夜遊びのすすめ
アシュラがそっと覗くと、フランソワは机に向かい、何か書いていた。
「何を書いていらっしゃるんですか?」
背後に立ち、尋ねた。書き物に夢中のフランソワは、振り返りもしない。
「あっ、そのペン! ディートリヒシュタイン先生が、ペン先の手入れがなってないって、怒ってましたよ!」
「うるさいなあ。あっち行けよ」
「手紙ですね。どなたへ?」
「プロケシュ少佐だよ!」
「またですか」
アシュラは呆れた。この頃、毎日のように、彼は、プロケシュに手紙を書いている。
脇へ回り、遠慮なく覗き込んた。
「なになに……。
昨日、劇場から帰ってきたら、……僕が観たのは、とても愛らしいオペラでした……、机の上に、親愛なる友の訪れを知らせるカードが置かれていました。彼との会話は、この世で最上のオペラを聞くより、僕にとっては、好ましかったというのに! 僕にたくさんの恩恵を与えてくれるその友人を、もしあなたが、見かけたのなら、彼に、僕の心からの献身を伝えてくれませんか? そして、今夜でも明日でも明後日でも、彼が望む時間を知らせてくれるよう、頼んでみて下さい。
」
「読むなよ!」
フランソワがむくれて、紙面を覆い隠す。
「殿下」
アシュラは顎の下を撫でた。
「なんだかこれ、恋人に書くような手紙ですね」
「恋人? 何言ってんだ、お前。プロケシュ少佐宛てだって言ったろ」
「わかってますよ。でも、妙に回りくどいし。少佐宛てなのに、『あなたがその友人を見かけたら』って、」
「普通に書いたって、つまらないだろう?」
「まるで、女の子がお澄まししているようだ」
フランソワに聞こえないよう、小さい声でつぶやく。
そのフランソワは、手紙を読み返していた。読み終わると満足そうに頷き、くるくると筒状に丸める。
「昨日、久しぶりで少佐が来てくれたのに、あいにく、留守をしてしまってて……。少佐には、ぜひまたすぐに、来てもらわなくちゃならないからな!」
「だからって、性急すぎます。今夜でも明日でも明後日でも、だなんて」
「そうか?」
「少佐もお忙しいのでしょう。そうそう、殿下と遊んではいられませんよ」
「遊んでるわけじゃないぞ! 彼は僕に、知識と勇気を授けてくれているんだ」
「はいはい。でも、忙しいのは確かですよ。なにしろ、結婚を控えておいでだから」
「結婚!?」
丸めた手紙を手に、フランソワの声が裏返った。
「誰が?」
「だからプロケシュ少佐」
「結婚! 誰と?」
「殿下と同じくらいの年齢のピアニストですよ。少佐よりすごく年下の。うらやましいなあ。少佐、快挙ですね!」
そこでやっと、アシュラはフランソワが黙り込んでしまったのに気が付いた。
不思議そうに尋ねる。
「あれ、殿下、ご存じない?」
「聞いてない」
不愛想にフランソワが答える。アシュラは首を傾げた。
「あなたが知らないんじゃ、二人を見掛けたやつの、勘違いかな」
「……」
フランソワは答えなかった。
「だって、親友ですものね! そういう大事な話は、少佐の方からしてくるはずです」
アシュラが断言した時だった。
どやどやと、
絵画の心得のある侍従が指示しを出し、梱包がほどかれた。
ナポレオンの肖像画が現れた。
元気がないと伝え聞き、パルマのマリー・ルイーゼが、息子の部屋へ架けるよう、指示したのだ。
「ナポレオンの絵ですね」
人々が立ち去ると、アシュラはつぶやいた。
「僕の父上だ。似てるか? 僕と」
絵を見つめたまま、フランソワが尋ねる。
アシュラは、盛大に首を横に振った。
「似てません。これはまた、一段と、小太りで……。この絵を描いた画家は、ギロチンにかけられたんじゃないですか? マリー・ルイーゼ様も、ナポレオンの肖像画をご自分の部屋に飾りたくなかったんでしょ。だから、ウィーンに置いてったんだ」
「ひどいことを言う」
先ほどとは打って変わって、フランソワの声は低く、聞き取りづらかった。
「父上と母上。二人が愛し合っていなかったなら、僕の存在は、いったい何なんだ……?」
葦の葉の笛を吹き鳴らすような、細く、心細い声だった。
自分の皮肉なものいいを、アシュラは後悔した。慌てて言った。
「でも、ほら。腕を組んだ殿下の肖像画、あったでしょ。あれは、ナポレオンと瓜二つでしたよ」
ポーズが。
それは、口の中でつぶやいた。
フランソワが振り返った。その顔は、ひどく青白く見えた。
「偉大なる帝王の、僕は、不肖の息子だ。ディートリヒシュタイン先生の期待は、僕には重すぎたんだ。せめて、父と同じ病で死にたい。僕は、肺ではなく、肝臓の病で死にたい」
アシュラはぎょっとした。
……自分は、ナポレオンと同じ病で死ぬのだ。
今まで、予言のように、フランソワが口にすることはあった。
