋ねた。
フランチェスカは、外国勤務から、久しぶりでウィーンへ戻ってきたモルが、旧交を温めた貴族のうちの、一人だ。
「順調? ですよ」
女性の妊娠出産に関して、どのような答え方をすればいいのか、モルは、本当に困っていた。
それも、ただの女性ではない。
皇族だ。
「お子様はお元気? フランツ・ヨーゼフ大公は」
「ええ、お元気です」
こちらは、自信を持って答えた。
フランツ・ヨーゼフのがえんぜなさは、暗くなりがちなライヒシュタット公の従者たちに、微笑みを与えてくれる。
ゾフィー大公妃も、なにくれとなく、
シェーンブルン宮殿の住人の中には、二人の仲を詮索する者さえいるくらいだ。中には、今、ゾフィー大公妃が妊娠中の子は、ライヒシュタット公の子ではないかと、囁き合う者までいた。
ありえないことだと、ライヒシュタット公周りの従者たちは知っていた。
ゾフィー大公妃の懐妊は、昨年の10月の終わりか11月の初旬だという。
コレラ禍が終焉し、宮廷が
あの頃、ライヒシュタット公は、ひどい無気力に陥っていた。陰鬱に沈み込み、人を遠ざけてばかりいた。見かねて、マルファッティ医師が、夜遊びを「処方」したくらいだ。
いずれにしろ、彼には、モル達、軍の付き人が、ぴったりと張り付いていた。あの状態では、相手が誰であれ、子どもを作る機会など、あろうはずもない。
「ライヒシュタット公のお加減は?」
ぐいぐいと、フランチェスカが、尋ねる。
ライヒシュタット公の下に配属されたモルから、彼女は、彼のことを根掘り葉掘り、聞きたがる。
どうやら、彼のファンであるらしかった。かなり年配のファンだ。
差支えない範囲で、モルは、彼女の好奇心を満たしてやっていた。
「シェーンブルン宮殿に移ってから、大きな発作もありません。彼は、自分はすっかりよくなったと、思い込もうとされているようです」
大きな目を、フランチェスカが、ぐりっと動かした。
「思い込もうとされている?」
「ええ」
「おかわいそうに」
彼女は、全てを察したようだった。
傍らで聞いていたメイドが、声を放って泣き始めた。
「お下がり」
苛立ちにも似た声で、フランチェスカは命じた。大声で泣きながら、メイドは、部屋を出ていった。
「私は、心配なの」
メイドの泣き声が聞こえなくなると、彼女は言った。
「彼の侍医……マルファッティ医師は、大丈夫なのかしらって」
「大丈夫、とおっしゃいますと?」
「だって変でしょう? 誰が見たって、あれは明らかに胸の病なのに、未だにそれを認めないなんて!」
「……」
確かにその通りだった。
モル自身は、プリンスは結核であると、だいぶ前からわかっていた。家族を、同じ病で亡くした経験からだ。
ウィーンの、大部分の市民も、モルと同じ意見だった。フランスの新聞も。
結核と認めていないのは、侍医マルファッティを始めとする医師団の面々。ただし、新任医師たちは、皇帝には、胸の病と告げている。
つまり、マルファッティだけなのだ。
未だに結核を認めようとしないのは。そして、愚直に彼を信じている、
「ヤブの範疇を超えているわ。マルファッティには、何か、企みがあるのよ」
自信たっぷりに、フランチェスカが推理する。
……だから、プリンスは、マルファッティを遠ざけている?
……なるべく彼の診察を受けまいと。
モルは首を横に降った。
そんな馬鹿なことが、あろうはずがない。
ライヒシュタット公を害して、マルファッティに、何の得があるというのか。
結核を認めようが認めまいが、彼が、末期の病であることに変わりはない。そもそも、ここまできたら、結核が治ることは、ない。
悲しいことだが、それが、事実だ。
このおばさん貴族は、少しばかり、被害妄想に陥っているのだと、モルは思った。
「パルマのお母さんは、まだ、いらっしゃらないの?」
遠慮のない口調だ。
モルは俯いた。
悲鳴にも似た手紙を、ディートリヒシュタイン伯爵が出し続けている。
マリー・ルイーゼはすでに、トリエステで、皇帝と合流したと、連絡が入っている。
それなのに、彼女は一向に、父の元を離れようとしない。こちらからの問い合わせを、ぐずぐずと、はぐらかし続けている。
一番最近の手紙では、6月11日に、シェーンブルンへ向けて立つ、とあったが…… 歯切れの悪い文面が気になる。
どうやら、彼女自身、体調が悪いようだった。
しかし、彼女の息子は、死に瀕しているのだ。彼より具合が悪いということはなかろう。
「かわいそうに……」
深いため息が、フランチェスカの口からこぼれた。
ウィーン中の人が、思っていることだった。
……また、妊娠しているのだ。
……だから、息子が死にかけていても、会いに来れないのだ。
そんな風に言う輩もいた。
マリー・ルイーゼが性的に奔放過ぎるという噂は、ウィーンの街を席捲していた。
「どんなにお母様のおいでを待っているでしょうに。子どもの頃から、裏切られてばかりで。そんな女には、子どもを持つ資格なんてないのよ」
フランチェスカが言うまでもなかった。
マリー・ルイーゼは、ウィーンの民衆たちから、憎まれつつあった。
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