ゾフィーの幸福を願って
17日昼過ぎ。
最初に、F・カール大公、そして、レオポルト大公夫妻が訪れた。
10分もしないうちに、ゾフィー大公妃が到着し、最初に来ていた3人は帰っていった。
全て、さり気なさを演出する為だ。
ゾフィーが一人で、甥の元を訪れるなんて、唐突過ぎる。
自分たちが立ち去る時、F・カール大公は、部屋にいた従者たちを外へ連れ出した。
「ラクセンブルクへ行ったの?」
あくまで、彼が元気であるかのように、ゾフィーは尋ねた。
「あそこのお城は、
「ナポレオンが攻めてきた時に」
忍びやかな声で言って、フランソワは笑った。
彼は、きちんとしてた。
接客にふさわしい服に着替え、椅子に座っている。
そうした行為が、どれほど彼の負担になるか、ゾフィーにも充分過ぎるほど、わかっていた。
……この子は、いつだって、本当に礼儀正しい。
それは、ゾフィーを大切に思っている証拠だった。死の間際においてもまだ、フランソワは、ゾフィーが好きだった。
6歳年上の、
お産の話を振ったのは、フランソワだった。
「もうすぐ生まれるんだね?」
「ええ、楽しみだわ」
この話題に、ゾフィーは飛びついた。
「でも、不安でもあるの」
「大丈夫だよ。君なら。絶対に」
優しい青い目が向けられる。
「ありがとう、フランツル」
ゾフィーは胸がいっぱいになった。
だが、ここで泣き出すわけには行かない。
「あのね、フランツル。お産の安全を願って、私、聖餐を受けることにしたの」
大きく息を吸った。
……落ち着いて。
自分を叱咤し、続ける。
「それでね。ついでに、あなたの病気の回復もお願いしちゃおうと思うんだけど。ねえ、フランツル。あなたも、聖餐を受けたらどうかしら?」
「……」
フランソワは何も言わなかった。
「ワーグナー司祭にお願いするの。あなたも、私のお産の安全を、願ってくれるわね?」
「いつだって君の幸福を願っているよ、ゾフィー」
「フランツル……」
危うく、涙が出るところだった。
ゾフィーは、青く美しい瞳から、目をそらせた。
「二人きりになったのは、久しぶりだね」
妙に大人びて、フランソワが言った。
ゾフィーは笑い出した。
「私達、いつだって、二人きりになれるのよ?」
「無理だよ。フランツ・ヨーゼフがいるじゃないか。その上、もう一人、赤ちゃんが増えたら、ますます、二人きりでは会えなくなる」
「大丈夫よ。
「ダメだよ。君は、決して、子どもを置き去りにしたりしない」
ここしばらく、聞いたこともないくらい、はっきりとした声だった。
ゾフィーは、胸を衝かれた。
……
フランソワがどんなに母の訪れを待っているか、それは痛いくらい、ゾフィーに伝わっていた。
ゾフィーだけではない。
シェーンブルン宮殿にいる誰もが、マリー・ルイーゼの訪れを待ちわびている。
フランソワが、姿勢を正した。
「ゾフィー。お願いがある」
「何?」
「君のその子……お腹の子を、……」
フランソワは言い澱んだ。
「この子?」
ゾフィーは、腹に手を置いた。
フランソワは頷いた。
何か言いかけ、言葉を飲み込む。
「何よ」
ゾフィーは笑いだした。少しだけ、以前の雰囲気が戻ってきた。
以前の……フランソワがまだ、元気だった頃の、親密な、けれども屈託のない……。
フランソワが、顔を上げた。真っすぐに、ゾフィーの顔を見つめた。
「その子を、僕にくれないか?」
思い切った声だった。
「え?」
思いもかけなかった言葉に、ゾフィーは、咄嗟に反応できなかった。
反対に、フランソワは、平静だった。きっぱりと、彼は、決めつけた。
「その子は、僕の子だ。いいね?」
「フランツル。言ってる意味が……」
ふい、と、フランソワは横を向いた。
「
駄々っ子のようだった。
思わず、ゾフィーは吹き出した。
「くれる? 僕に。君の赤ちゃん」
上目遣いで、フランソワがゾフィーを見上げた。彼が13歳の時、初めて会ったあの時と同じ、透明な眼差しだ。
「話してみるわ。この子に。生まれてきたら」
膨らんだ腹を、ゾフィーはそっと撫でた。
腹の内側から、とん、と蹴られた。
間違いなくこの子は、フランツを選ぶだろう。
夫もまた、子どもの選択を受け容れるだろう。だって彼は、子どもの頃からずっと、フランツのことが、好きだった。
傍にいて、彼を愛さずにいられる人がいるのなら、見てみたい、と、ゾフィーは思った。
「お腹に触ってみる?」
彼女は尋ねた。
強く、フランソワは首を横に振った。
腹の子をくれ、などと言いながら、まるで怯えているみたいだった。
微笑みながら、ゾフィーは、彼の手を取った。
フランソワは、されるがままになっている。
彼女は彼の手を、自分の腹の、膨らんだ頂上に乗せた。
強く、胎児が動いた。服の上からもわかるくらい、はっきりと。
火傷したように、フランソワが、手を引っ込めた。
青い目を丸くして、ゾフィーを見つめている。
「ここにいるの。私達の声も聞こえてる」
小声で、ゾフィーは告げた。
フランソワが身をかがめた。
「僕がお父さんだ。覚えておいて欲しい」
腹に向かい、かすれた声で囁いた。
聖餐については、それ以上、突っ込んだ話はできなかった。
宙吊りになったまま、その日は、蒸し返されることがなかった。
フランソワは、Yes も No も、口にしなかった。
*
この夜、プリンスは、なかなか眠れなかった。ひどく具合が悪いのだと、夜勤のモルは思った。
彼は、3時間ぶっ通しで、本を読んで聞かせた。その間、プリンスは、まどろみもしなかった。
ゾフィー大公妃が、来たことは、モルも知っている。
秘跡の儀は、プリンスには内緒で行われる。
……ひょっとして、プリンスは、何かを悟ったのだろうか。
聡いプリンスのことだ。モルは、危惧した。
「とても寒い」
かすれた声で、彼の上官はつぶやいた。
「元気になるには、どうしたらいいだろう。ああ、治るのに、随分時間がかかることだ」
だが、マルファッティが往診にくると、相変わらず彼は、元気でいたと述べた。
*
翌日。
ワーグナー司祭が尋ねてきた。彼はプリンスと面会し、明後日(6月20日)、聖餐を授ける、と伝えた。
フランソワは、聖餐拝領を、あっさり承諾したという。
だが、司祭が退出すると、吐き捨てるようにつぶやいた。
「なんて煩わしいことを言う司祭だ!」(※2)
ゾフィーに提案させたのは、うまいやりかただった。狡猾と言っていい。
宮廷で、唯一信頼しているゾフィーの頼みなら、彼は、断れない。
彼女が間に入らなければ、彼に聖餐を受けさせることは、不可能だったに違いない。
◆───-- - - -
※1 ワーグナー司祭
この章の「キリスト教徒としての死を」に、皇帝と一緒に登場している、宮廷司祭です。
※2 なんて煩わしいことを言う司祭だ!
ライヒシュタット公の言葉として、モルが、日誌に記しています。原文は、
"Wie mich der Burgpfarrer sekkiert!!"
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