周囲があまりにもナポレオンを否定するからだろうと、アシュラは理解していた。語調も強く、反抗的だった。
でも、今回は……。
弱々しい、囁きのような……。
……死にたい、って。
「ダメです」
きっぱりとアシュラは言った。
色の失せた顔が、無感動に見つめ返す。
「なぜ?」
「だって……」
……死にたい、なんて、言ってほしくない。だって、……
……あなたがいないと、自分が寂しいから。
……寂しくて寂しくて、生きていけないから。
「ええと。たぶん、神がお許しになりません」
ふん、と、フランソワは鼻を鳴らした。
*
プリンスの憂鬱そうな様子を見て、
劇場やダンスホールでの夜遊びを、主治医自らが、推奨した。
*
「殿下はどうされている?」
忍び足で、プリンスの部屋から出てきたモルに、軍の付き人のリーダー、ハルトマン将軍は話しかけた。
無言でモルは、唇の前に人さし指を立てた。ハルトマンを誘い、部屋から離れていく。
「眠っておられます」
控室に落ち着くと、モルは言った。
「またか!」
ハルトマンは目を剥いた。
「この頃、毎日じゃないか。昼食が済むとすぐ、ソファーに横になって、寝てしまう」
「人を通すなとの仰せでした」
「わかっている。しかし、殿下にも困ったものだ。せっかくウィーン市街に帰ってきたのに、いったい、いつになったら、兵舎にお戻りになるおつもりか……」
ハルトマンとモルは、顔を見合わせ、ため息を付いた。
二人は、根っからの軍人だった。軍事教育以外受けていないし、軍以外の世界も知らない。
戦場に出ない軍人に、出世の道はない。
だから、彼らは、軍の生活に戻りたかった。何かあったらすぐ、戦場に出て、戦いたい。
軍に所属し、兵士であることだけが、彼らの生きる道だった。
「殿下は、具合が悪いのだろうか」
おずおずと、ハルトマンが尋ねた。
同じ質問を、プリンス本人に発して、思い切り、いやな顔で睨まれたことがある。
どうやらハルトマンは、初めから、プリンスに嫌われてしまったようだった。
……どうしたら、私は、プリンスに好かれるでしょう。
思い余って、こんな質問をディートリヒシュタインにぶつけたことがある。
返ってきたのは、
モルが首を傾げた。
「少なくとも、6月に軍務に就かれた時の健康状態には戻っているはずです。さもなければ、医師が、軍務復帰の許可を出すわけがありません」
「そうだな」
困り果て、ハルトマンは答えた。
「すると、やっぱりあれか……?」
「……」
二人の軍人は顔を見合わせ、黙り込んでしまった。
医師の勧めに従って、プリンスは、夜、出歩くようになった。必ず、グスタフ・ナイペルクを連れて行く。
若者たちの社交場で、再び、プリンスの姿が見られるようになった。
しかし、彼が踊ることはなかった。今までとは違い、人との会話を好むようになっていた。
*
再び訪れたプリンスを、
一緒に訪れたグスタフ・ナイペルクの方は、ちらりとも見なかった。
テレーズ・ペシェは、聡明な女性だった。年齢も、プリンスより5歳、年上だ。
「それじゃ、僕はここで」
グスタフは、早々に立ち去ろうとした。
「プリンス、あとでお向かいに上がります」
部屋を出る前、グスタフは、ちらりと、女優の様子を窺った。
相変わらず、目の醒めるような美女だった。まるで、天女のように見える。
その女優は、優しい表情をして、じっとプリンスを見つめている。
年上の女性の、包容力のある、温かな眼差しだ。
ちょっとでいいから、自分の方も向いて欲しいと、思わず、グスタフは願った。そうなったら、今回もまた、ミッションは失敗に終わることは目に見えているのだが。
だが、今回は、大丈夫だ。
ペシェは、賢い女だ。以前の失敗から、プリンスのことは、充分に理解している。
「帰る!」
突如として、プリンスが声を上げた。
そして、前回と同様、くるりと後ろを向いた。
グスタフを追い越して、楽屋を出ていった……。
「プリンス。ペシェはお気に召しませんでしたか?」
翌日。
グスタフの涙ながらの召喚に応じたプロケシュが、プリンスに尋ねた。
「ペシェは、このウィーンでも、群を抜いた名女優です。彼女のウィットと感性は、あなたにもきっと、いい影響を与えてくれると思ったんですが……」
彼女により、プリンスの気持ちが、過去と未来の重圧から解放され、新しい力が授けられることを、プロケシュは願った。そうすれば、新しく生きる力が、きっと、プリンスにも芽生えてくるだろうと信じたのだ。
「彼女は、僕を見ました。僕のことなら何でもわかってる、という目で。そういうの、僕は、我慢がならないんです」
プリンスが答えた。
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