高熱と喀血、そして礼儀




 昼頃から、午後3時頃にかけての外出が、フランソワの日課になっていた。


 この日(6月11日)。

 帰ってきてから、症状が悪化した。だがそれを、彼は、誰にも打ち明けなかった。


 「今日は、ヨハン・バーナード(乗馬のコーチ)の馬の扱いが、ひどく下手だったのだ。馬車が揺れて、いつもより疲れた」

 言い訳のようにつぶやき、侍従の肩を借りて、夕方の庭へ下りた。


 しかし、階段を上ることは、もはや、できなかった。



 部屋の外には、機械が据え付けられていた。滑車の原理を応用して、箱ごと、釣り上げる。簡易エレベーターのようなものだが、動力は人力だ。この仕組みは、すでに、女帝マリア・テレジア時代に、グロリエッテ(※1)の物見台に、設置されている。


 「ああ。階段を駆け上るのが楽しかったのは、いつのことだろう」

 機械で釣り上げられながら、フランソワは嘆いた。




 翌日(12日)。

 朝からひどい熱が出た。彼は、しきりと、冷たい氷と凍った食品を欲しがった。


 それなのに、彼はまた、出掛けたのだ。幌のない馬車で。ラクセンブルクへ向けて。


 馬車は途中、雷雨に見舞われた。

 オープンカーでは、ひとたまりもなかった。馬車は、大急ぎで、シェーンブルン宮殿に引き返した。


 やっとのことで帰り着いたフランソワは、寒さに震え、体の右半分の痛みに耐えかねていた。



 恐ろしい夜が始まった。

 呼吸は、時を追うごとに、困難になっていった。彼が息をするごとに、まるで大砲の轟のような大きな音が、胸から漏れた。


 マルファッティが、発泡剤を処方した。しかしプリンスは、受け容れなかった。


「医者の言うことなんか聞くもんか!」

気丈に、フランソワは叫んだ。



 マルファッティは、病室を退いた。これ以上自分がいたら、プリンスが興奮するばかりだからだ。


 「マリー・ルイーゼ様におかれては、今まさに、会いに来られるべき時だ!」

散々、楽観的な報告をパルマに送り続けていた医師マルファッティは、今までの態度をかなぐり捨てた。

「こりゃ、どれだけもつか、わからんぞ。あと数時間ということだって、考えられる」

宮殿の廷吏たちに向かって、喚き立てる。


 マルファッティは、秘跡の儀式を執り行うチャンスを狙っていた。それが、宰相の命令だ。ひいては、皇帝のご意思でもあるともいう。


 だが、なかなか、言い出せない。


 秘跡の儀。

 それは、死を宣告するのと同じことだ。






 

 翌13日朝。

 フランソワは、大量に喀血した。



 この機を、マルファッティは、逃さなかった。

 彼は、プリンスに秘跡を受けるべき時が来た、と、宮廷牧師に警告を発した。


 伝令が、ワーグナー司祭の元へ、遣わされた。







 人が集まってきた。

 中の一人が、一週間前の、ラマルク将軍の葬儀の話をしていた。

 その際、パリで起きた暴動のことも。


「パリで暴動?」

ぐったりと寝ていたプリンスが、半身を起こした。

「その話を、僕にも聞かせてくれ」

かすれた声で、隣室の人々に向かって、呼びかける。


 ひどい喀血をしたばかりだ。彼の顔は、死人のように青ざめていた。生気のない皮膚が、頭蓋に張り付いているように見えほど、痩せこけている。


 まさしく、彼は、死にかけていた。

 それなのに、フランスに起きた出来事を知りたがっている。


 集まっていた人々は、顔を見合わせた。


 侍従の一人が、新聞を探しに走った。

 その朝、ラマルク将軍の葬儀と、パリの暴動についての一報が、ウィーンの新聞に載ったばかりだった。(※2)







