神に逆らう行為 1
グスタフは、挫けなかった。
彼は、頻繁に、ナポリのモーリツ・エステルハージと連絡を取り合っていた。
モーリツは、プリンスの無気力を、全ての希望を潰されたことからくる、絶望だと見ていた。
ウィーンから出してもらえない。
希望していた軍務も、ウィーン駐留になってしまった。このままでは、戦争があっても、ウィーンの外には、出してもらえそうもない。軍務と言えば、パレードばかり。これではまるで、お飾りだ。
身分だって、公爵だ。大公には劣る。その上、皇族なら与えられるはずの、
……「プリンスは、人生を、もっと楽しまなくてはならない」
モーリツが、書き送ってきた。
グスタフだって、同じ思いだった。
否、幼い頃から一緒だったからこそ、より一層、その思いは強い。
彼は、幼くして、父親だけではなく、母親まで、奪われてしまったではないか。
……奪ったのは、グスタフの父親だったけれども。
パルマで、母の膝下で育てられている、二人の異母妹弟のことを考えると、グスタフの胸は、プリンスへの申し訳無さで、いっぱいになった。
……せめて、プリンスの心だけでも、解放してやりたい。
ウィーンとナポリの距離をものともせず、二人の悪友は、熱心に話し合った。
そして、ある真実に到達した。
……フランスが、いつまでもプリンスに執着するから、メッテルニヒは、プリンスを、ウィーンから出さないのだ。
だったら、フランスの、プリンスへの執着を、断ち切ればいい。
プリンス……ナポレオンの息子への。
……プリンスに子どもを作らせればいいんだ!
その素晴らしいアイディアを思いついたのは、グスタフだった。
……そしてその子を、フランスにくれてやるんだ。プリンスの子は、ナポレオンの孫。子どもだって孫だって、似たようなもんだろ?
ナポリのモーリツは、大喜びで(?)、この案に乗ってきた。
……「フランスが引き取るんだったら、皇帝だって目をつぶるだろ。なにしろ、養育費を、1クロイツァーも支払わずに済むんだからな!」
そのとおりだと、グスタフは返事を返した。折返し、モーリツから手紙が届く。
……「簡単に、子どもを生んでくれそうな女性を、大急ぎで探さなくちゃ」
それなら、既婚夫人がいいのではないかということで、二人の話は一致した。妻にベタ惚れしている夫を持つ、既婚夫人だ。妻のやることなら、なんでも赦してくれそうな……。
グスタフには、心当たりがあった。
*
宮殿の入口で、士官が二人、大騒ぎをしている。
「だから、そこをどけと行ってるだろう! 俺は、ライヒシュタット公を迎えに来たんだ」
「いいえ、グスタフ・ナイペルク。あなたを通すわけにはいきません!」
「なぜ? 俺は、殿下と約束したんだ。今日、劇場へご案内するって」
「今宵は、殿下は、お出かけになりません!」
「お前が決めるな、モル! 単なる付き人のくせに……」
その時、柱の陰に黒い人影が立ち止まった。
長いコートを着て、高く立てた襟に、顔を埋めるようにしている。
グスタフが、コートの人影に気がついた。彼と相対しているモルからは、見えていない。
コートの人影に向かって、グスタフは、わずかに顎を引いた。相手は、右手を挙げてそれに応える。
「単なる付き人ではありません!」
猛り狂って、モルが抗議した。
「私はライヒシュタット公麾下の
言いかけてモルは、唇を噛んだ。
「とにかく、あなたを彼の元へ通すわけにはいかないのです、グスタフ・ナイペルク」
「なぜだ? なぜ君は、そんなにも、俺に冷たいんだ?」
「冷たい? はっ、何を言ってるんだか」
「知ってるぞ。いつも、いやーな目で、俺を見てるじゃないか」
「それは、あなたが、プリンスを連れ出すからです。おまけに、我々を出し抜こうなんて……」
「誰にだって息抜きは必要だからな。プリンスにも、だ」
「息抜き?」
モルは目を剥いた。
「貴方と一緒だと、プリンスの評判は悪くなる一方です!」
「だって今夜は、劇場に行くだけだぜ?」
言いながらグスタフは、顎をぐいと、横に引いた。
柱の陰の人影が、二人の後ろを通り抜けていく。
「劇場だけ? 信じられるものですか! あなたが殿下を連れて行く場所は、どこもここも、下品極まりない! あんなところで目撃されたら、殿下の評判に傷がつく」
「そんなことはない」
「あります!」
「なら、今夜は君を連れて行こう、モル」
