ゾフィーに課された辛い責務


 あいかわらず、フランソワは、マルファッティ医師を信じていなかった。

 右の胸がひどく痛んだが、マルファッティが往診してきても、何も言わなかった。


「なぜ、お医者の先生に、言わないんです?」

 医師が帰ると、侍従が尋ねた。

 彼は、プリンスがベッドでのたうつようにして、痛みに堪えていたのを見ていた。


 「なぜだって?」

かすれた声が吐き捨てた。

「マルファッティこそが、この状況を作り出した張本人だからさ」


「……」

不安そうに、侍従は、プリンスを見つめた。


 彼は、黙っていることができなかった。

 翌日。事情を聞いたマルファッティは、眉を顰めた。

 その医師に、フランソワは、再びの外出許可を求めた。

「いけません。外出などしたら、また、喀血の危険があります」


「それは、僕には、何の問題もありません」

すかさず、フランソワは答えた。

「それで、僕の胸は、楽になりますから」


 先日の喀血後、彼は、いくらか、体が楽になった。それは、肺の膿が吐き出されたからだと、医師たちが言っていたのを皮肉ったのだ。







 右胸の痛みに対して、牽引療法が施されることになった。マルファッティではなく、別の専門医がやってきた。


 牽引療法は、古代、ギリシアのヒポクラテスも用いた療法だ。痛みのある部分を、ゆっくりと引っ張っていく。

 骨折の整復や関節の安定などの他、疼痛改善に効果があるとされていた。


 フランソワは乗り気だったが、どれほどの効果があったかはわからない。



 ゆっくりと、彼の体調は、悪化していった。咳もひどくなり、再び、肺に膿がたまり始めていることが察せられた。


 それなのに、外に出たがるのは、相変わらずだった。

 従者たちは、必死で彼を引き止めた。







 毎日のように、ワーグナー司祭がやってくる。(※1)

 ワーグナーは、宮廷司祭だ。フランソワが、幼い頃から、宗教教育を施してきた。


 それなのにフランソワは、彼の訪れを、ひどく嫌がった。

 司祭の姿を見るたびに、苛ついた。


「”Der Seccatore!”(いやなやつ!;イタリア語)」

 一度など、司祭が完全に部屋から出ないうちに、毒づいたことさえあった。

「彼は毎日、やってくる。いったい、何が欲しいんだ?」


 何をしに来るか。それは、明白だった。

 秘跡の儀を執り行う、時期を探っているのだ。

 ワーグナー司祭は、きちんと、皇族らしい最期の儀式を執り行うつもりだった。


 プリンスは、蛇蝎のごとく忌み嫌ったが、この神の使者ワーグナー司祭は、毎日のように、城を訪れた。


 医師たちは、危機は繰り返すと言っている。喀血の繰り返しが、体を弱める危険もあった。

 いつまた、危篤となるかわからない。次の危篤は、恐らく、死に繋がるだろう。


 司祭は、秘跡の儀を、近日中に行うと、定めた。

 だが、誰がそれを、彼に伝えるか。






 「え、私?」

夫のF・カールから切り出され、ゾフィーは目を瞠った。

「私がフランツルに、秘跡の儀を受けるよう、勧めるの?」


 出産を来月に控え、ゾフィーの腹は、大きく膨らんでいた。もうすぐ2歳になるフランツ・ヨーゼフが、動きの鈍くなった母の周りを、ちょろちょろと駆け回っている。

 F・カールは、バロネス・ストゥムフィーダー養育係に合図して、小さな息子を外に連れ出してもらった。



 「そんなの、無理よ」

ゾフィーは蒼白になっていた。

「私、言えないわ。あなたはもうすぐ死ぬのよ、なんて。私の大事な、愛しいフランツルに!」

涙を浮かべ、ゾフィーは訴えた。


「そこまで言う必要はない」

F・カールはきっぱりと言った。

「僕がそんな残酷なことを、君にさせるわけ、ないだろう?」


 彼は、司祭とメッテルニヒに掛け合っていた。

 そして、これが皇族最期の儀式、秘跡の儀であることは、当のフランソワには内緒にすることで、同意を得ていた。


「メッテルニヒは、ただ、世界に向けて発信したいだけなんだ。ナポレオン2世は死んだ、ってね」

「そんな……。フランツルは生きているのよ!」

「そうだ! 彼には生きててもらわなくちゃ。そのうち、姉上マリー・ルイーゼも帰っていらっしゃる。そうすれば、回復の望みも……」

 次第に声が小さくなり、F・カールは俯いてしまった。


「メッテルニヒなんて、大嫌いよ!」

金切り声で、ゾフィーが叫んだ。

「さんざん、フランツルのことを邪魔にして。私、許さないわ! いつか、見ているといい!」


「僕も同感だ」

「あなた、悔しくないの?」

「悔しいよ」

「だったらなんとかしてよ!」

「なんとか……」

「できないの? 意気地なし!」


 やり場のない怒りは、おとなしい夫に向かっていく。

 F・カールは、海綿のような吸収力で、それを受け止めた。


「ゾフィー、ゾフィー。落ち着いて。お願いだから」

遠慮がちに、F・カールは、妻の手を撫でた。

「お腹の子の為に」

「……」


 F・カールの言葉は、激烈な、鎮痛剤のような効果を齎した。

 きつい目で夫をにらみ、ゾフィーは俯いた。その目は真っ赤だ。


 F・カールは、妻を宥め続けた。

「秘跡の儀には、大勢の人間が集まってくる。だが、フランツは、部屋から出ない。従者たちも、いつも通り、彼に接する。彼には隠し通すんだ。これが、秘跡の儀だということをね!」

