ディートリヒシュタイン先生のお墨付き


「おかえりなさい、少佐。お久しぶり」

あいかわらず能天気に笑い、グスタフ・ナイペルクはプロケシュの隣に、どさりと腰を下ろした。


 ディートリヒシュタインが、苦い顔をする。

「こら、グスタフ。ベルを鳴らせと、あれほど言ったろう? 私は今、プロケシュ少佐と大事な話をしているのだ」

「ベルなら、鳴らしましたよ。壊れてるんじゃないですか?」

けろりとして、グスタフは答えた。

「大事な話って? なんです?」

「それはお前には言えない」


亡くなった親友アダム・ナイペルクの息子を、ディートリヒシュタインは、軽くいなした。父親と違って、この息子は、軽薄過ぎる。


「それで、プリンスは、アルザー通り兵舎へ戻ったか?」

「いいえ。まだ、ホーフブルク宮殿にいますよ。ここへ来る前に寄ったら、あの、モル? 軍の付き人の。あいつに追い返されました」


 忍び笑いが聞こえた。

 プロケシュ少佐だ。


「モルは、君が嫌いなんだな、グスタフ」

「彼なら、貴方のことも嫌いですよ、プロケシュ少佐」

「え? なぜ?」



 プロケシュには、まるで心当たりがない。

 むしろ、モルのことは、好感を持っていた。プロケシュが初めてモルに会った時、モルは、プリンスに気に入られようと一生懸命だった。のべつまくなしにしゃべり立て、プリンスの気を引こうと躍起になっていた。その必死さが、プロケシュの目には、好ましく映ったのだ。



 グスタフは首を傾げた。

「さあ。でも、どちらかというと、僕のほうが、より嫌われているような……殆ど、憎まれている気がします」

「自慢になるか!」


 ディートリヒシュタインが一喝した。

 プロケシュの方を向き直る。


「君の前では、プリンスはどんな感じかね、プロケシュ少佐」

「どんな感じかとおっしゃいますと?」


プロケシュには、かつての家庭教師の真意がわからなかった。

「プリンスは、私の前では、私と会えて嬉しい。話ができて楽しい。そんな風に振る舞っておられます」

少しためらった。



 かつてディートリヒシュタインは、家庭教師として、プリンスの身の回りを探っていた。

 バカ正直な伯爵は、忠実な国家のしもべだった。


 プリンスに、不審な人物が近づかないように。

 彼自身が、おかしな思想に染まらないように。


 だが、今はもう、家庭教師から引退している。

 何より、ディートリヒシュタイン伯爵が、プリンスのことを心配しているのは、疑いがない。



 プロケシュは言った。

「ですが、伯爵。さきほども言いかけましたが、以前と比べプリンスは、より静かで、希望を失ったように、私には見受けられます」


 それは、プリンスの、フランスへの情熱が冷めたのと、奇妙な相似形をなしているように、プロケシュには思われた。


 この春先までは、プリンスは、あんなに、フランスに憧れていた。生き生きと、自分のあるべき道を話していた。

 だが、半年ぶりで会った彼は、すっかり、意気消沈して見えた。気力を、使い果たしてしまったかのようだ。

 どんなに陽気を装っても、すぐわかる。プロケシュは、彼の親友なのだ。


 ディートリヒシュタインがぶつぶつとつぶやく。

「プリンスの具合が悪いような気がして、心配だ。だが、何度聞いても、彼は、『体調なら万全です』としか、言わない。まあ、私は、心配性だと、よく人から言われるが……」


「医者も、すっかり良くなったと言ってますしね」

 気楽な声が遮った。

 グスタフだ。

「今、マルファッティ先生侍医は、肌の病を心配してますよ。手の皮膚が、すっかり白くなっちゃって」

「寒くなってきたからな。子どもの頃からの持病なんですよ」

ディートリヒシュタインが補足する。


「大丈夫なんですか?」

「なに、しもやけの一種ですよ」

グスタフは笑った。

「少なくともマルファティ先生侍医はそう言っています。熱も出ないし、心配することは何もないと」

「……はあ」


 確かに、プロケシュといて、プリンスが、具合が悪そうな素振りをすることは、一切なかった。時折咳をするが、それは、通常の範囲内だった。

 ディートリヒシュタインが頭を振った。


「医者がそう言うなら、もはや私に出番はない。また、軍の付き人にプリンスをお渡しした今、私が口を出すことも、ためらわれる。プリンスが本当に病気なら、彼らだって気がつくだろう。私は、毎日、プリンスのお顔を見ているわけではないからな」


