ゾフィーに課された辛い責務
あいかわらず、フランソワは、マルファッティ医師を信じていなかった。
右の胸がひどく痛んだが、マルファッティが往診してきても、何も言わなかった。
「なぜ、お医者の先生に、言わないんです?」
医師が帰ると、侍従が尋ねた。
彼は、プリンスがベッドでのたうつようにして、痛みに堪えていたのを見ていた。
「なぜだって?」
かすれた声が吐き捨てた。
「マルファッティこそが、この状況を作り出した張本人だからさ」
「……」
不安そうに、侍従は、プリンスを見つめた。
彼は、黙っていることができなかった。
翌日。事情を聞いたマルファッティは、眉を顰めた。
その医師に、フランソワは、再びの外出許可を求めた。
「いけません。外出などしたら、また、喀血の危険があります」
「それは、僕には、何の問題もありません」
すかさず、フランソワは答えた。
「それで、僕の胸は、楽になりますから」
先日の喀血後、彼は、いくらか、体が楽になった。それは、肺の膿が吐き出されたからだと、医師たちが言っていたのを皮肉ったのだ。
*
右胸の痛みに対して、牽引療法が施されることになった。マルファッティではなく、別の専門医がやってきた。
牽引療法は、古代、ギリシアのヒポクラテスも用いた療法だ。痛みのある部分を、ゆっくりと引っ張っていく。
骨折の整復や関節の安定などの他、疼痛改善に効果があるとされていた。
フランソワは乗り気だったが、どれほどの効果があったかはわからない。
ゆっくりと、彼の体調は、悪化していった。咳もひどくなり、再び、肺に膿がたまり始めていることが察せられた。
それなのに、外に出たがるのは、相変わらずだった。
従者たちは、必死で彼を引き止めた。
*
毎日のように、ワーグナー司祭がやってくる。(※1)
ワーグナーは、宮廷司祭だ。フランソワが、幼い頃から、宗教教育を施してきた。
それなのにフランソワは、彼の訪れを、ひどく嫌がった。
司祭の姿を見るたびに、苛ついた。
「”Der Seccatore!”(いやなやつ!;イタリア語)」
一度など、司祭が完全に部屋から出ないうちに、毒づいたことさえあった。
「彼は毎日、やってくる。いったい、何が欲しいんだ?」
何をしに来るか。それは、明白だった。
秘跡の儀を執り行う、時期を探っているのだ。
ワーグナー司祭は、きちんと、皇族らしい最期の儀式を執り行うつもりだった。
プリンスは、蛇蝎のごとく忌み嫌ったが、
医師たちは、危機は繰り返すと言っている。喀血の繰り返しが、体を弱める危険もあった。
いつまた、危篤となるかわからない。次の危篤は、恐らく、死に繋がるだろう。
司祭は、秘跡の儀を、近日中に行うと、定めた。
だが、誰がそれを、彼に伝えるか。
*
「え、私?」
夫のF・カールから切り出され、ゾフィーは目を瞠った。
「私がフランツルに、秘跡の儀を受けるよう、勧めるの?」
出産を来月に控え、ゾフィーの腹は、大きく膨らんでいた。もうすぐ2歳になるフランツ・ヨーゼフが、動きの鈍くなった母の周りを、ちょろちょろと駆け回っている。
F・カールは、
「そんなの、無理よ」
ゾフィーは蒼白になっていた。
「私、言えないわ。あなたはもうすぐ死ぬのよ、なんて。私の大事な、愛しいフランツルに!」
涙を浮かべ、ゾフィーは訴えた。
「そこまで言う必要はない」
F・カールはきっぱりと言った。
「僕がそんな残酷なことを、君にさせるわけ、ないだろう?」
彼は、司祭とメッテルニヒに掛け合っていた。
そして、これが皇族最期の儀式、秘跡の儀であることは、当のフランソワには内緒にすることで、同意を得ていた。
「メッテルニヒは、ただ、世界に向けて発信したいだけなんだ。ナポレオン2世は死んだ、ってね」
「そんな……。フランツルは生きているのよ!」
「そうだ! 彼には生きててもらわなくちゃ。そのうち、
次第に声が小さくなり、F・カールは俯いてしまった。
「メッテルニヒなんて、大嫌いよ!」
金切り声で、ゾフィーが叫んだ。
「さんざん、フランツルのことを邪魔にして。私、許さないわ! いつか、見ているといい!」
「僕も同感だ」
「あなた、悔しくないの?」
「悔しいよ」
「だったらなんとかしてよ!」
「なんとか……」
「できないの? 意気地なし!」
やり場のない怒りは、おとなしい夫に向かっていく。
F・カールは、海綿のような吸収力で、それを受け止めた。
