ゆりかごと墓場の間の巨大な無
午後1時。
プリンスは眠り始めた。
それは、眠りとは、とても言い難いものだった。
……なんというか。
……まるで、横たわった蒸気機関車だ。
モルは思った。
呼吸をするたびごとに、鉄の塊が吐き出す蒸気のような音が、プリンスの胸から聞こえてくる。
彼は、顔を顰め、苦しそうだった。瞼が、ひっきりなしに、ぴくぴくしている。のたうつように寝返りをうち、そのたびに、手足をひどく痙攣させた。
悲痛な眺めだった。いっそのこと、逃げ出してしまいたかった。
それでも、モルは、ここを離れるわけにはいかない。
彼は、マルファッティ医師から、厳命を受けていた。
……「秘跡の儀を受けずに、プリンスを死なせてはならない」
だが、秘跡の儀には、大掛かりな準備が伴う。宮廷の貴顕も、多数、参列せねばならない。
今、宮廷司祭のワーグナー師を呼びにやっていると、マルファッティは告げた。
……「急場の際は、ワーグナー司祭がなんとかしてくれるはずだ」
他に何ができるわけでもない。
とりあえず、司祭が来るまで、プリンスをしっかり見守っているように、モルは仰せつかっていた。
突然、プリンスが目を開いた。
自分をじっと見下ろしているモルに気がついた。
あるいは、秘跡を受けさせる相談が、彼に知れたのかもしれなかった。死にゆく者の、どこか超常的な勘が働いて。
怒りの表情を浮かべ、プリンスは、反対側に寝返りを打った。
頑なな背中から、モルは、目をそらせた。
どれくらい、そうしていたろうか。
「僕は、熱がある」
向こうをむいたまま、かすかな声で、プリンスがつぶやいた。
前例のない告白だった。
自ら、体調の悪さを認めるとは!
「ひどく寒い」
「今夜は冷えますから。私でも、寒いくらいです」
寒いはずがなかった。
初夏の室内は、茹だるような暑さだった。
モルは、毛布を運んできて、上官に被せた。
「寒いんじゃない。これは、熱だ」
毛布にくるまれ、それでも細かく震えながら、プリンスが繰り返す。
モルは、明かりを正面から受けないようにして、腰を下ろした。
自分が、ひどい顔をしている自覚があった。
すぐにでも秘跡を受けさせなければならないのに、肝心のワーグナー司祭が、なかなかつかまらない。
マルファッティ医師は焦りまくっていた。
その焦りと恐怖が、自分にも伝染していることを、モルは恐れた。
プリンスは、眠れないでいるようだった。
「……何かおっしゃいましたか?」
かすかなため息を聞いた気がして、モルは尋ねた。
もそもそと毛布が動いた。
声が聞こえた。
「生まれたことと、死ぬこと。これだけが、僕の人生だった」
「……聞こえません」
「ゆりかごと墓場は、近くにある。その間には、巨大な無があるだけだ」
「何も聞こえません、殿下」
顔を見られなくて良かったと、モルは思った。
きっと自分は今、泣きそうな顔をしているに違いない。
少しすると、プリンスは、積み重なった毛布をはねのけた。ようやく、悪寒が去ったのだ。
自分の額に湧いた汗を袖口で拭い、モルは、毛布を片付けた。
9時半になった。
プリンスが言った。
「Guten Abend」
いつもの、下がれ、という合図だ。
……このままお一人で、逝ってしまうおつもりか?
たまらず、モルは返した。
「もし、すぐにおやすみになられないようでしたら、今少し、殿下のおそばにいたいのですが」
「……」
プリンスは答えなかった。
15分後。
「Guten Abend」
再び、プリンスが命じた。
断固とした声だった。
プリンスは、一人になりたがっているのだと、モルは悟った。
一人で、死を受け容れようとしている……。
蹌踉と、彼は、主の元を辞した。
暑い一日だった。
湿気った夏の空気が、城を覆っていた。
夜にはいり、上空に寒気が流れ込んだ。
雲がうねり、空が、ごろごろと、不穏な音を響かせ始める。
……。
*
「
そうだ、地珠上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい
」
調子外れの歌い声が聞こえる。
黒い服を着た、男。赤い目の……。
メフィストフェレスだ。
彼は、めいっぱい、めかしこんでいた。
「
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい
」
リフレインしている。嬉しそうだ。
歌いながら、鉛色の雲の間を、弾丸のように疾走していく。
彼の行く先には、シェーンブルン城の輪郭が、ぼんやりと霞んで見える。
「止まれ!」
城の尖塔に、影が見えた。
黒い目、黒い髪、東洋系の……。
「無粋な」
つぶやき、メフィストフェレスは、宙に止まった。
黒い粒子が、滑るように、鈍色の雲の上に広がっていく。
「そこをどけ、アシュラ・シャイタン」
「どくものか。ここから先には、一歩も通さない」
「俺はこれから、かわいこちゃんとデートだ。邪魔するな」
「何を言う! 殿下の魂を喰らいに来たくせに!」
「そうだとも」
メフィストフェレスが、かっと口を開けた。赤い口が、耳まで裂けた。
そこから出てきた赤い舌が、口の周りを、ぺろりと舐める。
「わかっているなら、話は早い。俺は腹が減っている。邪魔立てすまいぞ」
「させるか!」
叫んで、塔の上の影が飛んだ。
一直線に、メフィストフェレスめがけて、突っ込んでくる。