「そんな!」

「さっきも言ったように、世界がわかりさえすればいいんだ。フランツ自身が知らなくても!」

「それでいいの? まるで彼を騙すようなものじゃない!」


「だって、フランツは、神を信じてはいないよ」

静かな声で、F・カールは諭した。

「彼の目は、神とは違うものを見ている。もっと暗い、もっと黒い、なんというか……魔的な?」

言葉を探し、F・カールは言い淀んだ。


「……ナポレオン?」

音のない、ほとんど唇の形だけで、ゾフィーが口にする。


 F・カールは、首を横に降った。

「ナポレオンを、遥かに凌駕したものだ。あの子には、死ぬ気は、毛頭ないよ。彼は、まだまだ生きるつもりだ」


 それは、ゾフィーにもわかっていた。

 さらにF・カールは続けた。


「彼は、ナポリへ行くと言っている。ナポリは、彼の夢の実現への、第一歩だ。先日、ついに、メッテルニヒが、それを許した。フランツは今、怖いものなしさ!」


 この場にそぐわない、希望に満ちた口調だった。

 それなのに、F・カールは悲しげだった。

 それが、砂上の楼閣だということを、彼もまた、痛いほど知っているのだ。


「……だが、彼はあまりに善良過ぎるんだ。夢の実現……それが何であるかは、凡庸な僕にはわからない。ただ、あの子の中には優しい心があって、自分の夢が、兄上フェルディナンド大公を傷つける結果になると、ひどく恐れている」

「……わかる気がするわ」


 フランソワの、フェルディナンド大公クラウン・プリンスへの、畏れにも似た悔恨の情は、ゾフィーにも伝わっていた。

 彼が、ナポリに大きな夢を抱いていることも。


 ゾフィーは、全力で、甥を支えたかった。


 ウィーン宮廷に来た当時、ゾフィーとフランツは、等しく異邦人だった。ともに居所のない二人は、お互いに共鳴し合い、同志となった。

 フランツは、いつだって、ゾフィーの味方だった。たとえゾフィーに非があったとしても、ためらわず、ゾフィーの側についた。決して許されぬ彼女の恋さえ、懸命に支えてくれた。


 2年前、ゾフィーは、フランツ・ヨーゼフを得た。それにより彼女は、ウィーン宮廷に、確固たる地位を確立した。未来の皇帝の母という地位だ。


 だが、フランツは、そのままだった。

 彼一人が異邦人のまま、相変わらず、宮廷から一歩も出してもらえなかった。


 それなのに……。

 死を目前にしての、大佐昇進。

 そして、ウィーンから出ても構わないという通達。


「皇帝も宰相も……あんまりよ」

 思わず、ゾフィーはつぶやいた。

 胸が、張り裂ける思いだった。


 妻の心を、夫は、正確に読みとった。

「未来があったら! フランツに未来があるのなら、僕は、あの子のために、何でもしてやるというのに」

言いながら、F・カールは、めそめそと泣き出した。


「あなた……」

 最初に泣くなんてずるい、と、ゾフィーは思った。

 自分のほうが、何倍も、何十倍も悲しいのに。


 F・カールが腕を伸ばした。

 妻を抱き寄せようとした間に、邪魔が入った。

 膨らんだゾフィーのお腹、もうすぐ生まれる、赤ん坊だ。

 F・カールは、妻の腹を、そっと撫でた。


「この子に、一役買ってもらおう。な?」

「え? この子に?」


 涙の溜まった目を、ゾフィーが見開く。

 その目を、同じく自分の涙から透かし見て、F・カールは、大きく頷いた。


「フランツには、君のお産の無事を願って、聖餐拝領をすると言うんだ。ついでに、彼の回復も祈りたいって、言えばいい」

「それは、彼を騙すことにならないかしら」

「仕方ないよ。なしで死ぬと、天国へ行けないと脅されてるんだから」


F・カールは肩を竦めた。


「正直に言えば、彼に、秘跡の儀なんて、必要ない。どのみち彼は、行きたいところへしか、行かないよ。秘跡の儀は、皇帝の為でもあるんだ」


「皇帝の?」

「ああ。皇帝は、孫が、秘跡を受けずに死ぬことに、耐えられないのさ。だが、……」


F・カールは言いよどんだ。


「宗教とは、そこまで残酷なものだろうか。彼に、お前は死ぬと、突きつける必要はない。彼が、うまく騙されてくれれば、それでいいと、僕は思っている。そしてそれができるのは、ゾフィー、君しかいないんだ」


 他には誰もできない、辛い責務が、身重のゾフィーに課された。






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