劇場に行っていいですか?


 翌日。心配そうな顔が覗く。

 F・カール大公だ。


「プリンスはお休みです」

侍従が囁いた。

「お目覚めまで、お部屋に入って、お待ちになりますか?」


「や、それはやめておこう」

F・カールは、右手を上げて、侍従を制した。

「また来るよ」

気さくにそう言って、立ち去っていった。


 彼は一昨日も、プリンスが眠っている時に来た。

 後から、寝姿を見られた甥が、ひどく不機嫌だったと聞かされていた。





 夕方。

 かすれた声が問う。

「劇場に行っていいですか?」

「ダメです」

マルファッティが、即答する。

 ……一昨日まで、危篤だったのに。

 聞いていた侍従達は、呆れた。





 休憩を終え、モルが戻ってくると、プリンスは、ちょうど、食事を始めるところだった。

「"Avez-vous déjè soupé?"(夕飯は済ませたか?)」

プリンスが尋ねた。


 フランス語だ。

 プリンスは、自分が食事をしているのを見られるのを、ひどく嫌う。

 少し考え、モルは言った。


「”Oui, monseigneur; est-ce que Votre Altesse vue mc chasser par cette demande? “(はい。私は、殿下が狩りをなさるのを拝見していてもよろしいでしょうか)」

食事を、狩りになぞらえたのだ。


「”Non, restez, ça m'est agréable. “(ここにいてくれて、かまわない)」

プリンスが答えた。



 これらの会話は、全て、フランス語でなされた。

 フランス語だから、他の従者たちには、通じていない。秘密めいた会話を、プリンスも、楽しんでいるようだと、モルは思った。

 自分と同じように。



 プリンスは、いつもより食欲があった。



 食べ終わると、寝る時間だった。

「”bon soir”(ごきげんよう)」


 いつもの下がれの合図だ。今夜は、フランス語で出た。

 もう眠るのですか、と、モルは尋ねた。


 彼は、この場を去り難かった。わずかに、プリンスの胸襟が開かれた気がしたのだ。かすかな希望を、モルは持った。


 まだ眠らない、と、プリンスは答えた。

 苦しくて、眠るどころではないのだろう。


 それなら、お休みになるまで、本を読みましょう、と、モルは提案した。


 その一言は、唐突に、プリンスの唇から漏れた。

「”Je suis content si vous restez.”(あなたがいてくれれば、嬉しいよ)」


 思いやりのこもった、優しい語調だった。少なくとも、モルの耳には、そのように聞こえた。


 ……嬉しい? プリンスが?


 この瞬間、長い間、胸にわだかまっていた氷が、一挙に溶けたように、モルは感じた。



 これまでモルは、随分と、プリンスの不興を買ってきた。女性関係を嗅ぎ回り、片っ端から壊そうとしたせいだ。


 グスタフ・ナイペルクのいたずら……いかがわしい場所で女性に抱きつかれて、無理やりキスをされたり、妖女アルマッシィのベッドに、下着姿で押し込まれたり……。

 それらは全て、プリンスの了承済みだと、モルは疑っていた。


 彼は、プリンスの女性関係に対する、深い怒りを抱えていた。

 その怒りが、今の一言で、お湯をかけられた氷のように、溶け去っていく。

 プリンスが、自分を迎え入れてくれたようにさえ、モルは感じた。




 寝ていると、筋肉が衰えると、プリンスは訴えた。

 ……病気が治った時の為に。


 回復への、強い意欲を、モルは感じられた。


 プリンスは、到底、一人では歩けなかった。モルに寄りかかるようにして、歩く。

 彼の体を支え、モルは、部屋の中を、5~6往復した。


 その後、本を読んで聞かせた。

 いつから始まった習慣かは、もう覚えていない。彼が元気だった頃は、よく、「アシュラ」という人物と間違えられた。その「アシュラ」が、適当な朗読ばかりしていたらしく、プリンスは、他人の朗読を、信用していなかった。


 だが、「アシュラ」はいなくなったらしい。恐らく、永遠に。そしてモルは、プリンスに本を読んで聞かせることを許された。そのうちに彼自身、本を支える力が失われ……。


 モルは、自分の声に感謝していた。

 特に訓練を受けたわけではない。だが、本でも新聞でも、彼が読んで聞かせると、プリンスは落ち着くらしい。うまくいけば、そのまま眠りに落ちていく。


 うとうととまどろむ彼の顔を見ていると、モルは、幸せに近い感覚を味わうのだ。


 幸い、モルは、喉が丈夫だった。2~3時間でも、余裕で読み続けることができた。

 それで、彼が眠っている間も、低い静かな声で、読み続けた。プリンスが目覚めると、再び、声の音量を上げる。

 自分はここにいますよ、ずっといましたよ、と、彼に教える為だ。


 話の内容は、どうでもよかった。声質が、重要なのだ。静かで落ち着いたモルの声には、プリンスの神経を鎮める効果があった。


 それが、アルマッシィ……モルが忌み嫌っている、ジプシーに育てられた女性……からの贈り物だということに、彼は、全く気づいていない。

(※10章「妖女アルマッシィ」「束の間の軍務再開」ご参考下さい )


 だが、この晩の読書は、長くは続かなかった。

 突然、強い熱が戻ってきた。プリンスはベッドに身を投げ出し、うめいた。

 ただ、10分もしないうちに、熱は治まった。


 11時半まで、モルは、プリンスの元にいることを許された。





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