こすれあう空気が、稲妻となって光った。すこし遅れて、雷鳴が轟く。
余裕でメフィストフェレスは、飛び込んでくるアシュラを避けた。
「気の短いやつだなあ」
呆れた声でつぶやく。
上空を、はるか彼方まで疾走し、アシュラは止まった。
「悪魔だったら、約束を守れ!」
大声で怒鳴り返す。
「約束?」
「殿下は、自ら死のうとなど、髪の毛の先程も考えていない!」
……若い命に執着したなら、救済を。けれどもし、自ら死を招いたことを認めたなら。
……貴方の、その気高い魂は、私のものです。
(※10章「賭け」、ご参照下さい)
「考えているさ!」
大口を開けて、メフィストは吠えた。
「あの子は今まさに、自らの命を断とうとしている」
「馬鹿言うな!」
アシュラの踵から、小さな炎が立ち上った。
怒りの炎が、足元から燃え立とうとしている。
メフィストフェレスが、ため息をついてみせた。両手を広げ、やれやれというように、気障な仕草で、首を横に振る。
「なら、なんで王子様は、熱があって死にそうなのに、外に出るんだ? 毎日、馬車でお出かけするのさ?」
馬鹿にしきったように鼻で笑い、メフィストフェレスは、空中を、くるりと前転した。
「それに、なんで、医者に、自分の病気を隠そうとする?」
「ルイ・ボナパルトの手紙だ!」
厚い雲の上で足を踏み鳴らし、アシュラは叫んだ。
「彼の叔父が、自然な治療を勧めてきたからだ! それに、ルイは、マルファッティのインチキを、プリンスに伝えたんだ!」
「ふうん」
再び回転しようとして、下向きになったまま、メフィストフェレスは止まった。
「従者どもは? 王子様は、部下にさえ、具合が悪いのを内緒にしてたぞ」
「しょせんは、アルゴスだ!」
両手を握りしめ、アシュラは叫んだ。
腹の底が燃えるほど、腹が立つ。
「何を言っても、政府に筒抜けだ。おいそれと具合が悪いなんて、弱音が吐けるか!」
逆さまになったまま、メフィストは、ぐらぐらと体を前後に揺らした。
「それは、ナポレオンの息子だからか?」
「違う!」
アシュラは叫んだ。
悔しくて悔しくて、仕方がなかった。
この期に及んで、ナポレオンは関係ない。
「殿下が勇敢だからだ。何者にも負けない、強い、きれいな魂の持ち主だからだ!」
「その魂だ!」
ぐいと、メフィストが、180度回転した。直立し、アシュラと対等の位置に浮かぶ。
「その、おいしい魂を、俺様は、頂きに上がった。お戯れはここまでだ。邪魔すまいぞ、アシュラ・シャイタン」
踵を3度鳴らした。
黒い靴がメリメリと破けた。
蹄のついた足がはみ出す。
その足で、重い色の雲を、どん、と踏んだ。
硫黄で鈍く光る道が、城の塔にむけて、一直線に延びていく。
もったいぶって、メフィストフェレスは、その道に足を踏み入れた。
「さて。お待ちかねのかわいこちゃんのもとへ、まいらんとするか」
「行かせるものか!」
アシュラは、少し後ろに下がった。勢いを溜めている。
「おいおい、そんな暑苦しい体で突っ込んでくるなよ。せっかくのおめかしが台無しだ」
「黙れ!」
流星のようなスピードで、メフィストめがけて、疾走を開始した。
「ああ、あ、お前は、俺が好きなんだな。だが、残念。俺は、使い魔には興味がない。今の俺が唯一、欲しいのは……」
ふと、その顔が歪んだ。
「俺の空気を熱するな! 遠いシベリアからわざわざ運んできた、冷気なんだぞ。熱のある、かわいそうなあの子への、究極のプレゼント……、あ、こら、お前!」
滑空するアシュラは、火の玉になっていた。
蹄のついた足を踏ん張り、メフィストはそれを、両手で受け止めようとする。
火の玉は、ふいと、下にさがった。
「!」
そのまま、黒い服の、へそのど真ん中に、突っ込んだ。
眩しいほどの閃光がひらめいた。
電子を帯びた光の中、悪魔と使い魔の体が、一瞬だけ、浮き上がる。ひとつに重なったそれは、地面めがけて落下していった。
再び、暗黒が支配する。
耳を聾する音が、シェーンブルン一帯に響いた。
*
絹を引き裂くような音が轟いた。
……雷が落ちた!
モルは、持っていたペンを放り出した。窓辺へ走る。
次の稲妻が、シェーンブルン城全体を浮かび上がらせる。
篠つくような雨が、ざあざあと振り始めた。
不吉な予感に、モルは、プリンスの寝室まで、走った。
息を弾ませ、部屋に駆け込む。
小さなキャンプ用ベッドで手足を縮め、プリンスは、眠っていた。
間違いなく、眠っていた。
気圧が、彼の胸を押し広げたのだ。
危機は、去った。
ようやく、ワーグナー司祭が訪れたのは、夜の11時を回った頃だった。
全ては、翌日へ持ち越された。
※
翌朝。
医師団は、危篤脱出を、宣言した。
しかし、また同じ危機が繰り返される懸念を表明した。
ゆうべの約束通り、ワーグナー司祭がやってきた。
愛想よく、プリンスは出迎えた。
司祭は、長居はしなかった。
「日を改めて、また、訪問したいのですが。いつなら、都合がいいですか?」
「いつでも歓迎です」
言ってから、仔細らしく、プリンスは首を傾げた。
「ただ、僕は、午前11時半から12時半にかけて、必ず外出します。ですから、12時にお越しになるといいでしょう」
それでは、プリンスに会えないではないか。
司祭は憮然とした。
プリンスは、哄笑した。
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