 それは、プロケシュも同じだった。

 今、プリンスの、最も身近にいるのは、3人の軍人たちだ。

 憂え顔で、ディートリヒシュタインが続ける。


「どちらかというと今は、プリンスの気持ちの落ち込みようが心配でならない。不機嫌に人を遠ざけてばかりで。それが、フランス……」


 言いかけて、慌てて言葉を引っ込めた。

 ここには、グスタフがいる。


 だが、プロケシュには、かつての家庭教師の言いたいことがよくわかった。

 ……気力の落ち込みが、プリンスに、フランス行きを諦めさせたのだ。

 ディートリヒシュタインは、そう言いたいのだ。


 引っ込めた言葉の代わりに、家庭教師は言った。

「私にはね、プロケシュ少佐。プリンスの気力が減退しているように思えるのだ。いつも憂鬱そうで、人をとおざけてばかりいて」


「彼に、活力を戻してもらわなければなりませんね」

プロケシュは言った。

「はてさて。どうしたものか……」


「君が彼の前に姿を現した時、プリンスは、本当に、生命力を取り戻したように見えたんだ、プロケシュ少佐。それなのに、君の姿が見えなくなると、相変わらず、自分の殻に、閉じこもってしまう……」


「知ってます? ディートリヒシュタイン伯爵」

グスタフが口を挟んだ。

「今のプリンスの愛読書は、天文学の本なんですって。大きな宇宙に比べると、人間の営みとは、なんと矮小でつまらぬものだろうと思えるそうですよ。宇宙の神秘は、彼を、哲学へと導いてくれるそうです」


「!」

思わず、プロケシュとディートリヒシュタインは顔を見合わせた。

「哲学? それはまた……」

「ありえん! あのプリンスが!」


「えと、ですね」

グスタフが膝を乗り出した。

「プリンスの無気力は、僕だって心配です。そこで、僕とモーリツ・エステルハージで考えたんです」


ディートリヒシュタインが眉を顰めた。


「モーリツ・エステルハージ? エステルハージ家のドラ息子だな。 ナポリへ追い払われたはずだが……。グスタフ、お前、まだ、あやつと付き合っているのか?」

「……いえ、その……」


 グスタフはもじもじした。

 だがすぐに、きっと、ディートリヒシュタインを睨み返した。

「僕もモーリツも、プリンスのことが心配なんです。ぐったりしてて、少しも楽しそうじゃなくて。なんとか元気を出して貰おうと思うのは、友人として、当然のことじゃないですか!」


「それで、お前たちは、どうすることにしたのかね? お前とモーリツ・エステルハージは?」

「彼に、女性を紹介しようということになりました」

「……」


 あまりのことに、プロケシュは、あっけにとられてしまった。


 プリンスに、女性? 気鬱の治療に?

 何を言っているのだ、グスタフは。


「古来から、女性は、あらゆる芸術の源です。男性は、彼の女神がいるからこそ、頑張れるのだ。辛い仕事も厳しい軍務も、複雑な人間関係もね! 女性に愛想をつかされたくないからこそ、僕は、」


「君のことはどうでもいいよ、グスタフ」

思わず、プロケシュは口を挟んだ。


「そうでした。プリンスのことでした。大事な大事な、僕の兄弟……」

「血は一滴も、繋がっていないけどね」


「……ええと。僕が言いたいのは、ですね。女のコと付き合えば、そのコが、プリンスに、人の世の楽しみというものを教えてくれるんじゃないか、と……」


「その通りだ!」

 叫んだのは、ディートリヒシュタインだった。

「全くもって、お前たちは正しい。恋と芸術こそが、青年の活力剤だ! そうだ! プリンスは、恋をすべきだ!」


 プロケシュは、驚いた。

 謹厳な家庭教師のこと、プリンスに女性を紹介しようなどという案に賛成するとは思えなかったのだ。

 大声で、ディートリヒシュタインは、グスタフに尋ねた。


「それで、ナンディーヌ・カロリィ嬢は、どうなったんだ?」

「げ。ディートリヒシュタイン伯爵、ご存知だったんですか?」


 グスタフが、のけぞった。

 ふん、と、ディートリヒシュタインが鼻を鳴らす。


「この春、プリンスがアルザー通りの兵舎に引っ越した時、ホーフブルク宮殿のプリンスの机の引き出しから、書きかけの恋文が出てきたのだ。ナンディーヌ・カロリィー嬢宛てだった」

「恋文……」


 再びプロケシュは驚いた。

 ……あのプリンスが、恋文?


