踊り子 ファニー・エルスラー
「大変だ! 大変だ、
街中から帰ってきたハルトマン将軍が、留守居のモル男爵に駆け寄ってきた。ぜいぜいと、荒い息をしている。
モルは、もちろん、本物である。
「どうしたんです、そんなに慌てて……」
「今、そこで……」
ハルトマンは息を切らせていた。モルの肩に両手を置くようにして、腰を曲げて俯き、呼吸を整えている。よほど慌てて帰ってきたようだ。
「今、マリーの店で、大変なことを聞いた。プリンスが……、」
「プリンスがどうしたのです?」
「プ、プリンス……」
息を切らせ、ハルトマンは、声にならない。
モルの顔に、焦りの色が浮かんだ。自分の肩に置かれたハルトマンの両手を振り払った。反対に、上官の肩を掴み、大柄なその体を、ぐらぐらと揺さぶった。
「しっかりして下さい、将軍!」
「痛たたた……」
ハルトマンは、身をのけぞらしてモルの手を逃れようとする。荒い呼吸がまだ、続いている。
「プリンスが……」
「だから、プリンスが、どうしたと?」
「手紙を送ったんだ」
「手紙? 誰に」
「女に」
「なんですって!」
モルの顔色が変わった。
「女!」
「踊り子だよ。ダンサーだ。ファニー・エルスラーという」
「それはまた……」
「ああ、どうしよう、モル」
ハルトマンは、嘆いた。
「皇帝からあれほど、プリンスの女性関係に気をつけるよう、言われていたのに」
「行きましょう、ハルトマン将軍」
弾かれたように、モルは立ち上がった。
「行くって……、どこに?」
「その、ファニー・なんたらのところですよ。不用意に書かれた手紙が、どのようなうろんな者の手に渡るか、わかったものじゃない。プリンスの手紙を取り返して来なくては!」
「ま、待ってくれ。俺も行く」
敏捷な身のこなしで出ていくモルの後を、ハルトマンは慌てて追いかけた。
*
郵便配達人がドアを叩いた。
すらっとした女性が、ドアを開けた。大きな目、すっと通った鼻筋、聡明そうな額。遠くからでも、彼女が大変な美貌であることが見て取れた。地味なドレスの下は、引き締まった体つきをしていることがわかる。それに彼女は、とても若く見えた。どうかすると、まだ、10代にしか見えない。
「ああいうのが、プリンスの好みなのか……」
少し離れた所に積んであった樽の陰に隠れて、ハルトマンが思わずつぶやいた。瞬間、いやというほど、足を踏まれた。
「痛っ! 痛いじゃないか、モル」
「どうしました?」
「踏んだんだよ、お前が。俺の足を」
「そうですか。すみません」
少しも悪く思っていない様子で、モルは謝った。彼は、すっと立ち上がった。すたすたと、女性めがけて歩いていく。
突然、傍らに歩み寄ってきた影に、ファニー・エルスラーは、顔を上げた。
白い軍服姿の帝国軍人が二人、自分のすぐそばに立っているのに気がついた。彼女は、驚いたように、大きな目を、さらに大きく見開いた。
「失礼、お嬢さん。その手紙を、お渡し願えませんか?」
ずけずけと、モルが言った。
「手紙……いえ、ダメです」
ファニーは、手紙をひしと抱きしめた。
「この手紙は、とても大事なものですから」
「ライヒシュタット公からの手紙ですね? 隠しても無駄です。わかっていますから」
ファニーは、一歩退いた。手紙を胸に押し付けたまま、いやいやをするように、首を横に振っている。
ぐっと、モルが前へ踏み出した。
「嘘をついてもダメです。……おい、この手紙は、宮殿から出されたものだな」
それまで口を開けて、成り行きを眺めていた配達人は、急に矛先を向けられ、ひどく焦った。反射的に、こくこくと頷く。
「ほら」
配達人から再び、ファニーに視線を戻し、冷たい声で、モルは言った。
「ライヒシュタット公のお立場は、おわかりですね? 彼に迷惑をかけたくなければ、その手紙をお渡しなさい」
「……できません」
消え入るような声で、ファニー・エルスラーは答えた。
モルは舌打ちした。
「静かに言っているうちに渡した方が、身の為ですよ」
「おい、モル。御婦人に手荒な真似をするわけにはいかない」
ハルトマンがモルの軍服の裾を引いた。
振り返って、モルは、上官に噛み付いた。
「あなたは黙って、ハルトマン将軍。私達には、義務があるのです。あらゆる悪評から、プリンスをお護りするという、神聖な義務が、ね!」
「悪評?」
ファニーが聞き咎めた。その眉間に皺が寄った。
「この手紙によって、あの方に悪評が立つなどと、私には思えません!」
「これだから女は……」
再び、モルは舌打ちをした。
「あなたには、彼のことがわかっていない! そんな女に、彼の愛情を受け取る資格はありません」
「……え?」
ファニーの顔に、不思議そうな表情が浮かんだ。
一瞬だけ、緊張が緩んだ。
帝国軍人は、それを見逃さなかった。素早く、膨らんだ胸の間から、手紙を抜き取る。
筒状に巻かれた手紙は、簡単に、
片手で一振りして、モルは、手紙を広げた。
険しい目を、手紙に目を走らせる。
「……」
強張った顔が、強張ったまま、固まった。
「おい、モル。何をしているんだ? 手紙は取り返したんだから、早く撤収を……」
背後から覗き込んだハルトマンの目線が、部下の手に握られた手紙の追伸部分に注がれた。
「
プロケシュ少佐へ
もしあなたが、この手紙へのお返事を、すぐに送れない場合は、明日の朝10時に、僕の従者が、受け取りに上がります。
ライヒシュタットより
」
「おい、モル。これはどういうことだ?」
狼狽しきって、ハルトマンが尋ねる。
モルは無言だ。
「今夜、この家で、ゲンツ秘書長官の私塾が開かれるのです。プロケシュ少佐は、ゲンツの私塾に、とても熱心に通っておられますから」
代わりに、ファニーが答えた。
*
「あの踊り子、ゲンツ秘書長官の愛人だったんだな」
帰る道すがら、ハルトマンはぼやいた。
「プリンスも、それならそうと、言ってくれればいいのに」
モルが目を剥いた。
「何を言うんです? 自分はプロケシュ少佐に手紙を書くけど、それを届ける家の女性は、自分の情婦ではない、とでも?」
「いや、そこまでは……」
「プリンスは、プロケシュ少佐が通う家に、女性がいることさえ、ご存知ありませんよ、おそらくね」
「まあ、プロケシュも、そこまでは言わないだろうし。……お前、いやに嬉しそうだな、モル」
「これで、言い訳しなくても済みますからね。我々の管理不行き届きの」
「本当に、助かった」
もともとは自分の早とちりだったことを棚に上げ、ハルトマンは、安堵の吐息を吐いた。
「それにしても、ゲンツ秘書長官は、もう、65歳? あの子はどう見ても、20歳前後じゃないか。年齢だけ見れば、プリンスのほうが、はるかに彼女にふさわしい……」
「何を言うんです、将軍」
さっきまでの機嫌の良さをかなぐり捨てて、モルが非難した。
「皇帝から直々に与えられた、我々の任務を忘れたんですか! プリンスに女を近づけるな! 皇帝の命令は、絶対です!」
「そ、そうだ! その通りだ、モル」
気圧されるように、ハルトマンは同意した。
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