神に逆らう行為 2
「僕は、フランスには行かない」
ひどくはっきりと、フランソワは言った。
アシュラは戸惑った。
「え? ……だってあなたは、フランスへ帰りたかったはずじゃないんですか? ナポレオンの遺訓を、護りたいのではないのですか?」
「アシュラ。僕は、一度だって言ったことはない。フランスへ帰りたい、などと」
アシュラは目を瞠った。
ディートリヒシュタインは、望んだ。
皇帝さえも、最終的には是認した。
しかしそれは、周囲の期待でしかなかったというのか……。
「父の遺訓。しかし、時代の流れは、あまりに早すぎた。今、僕に、
モントロンの口述筆記による、ナポレオンの遺書には、フランスに帰れない場合は、ナポレオンの姪と、帰れた場合は、ロシアの皇女と結婚せよと書かれていた。
「軍によって身を立てた父に、どうしてわからなかったのだろう。革命の継承者である父に、どうして、理解できなかったのだろう。王族の結婚が、その国の文化や版図を決定するというのは、今となっては、馬鹿げた考えだ。父は、世襲の皇帝になってはいけなかったのだ」
「ナポレオンを、否定するのですか?」
「違う。違うよ、アシュラ」
答える声は、穏やかだった。
「僕は、父の遺志を受け継ぐ。それは、ヨーロッパをひとつにすることだ」
「ヨーロッパを、ひとつに……」
「アシュラ。前にも言った。乱立する国々の調和と、格差の解消。それには、異民族感でも意思疎通のできる言語の確立と、貨幣や度量衡など、価値の統一が必要なんだ」
……度量衡や貨幣の統一、そして、異なる民族であっても、互いに意思の疎通ができる、言語の確立……。
……確かに父上も、それを望まれていた。乱立する国々の真の調和と、人々の格差をなくすことこそが、僕に課せられた使命であったはずなんだ。
(※ 6章「ブルク・バスタイにて 2」より)
思えば、ずいぶん前から、フランソワはそれを口にしていた。
「
フランソワは、そっと、胸の辺りを撫でた。
そこには、プロケシュ少佐から贈られた、アレクサンダー大王のコインが吊るされていることを、アシュラは知っている。
「西から東方を目指して失敗した。同じ轍を、僕は踏まない。僕は、南からいく。イタリアから始める」
「イタリア! お母様のいらっしゃる、パルマですね!」
「違う。
ナポリは、イタリア半島の南端の都市だ。
ナポリのある両シチリア王国は、オーストリアの領土でも、自由にできる公国でもない。両シチリア王国は、イタリア・ブルボン家の支配下にある。
強い目を輝かせ、フランソワは言った。
「僕は、
「なんですって!?」
「民族主義の名の下、イタリアを統一させ、強大な中央集権国家を樹立する」
「民族主義……?イタリアを、統一?」
「イタリアを支配下に置きながら、父上は、領邦の存在を許した。親族を王において、油断したんだ。あそこは、それではダメだ。イタリアは、統一されねばならない」
「……」
アシュラは、言葉もなかった。
ここまで病み疲れながら、この人は、自分の行くべき道を、曇りのない目で見据えていたとは。
しかもそれは、
全く違った道を、彼自身の道を、彼は、切り開こうとしている。
「ただ……」
フランソワの声が翳った。
石畳に、馬車の車輪がやかましい。
それは、ほとんど、聞き取れないほど、小さな声だった。
「ただ、イタリアの統一など、
フランソワは、アシュラの方に体を向けた。
強い瞳で射すくめる。
「なぜならそれは、神に逆らう行いだからだ」
「神に……逆らう?」
わけがわからなかった。
馬車が止まった。
大きな建物の前に付けられている。
劇場だった。
「少し待ってろ」
言いおいて、アシュラが止める間もなく、フランソワは馬車を飛び降りた。
馬丁を伴い、建物の中に入っていく。
彼は、すぐに戻ってきた。
しなやかな身のこなしで、馬車に入り込んでくる。
「ラウパッチ(劇作家)の悲劇、『エンツォ王』のパンフレットだ」
再び馬車が走り出すと、彼は、色刷りのパンフレットを差し出した。
「悲劇? お芝居ですか?」
「近く公開される。これは、その宣伝パンフレットだ。劇のおおまかな内容が書いてある。あらすじくらいなら、お前でも読めるだろう?」
「それはまあ……」
アシュラは渋い顔をした。
劇のあらすじなどから、何がわかるというのだ?
……イタリア統一は、神に逆らう行為だ。
その言葉の意味を、フランソワ自身の口から聞きたかった。
だが、フランソワが、それ以上、口を開くことはなかった。
無蓋の馬車は、固い石畳の上を、どこまでも走っていく。
通り過ぎる風は、フランソワの呼吸を楽にしてくれているのだろうか。
こっそり横を窺った。
フランソワは、空気を味わうように目を細め、背もたれに凭れかかっていた。
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