 傍らで、グスタフが、しきりと首をひねっている。

「書きかけのまま、忘れますか、普通。いったい、いつから忘れてたんだ、プリンスは」


 ディートリヒシュタイン伯爵は、くるりと後ろを向いた。鍵をかけた机の引き出しから何かを取り出し、戻ってきた。

「残念ながら、プリンスの恋文は、私も読んでいないが……これは、この春、プリンスが書いた、母上への手紙の写しだ」

言いながら、プロケシュに向けて突き出した。


 ……僕は毎日、心をこめて、お母様に手紙を書きます。だから、お願い、お母様。お母様からも、ご助言を下さい。僕は貴女を信じ、あなたに対して正直であると誓います。きっと、貴女は、僕のお願いを聞き届けて下さいますね? だって、息子にとっての守護天使であることほど、母親にとって、大きな喜びはないっていいますから……。


 「守護天使……」

プロケシュとグスタフは、思わず顔を見合わせた。

「母親が?」


 二人の傍らで、いつものように、ディートリヒシュタインが愚痴をこぼしている。


「私は、プリンスの私信を見ることは止めたんだ。なにせ、彼はもう、独立したのだからな。だが、この手紙を検閲したセドルニツキ秘密警察の長官が心配して、私の所へ、わざわざ写しを送ってきたんだ。プリンスは、なにかお辛いことでもあったんですか、ってね」


「正式な軍務に就く前の手紙ですね。知らない人の中に入っていくことに、プリンスは不安を感じたのでしょう」

 せいいっぱい、プロケシュは擁護した。

 彼は、親友の私信を見てしまったことに、動揺していた。


 ぐるりと、グスタフが、眼球を回してみせた。

「20歳にもなって、全部、お母さんに相談するって……まずくないすか、それ?」

そこでグスタフは、ぎょっとした。

「つまり、女性関係も、お母さんに?」


「女性関係がないということだ!」

ディートリヒシュタインが結論づけた。

「この頃から、プリンスは、とんと、ナンディーヌ・カロリィ嬢のところから、足が遠ざかってな。陰ながら、私も、心配していたところだ」


「モーリツ・エステルハージが、ナポリへ旅立った頃ですね。モーリツがいなくなってから、彼は、ナンディーヌの所へ行くのを、止めたんです」

日付を確認して、グスタフが口を出す。

「モーリツと一緒の時も、決して、彼女と二人きりにはならなかったというし。この手紙に漂う心細さからみるに、プリンスは、ナンディーヌ嬢にふられたな?」


「なに!? うちのプリンスがふられたと!? 許さん! たかが、カロリィ家ふぜいの娘が!?」

「カロリィ家は、ハンガリーの、立派な貴族ですよ?」

「プリンスだぞ! うちのプリンスだ! たとえ王侯の娘であっても、プリンスをふるなどという蛮行は……」


「ナンディーヌ嬢のことなんて、どうでもいいじゃありませんか」

プロケシュが割って入った。

「彼女は、底の浅い女性です。プリンスに釣り合うとは、到底、思えません」


「いや、プロケシュ少佐。たとえ彼女がモーリツの知り合いだとしても、あなたにそこまで言われる筋合いは……」


「プロケシュ少佐! よく言った!」

大声でディートリヒシュタインが、グスタフを遮った。

「そんな娘っ子は、こっちから願い下げだ!」


「そうです! そのとおりです!」

「ちょっと、プロケシュ少佐。プリンスを独り占めしたい気持ちはわかりますが、あなたに、彼女の何が、わかるっていうんですか!」


憤慨するグスタフに、プロケシュは問うた。


「それで、君が推していた、ペシェはどうなった? 女優のテレーズ・ペシェは?」

「あ……」

グスタフの目に、喜色が浮かんだ。

「少佐。あんた、やっぱり、いい人だ……」


「テレーズ・ペシェ? 人気女優じゃないか。グスタフ。君は、彼女とプリンスの橋渡しをしたのかね?」

 女優とのことは、ディートリヒシュタインには、初耳のようだった。


「プリンスの名で、花を贈り続けました。やっと彼を、楽屋まで連れて行ったんですけど……」



 ……この方が、そうね?

 彼女がちらりとグスタフを見たことに気づき、プリンスは、ぷいと、楽屋を出ていってしまった……。(※8章「麗しの女優」より)



 「なら、まだ脈がある。人気女優が、お前なんかを選ぶわけがないものな。冷静に考えれば、プリンスにも、すぐにおわかりになるはずだ」

「なんか今、ものすごく、けなされた気がします、ディートリヒシュタイン先生」


「すぐにペシェに花を贈るんだ。そして、もう一度、彼女のところへ、プリンスを連れて行け!」

「えっ! だって、もう相当の額を、僕は花屋に……」

「金なら貸してやる。いいから、花を贈れ、花を」

「は、はい!」

「何をぼーっとしとる。今すぐにだ!」

「はいっ!」


弾かれたように、グスタフは、部屋の外へ飛び出していった。






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