「……え?」
「俺はかねがね考えていた。お前は、女と遊び歩かないから、ダメなんだ。このままでは、出世の道は危ういぞ」
「出世が危いのはどっちですか! ちょっと! 腕を掴まないで下さい」
「いいからいいから」
「よくないです! 私には、プリンスのお側に侍る義務が……」
「それなら、スタンかハルトマンがやってくれるさ。さ、出かけるぞ」
グスタフは、強引にモルの腕を引いて歩き出す。
その時にはもう、コートの人影は消えていた。
*
「へえ。グスタフがモルをシュペルル(※ダンスホールのひとつ。あまり雰囲気がよくない)へ」
フランソワが、低く笑った。
馬車は、ウィーンの街中を、がらがらと走っていく。
「殿下にもお見せしたかったですよ。あの時のモルの顔!」
アシュラが笑った。
「自分の顔を見ているようだったろう?」
フランソワが茶化す。
「いいえ」
憮然としてアシュラは答えた。
「私のほうが、ずっとハンサムです」
フランソワは吹き出した。
「ああ、今夜は、気分がいい」
「それはよかった。でも、オープンカーでは、寒いです。幌を付けましょうよ」
「このままでいい」
「だって、もう真冬ですよ。寒くて、顔が凍傷になりそうだ……」
「馬に乗るのが好きだ」
ぽつんと声が聞こえた。
「馬車には、幌がない方がいい。だって、早く走らせれば走らせるほど、風を切って、呼吸がしやすくなる」
「呼吸が……? しやすく……?」
「夜、出かけるも好きだ。一人で寝室にいると、咳が出て、」
フランソワは軽く咳き込んだ。
「どのみち、眠れやしない。外へ出たいんだよ、アシュラ」
「殿下。もしかして、具合がすごく悪いんじゃないですか?」
この頃、本物のモルが宮殿に詰めているので、アシュラはなかなか、フランソワに近づけないでいた。
今夜は、グスタフの機転で、久々に、フランソワの近くまで来れたのだ。
フランソワの返事は、素早かった。
「僕は、絶好調だ」
「とてもそうは見えません。今夜は、外出は諦めて、宮殿へ帰りましょう……」
「いやだ!」
「だって、きっと熱が……」
「触るなよ」
フランソワが凄んだ。
「第一、外へ出ろというのは、
ふさぎ込みがちなプリンスに、マルファッティは、夜間の外出を勧めた。劇場やダンスホールでの夜遊びも、推奨した。
「あのヤブ医者に何がわかるってんです?」
声を極めて、アシュラは罵った。
「咳の出る患者に夜遊びを勧めるなんて!」
「うん、マルファッティはヤブ医者だな。それは間違いない。だって、ころころ意見が変わるから」
「わかってるなら! 医者を変えてもらいなさいよ!」
「医者なんて、どれも同じさ」
諦めきったように、フランソワは言い放った。
「少なくとも、今の医学では。病気を治したかったら、一番の方法は、普段どおりに生活することだ。普通に暮らすのが、一番楽なんだよ。……ヤブ処置で、医者に殺されないためにもね」
「……」
そうだ。誠実なヴァブルフ医師でさえ、ベートーヴェンを救えなかった。
死の間際の腹腔穿刺は、音楽家に、多大な苦痛を与えた……。
「それにね。こうして人中に出ていれば、誰かが気づくだろう。僕の病気が何か。僕は、なぜ、死ななければならなかったか」
「殿下!」
「……いや、そういう意味じゃない。もし万が一、僕が急に死んだら……、」
「殿下!!」
「だから、元気だった人間が急に死んだら、誰だって疑うだろ? でも、宮殿に籠もっていたんじゃ、元気だったのか、病気だったのかさえ、わからないじゃないか」
「死ぬなんて、おっしゃらないで下さい!」
アシュラは叫んだ。しかし、フランソワは、止めない。
「誰かが見ている。僕は、本当に、肝臓の病だったのか。あるいは、フランスの大使が言うように……」
くすりと笑った。
「放蕩の果てに身を持ち崩したのか」
「殿下。お願いだから、過去形は止めて下さい」
フランソワはひどく咳き込んだ。
アシュラは思わず、その背を撫でた。身を捩り、フランソワは、アシュラの手を逃れようとする。
「強情を張らないで。苦しい時は……、お願いだから、殿下……」
アシュラは、たまらない気持ちになった。
「殿下。死んでる場合じゃないでしょ。フランスへ行きさえすれば、あなたは、王になれるんですよ?」
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