 その日(喀血のあった日)の午前中。

 セムリッヒという名の、専門の医者が来て、プリンスに、吸玉療法カッピングを施した。


 これは、カップ(コップ)を皮膚に宛て、その圧力で、血流を良くする刺激療法だ。血流がよくなれば、体の隅々まで、栄養や酸素が行き渡り、溜まっていた老廃物が取り除かれる……はずだ。


 「医者の処置は、僕を疲れさせる」

不平を言いながらも、担当医が、マルファッティでなかったせいだろうか。プリンスは、施術を受け容れた。




 吸玉療法カッピングが終わると、フランソワは、侍従に、馬車の用意を命じた。


 今朝、大きな喀血があったばかりだ。

 さすがに、侍従は戸惑った。

 彼は厩舎に行く代わりに、モルのところへ向かった。



 モルは、F・カール大公の相手をしていた。大公が、プリンスの部屋を覗いたら、は、寝ていた。それで、従者の控室へやってきたのだ。


 F・カールは、ひどく心配していた。大公と、ゾフィー大公妃の夫妻は、プリンスを、親身になって気遣っている。それで、モルも、彼らが好きだった。



 ゾフィー大公妃は、出産が近い。

「目下のところ、彼女の最大の心配事はね。赤ん坊が生まれる前に、彼女のフランツルが死んでしまうかもしれない、ということだ」


 下品で評判の大公は、お産について、何か品の悪い冗談を言おうとした。

 だが、何も言えなかった。


 目を潤ませて、大公は帰っていった。



 大公と入れ違いに、侍従がやってきた。

 プリンスが馬車を所望しているという。

「ですが、マルファッティ先生は、絶対外へ出すなと、仰せでした」


 当たり前だ。

 大量に血を吐いたばかりの人間が、外出なんて。彼は、重病なのだ。瀕死といっていい。


 だが、マルファッティの制止が、プリンスに、火をつけたようだった。

 彼は、断固として、主治医のアドヴァイスを斥けた。


 「外へ行く! 馬車の用意を」

モルの姿を見ると、プリンスは主張した。


 ……フランスへ行くつもりか?

 唐突に、モルはそれを疑った。

「いけません」

彼は制した。


「僕は、随分前に、馬車を命じた」

プリンスは侍従に向き直った。


 青い、燃えるような目で睨まれ、侍従は震え上がった。


「いけません!」

 モルは繰り返した。

 侍従は、動こうとしない。


「ふん。いいさ。それなら……」

 どこにそんな力が残っていたのか。

 プリンスは、自力で起き上がった。

 呼び鈴に向かって手をのばす。

「馬丁を呼んで、自分で命じるまでだ」


「プリンス!」

 モルは、呼び鈴の紐を引こうとした彼の手を握った。

 1ミリも動かせぬよう、しっかりと握りしめた。


「従者の前で、物事をやりにくくさせないで下さい! あなたは私に、馬車を命じました。しかし、到底、御命令に従うわけにはまいりません。従者にも、禁じなければなりません。ですが、そんなことをしたら、これから先、あなたが病気の間中、従者達は、あなたではなく、私に従うようになってしまうでしょう。規律が崩れるのです。おわかりですか?」


「……」


「そんな高熱で、貴方を外へ出すことができるとお思いか? そんなことを許したら、私は、狂人だと思われるでしょう。各方面から、叱責されます。私が、です」


 プリンスの手から、力が抜けた。

 なおも、モルは、その手を離さなかった。


「随分長いこと、私は沈黙を守っていました。ですが、もう、黙ってはいません。プリンス。私は、あなたを止めます。ここにいるすべての人を、証人に!」


 上官に逆らうのは、モルにとって、初めての経験だった。

 だが、彼は、少しも言いよどむことなく、堂々と言ってのけた。


 ……そうだ。

 ……もうずっと前から、俺は、この人の外出を、止めさせたかったのだ。

 ……高い熱があるのに。咳がひどいのに。

 ……なぜこの人は、外に出ようとするのか。ベッドでおとなしく寝ていてくれないのか!