「ゾフィー、ゾフィー。落ち着いて。お願いだから」
遠慮がちに、F・カールは、妻の手を撫でた。
「お腹の子の為に」
「……」
きつい目で夫をにらみ、ゾフィーは俯いた。その目は真っ赤だ。
F・カールは、妻を宥め続けた。
「秘跡の儀には、大勢の人間が集まってくる。だが、フランツは、部屋から出ない。従者たちも、いつも通り、彼に接する。彼には隠し通すんだ。これが、秘跡の儀だということをね!」
「そんな!」
「さっきも言ったように、世界がわかりさえすればいいんだ。フランツ自身が知らなくても!」
「それでいいの? まるで彼を騙すようなものじゃない!」
「だって、フランツは、神を信じてはいないよ」
静かな声で、F・カールは諭した。
「彼の目は、神とは違うものを見ている。もっと暗い、もっと黒い、なんというか……魔的な?」
言葉を探し、F・カールは言い淀んだ。
「……ナポレオン?」
音のない、ほとんど唇の形だけで、ゾフィーが口にする。
F・カールは、首を横に降った。
「ナポレオンを、遥かに凌駕したものだ。あの子には、死ぬ気は、毛頭ないよ。彼は、まだまだ生きるつもりだ」
それは、ゾフィーにもわかっていた。
さらに
「彼は、ナポリへ行くと言っている。ナポリは、彼の夢の実現への、第一歩だ。先日、ついに、メッテルニヒが、それを許した。フランツは今、怖いものなしさ!」
この場にそぐわない、希望に満ちた口調だった。
それなのに、F・カールは悲しげだった。
それが、砂上の楼閣だということを、彼もまた、痛いほど知っているのだ。
「……だが、彼はあまりに善良過ぎるんだ。夢の実現……それが何であるかは、凡庸な僕にはわからない。ただ、あの子の中には優しい心があって、自分の夢が、
「……わかる気がするわ」
フランソワの、
彼が、ナポリに大きな夢を抱いていることも。
ゾフィーは、全力で、甥を支えたかった。
ウィーン宮廷に来た当時、ゾフィーとフランツは、等しく異邦人だった。ともに居所のない二人は、お互いに共鳴し合い、同志となった。
フランツは、いつだって、ゾフィーの味方だった。たとえゾフィーに非があったとしても、ためらわず、ゾフィーの側についた。決して許されぬ彼女の恋さえ、懸命に支えてくれた。
2年前、ゾフィーは、フランツ・ヨーゼフを得た。それにより彼女は、ウィーン宮廷に、確固たる地位を確立した。未来の皇帝の母という地位だ。
だが、フランツは、そのままだった。
彼一人が異邦人のまま、相変わらず、宮廷から一歩も出してもらえなかった。
それなのに……。
死を目前にしての、大佐昇進。
そして、ウィーンから出ても構わないという通達。
「皇帝も宰相も……あんまりよ」
思わず、ゾフィーはつぶやいた。
胸が、張り裂ける思いだった。
妻の心を、夫は、正確に読みとった。
「未来があったら! フランツに未来があるのなら、僕は、あの子のために、何でもしてやるというのに」
言いながら、F・カールは、めそめそと泣き出した。
「あなた……」
最初に泣くなんてずるい、と、ゾフィーは思った。
自分のほうが、何倍も、何十倍も悲しいのに。
F・カールが腕を伸ばした。
妻を抱き寄せようとした間に、邪魔が入った。
膨らんだゾフィーのお腹、もうすぐ生まれる、赤ん坊だ。
F・カールは、妻の腹を、そっと撫でた。
「この子に、一役買ってもらおう。な?」
「え? この子に?」
涙の溜まった目を、ゾフィーが見開く。
その目を、同じく自分の涙から透かし見て、F・カールは、大きく頷いた。
「フランツには、君のお産の無事を願って、聖餐拝領をすると言うんだ。ついでに、彼の回復も祈りたいって、言えばいい」
「それは、彼を騙すことにならないかしら」
「仕方ないよ。それなしで死ぬと、天国へ行けないと脅されてるんだから」
F・カールは肩を竦めた。
「正直に言えば、彼に、秘跡の儀なんて、必要ない。どのみち彼は、行きたいところへしか、行かないよ。秘跡の儀は、
「皇帝の?」
「ああ。
F・カールは言いよどんだ。
「宗教とは、そこまで残酷なものだろうか。彼に、お前は死ぬと、突きつける必要はない。彼が、うまく騙されてくれれば、それでいいと、僕は思っている。そしてそれができるのは、ゾフィー、君しかいないんだ」
他には誰もできない、辛い責務が、身重のゾフィーに課された。
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