踊り子 ファニー・エルスラー


 「大変だ! 大変だ、モル大尉キャプテン・モル!」


 街中から帰ってきたハルトマン将軍が、留守居のモル男爵に駆け寄ってきた。ぜいぜいと、荒い息をしている。

 モルは、もちろん、本物である。


「どうしたんです、そんなに慌てて……」

「今、そこで……」


ハルトマンは息を切らせていた。モルの肩に両手を置くようにして、腰を曲げて俯き、呼吸を整えている。よほど慌てて帰ってきたようだ。


「今、マリーの店で、大変なことを聞いた。プリンスが……、」

「プリンスがどうしたのです?」

「プ、プリンス……」


 息を切らせ、ハルトマンは、声にならない。

 モルの顔に、焦りの色が浮かんだ。自分の肩に置かれたハルトマンの両手を振り払った。反対に、上官の肩を掴み、大柄なその体を、ぐらぐらと揺さぶった。


「しっかりして下さい、将軍!」

「痛たたた……」


ハルトマンは、身をのけぞらしてモルの手を逃れようとする。荒い呼吸がまだ、続いている。


「プリンスが……」

「だから、プリンスが、どうしたと?」

「手紙を送ったんだ」

「手紙? 誰に」

「女に」


「なんですって!」

モルの顔色が変わった。

「女!」


「踊り子だよ。ダンサーだ。ファニー・エルスラーという」

「それはまた……」


「ああ、どうしよう、モル」

ハルトマンは、嘆いた。

「皇帝からあれほど、プリンスの女性関係に気をつけるよう、言われていたのに」


「行きましょう、ハルトマン将軍」

弾かれたように、モルは立ち上がった。


「行くって……、どこに?」

「その、ファニー・なんたらのところですよ。不用意に書かれた手紙が、どのようなうろんな者の手に渡るか、わかったものじゃない。プリンスの手紙を取り返して来なくては!」

「ま、待ってくれ。俺も行く」


 敏捷な身のこなしで出ていくモルの後を、ハルトマンは慌てて追いかけた。







 郵便配達人がドアを叩いた。

 すらっとした女性が、ドアを開けた。大きな目、すっと通った鼻筋、聡明そうな額。遠くからでも、彼女が大変な美貌であることが見て取れた。地味なドレスの下は、引き締まった体つきをしていることがわかる。それに彼女は、とても若く見えた。どうかすると、まだ、10代にしか見えない。


 「ああいうのが、プリンスの好みなのか……」

少し離れた所に積んであった樽の陰に隠れて、ハルトマンが思わずつぶやいた。瞬間、いやというほど、足を踏まれた。

「痛っ! 痛いじゃないか、モル」

「どうしました?」

「踏んだんだよ、お前が。俺の足を」

「そうですか。すみません」

 少しも悪く思っていない様子で、モルは謝った。彼は、すっと立ち上がった。すたすたと、女性めがけて歩いていく。



 突然、傍らに歩み寄ってきた影に、ファニー・エルスラーは、顔を上げた。

 白い軍服姿の帝国軍人が二人、自分のすぐそばに立っているのに気がついた。彼女は、驚いたように、大きな目を、さらに大きく見開いた。


「失礼、お嬢さん。その手紙を、お渡し願えませんか?」

ずけずけと、モルが言った。

「手紙……いえ、ダメです」

ファニーは、手紙をひしと抱きしめた。

「この手紙は、とても大事なものですから」

「ライヒシュタット公からの手紙ですね? 隠しても無駄です。わかっていますから」


 ファニーは、一歩退いた。手紙を胸に押し付けたまま、いやいやをするように、首を横に振っている。

 ぐっと、モルが前へ踏み出した。


「嘘をついてもダメです。……おい、この手紙は、宮殿から出されたものだな」

 それまで口を開けて、成り行きを眺めていた配達人は、急に矛先を向けられ、ひどく焦った。反射的に、こくこくと頷く。


「ほら」

配達人から再び、ファニーに視線を戻し、冷たい声で、モルは言った。

「ライヒシュタット公のお立場は、おわかりですね? 彼に迷惑をかけたくなければ、その手紙をお渡しなさい」


「……できません」

 消え入るような声で、ファニー・エルスラーは答えた。

 モルは舌打ちした。

「静かに言っているうちに渡した方が、身の為ですよ」


「おい、モル。御婦人に手荒な真似をするわけにはいかない」

 ハルトマンがモルの軍服の裾を引いた。

 振り返って、モルは、上官に噛み付いた。

「あなたは黙って、ハルトマン将軍。私達には、義務があるのです。あらゆる悪評から、プリンスをお護りするという、神聖な義務が、ね!」


「悪評?」

ファニーが聞き咎めた。その眉間に皺が寄った。

「この手紙によって、あの方に悪評が立つなどと、私には思えません!」


「これだから女は……」

 再び、モルは舌打ちをした。

「あなたには、彼のことがわかっていない! そんな女に、彼の愛情を受け取る資格はありません」

「……え?」


 ファニーの顔に、不思議そうな表情が浮かんだ。

 一瞬だけ、緊張が緩んだ。

 帝国軍人は、それを見逃さなかった。素早く、膨らんだ胸の間から、手紙を抜き取る。


 筒状に巻かれた手紙は、簡単に、踊り子ファニーの胸の間から、モルの手へと移った。


 片手で一振りして、モルは、手紙を広げた。

 険しい目を、手紙に目を走らせる。

「……」

 強張った顔が、強張ったまま、固まった。


「おい、モル。何をしているんだ? 手紙は取り返したんだから、早く撤収を……」

 背後から覗き込んだハルトマンの目線が、部下の手に握られた手紙の追伸部分に注がれた。


プロケシュ少佐へ 

もしあなたが、この手紙へのお返事を、すぐに送れない場合は、明日の朝10時に、僕の従者が、受け取りに上がります。

           ライヒシュタットより



 「おい、モル。これはどういうことだ?」

狼狽しきって、ハルトマンが尋ねる。

 モルは無言だ。


 「今夜、この家で、ゲンツ秘書長官の私塾が開かれるのです。プロケシュ少佐は、ゲンツの私塾に、とても熱心に通っておられますから」

代わりに、ファニーが答えた。







 「あの踊り子、ゲンツ秘書長官の愛人だったんだな」

帰る道すがら、ハルトマンはぼやいた。

「プリンスも、それならそうと、言ってくれればいいのに」

 モルが目を剥いた。

「何を言うんです? 自分はプロケシュ少佐に手紙を書くけど、それを届ける家の女性は、自分の情婦ではない、とでも?」

「いや、そこまでは……」


「プリンスは、プロケシュ少佐が通う家に、女性がいることさえ、ご存知ありませんよ、おそらくね」

「まあ、プロケシュも、そこまでは言わないだろうし。……お前、いやに嬉しそうだな、モル」

「これで、言い訳しなくても済みますからね。我々の管理不行き届きの」

「本当に、助かった」


 もともとは自分の早とちりだったことを棚に上げ、ハルトマンは、安堵の吐息を吐いた。


「それにしても、ゲンツ秘書長官は、もう、65歳? あの子はどう見ても、20歳前後じゃないか。年齢だけ見れば、プリンスのほうが、はるかに彼女にふさわしい……」


「何を言うんです、将軍」

 さっきまでの機嫌の良さをかなぐり捨てて、モルが非難した。

「皇帝から直々に与えられた、我々の任務を忘れたんですか! プリンスに女を近づけるな! 皇帝の命令は、絶対です!」


「そ、そうだ! その通りだ、モル」

気圧されるように、ハルトマンは同意した。

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