 医者の言うことを聞かないのも、モルには耐え難かった。その上彼は、自分の病状を、医者に隠す。元気なふりをする。


 ……だから、マルファッティ先生は、正しい診断ができなかったのだ。

 モルは、そう信じていた。


 ……もし、マルファッティ先生が、早くから、正しい診断を下していたら。

 モルは悔しかった。

 マルファッティは、ウィーンでも評判の名医だ。プリンスが病状を隠しさえしなければ、医師は、肌や肝臓ではなく、肺の病だと、即座に見抜いたことだろう。去年の夏の時点で、肌や肝臓の治療ではなく、肺の治療を優先させたはずだ。


 ……そうしたら、彼は、ここまで悪くなることはなかった!


 モルは、知らなかった。マルファッティの裏切りを。彼は、メッテルニヒの陰謀に加担していた。


 モルはまた、プリンスが、自分たち付き人に対しても、苦痛や疲労を訴えないのに、耐えられなかった。

 自分たちは、全力で、彼を支えようとしているのに。

 なぜ、自分たちを……自分を、信じてくれないのか!


 すっかり力をなくしたプリンスの手を、モルは握ったまま、下にさげさせた。そっと自分の手を離す。

 「フランスの暴動が起きたのは、1週間前です。暴動は、たった2日で、鎮圧されました。結果は、ルイ・フィリップ政権を、安定させただけで終わりました」

 ベッドに潜り込もうとするプリンスの、耳元で囁いた。


「……」

 毛布をたくさん被り、プリンスは、ベッドの奥に、隠れてしまった。

 毛布の塊は、動かない。

 季節は、6月も終わりに近づいていた。

 部屋の中は、ぞっとするほど蒸し暑いというのに。



 モルは、プリンスの気持ちをそらそうとした。そして、つい先程、F・カール大公が訪ねてきたことを思い出した。

 F・カールは、訪れる時間を予告していた。

 だが、モルはそれを、プリンスに伝え忘れていた。

 それで、大公が訪れた時、プリンスは寝ていた。大公は、彼と会うことができなかった。


 ベッドの中のプリンスに、モルは、正直に、F・カール大公の来訪予告を伝え忘れたと告白した。


 「なんだって? それじゃ、大公がいらっしゃった時、僕は寝ていたというのか?」


 憤慨して、プリンスは叫んだ。

 ふとんを跳ね除け、侍従を呼ぶ。彼の肩を借り、ベッドの上に起き上がった。


「ご覧よ! 僕は、助けがあれば、起きられるんだ。なのに、F・カール大公叔父上がいらした時、僕は寝ていた!」


 こんなときにまで、礼儀を気にかけているのだ。

 寝たまま大公を迎えたのは、大変な非礼だったと、プリンスは恥じていた。


 「F・カール大公がいらしたのは、殿下が吸玉療法を受けられていたお時間でした。横になられていて、当たり前です」


 かろうじて、モルは、言い訳をした。








◆───-- - - -     


※1 グロリエッテ

シェーンブルン宮殿の庭園にある、ギリシア風の建造物群です。オーストリア継承戦争・7年戦争の終結を記念して、マリア・テレジアの時代から造られました。

ここに簡易エレベーターが造られたわけは、マリア・テレジアが太り過ぎて、物見台に登れなくなったからだそうです。彼女は、グロリエッテからの風景を、大層、愛していました。



※2 ラマルク将軍の葬儀と暴動

この章の「パリ 6月暴動」、ご参照下さい。

1832年6月5日に起きた暴動は、翌6日には鎮圧されています。

ここにアップロードしたお話は、6月13日朝の出来事です。パリからウィーンへニュースが届き、それが印刷・配布されるまでに、1週間近くかかっています。もちろん、メッテルニヒら要人は、もっと早くに情報を得ていましたが。













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