10 アルゴスたちの目
気がかり
※
この章のタイトル、「アルゴス」とは、ギリシア神話に登場する100の目をもつ巨人のことです。転じて、牢獄の獄卒(番人)など、監視人を指します。
ライヒシュタット公の今までの「アルゴス」は、ディートリヒシュタイン、フォレスチ、オベナウスの、3人の家庭教師でした。彼らは、プリンスを教育・護衛する傍ら、彼に怪しい人が接触することはないか、彼が、誤った思想に染まることはないか、監視していました。
その役は、プリンスの独立後は、3人の軍人……ハルトマン将軍、モル大尉、スタン(ヨハン・スタンダイスカイ)大尉に引き継がれることになりました。
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11月16日。
コレラ禍が治まったのに鑑み、宮廷は、シェーンブルンからウィーンへ戻った。
……「シェーンブルンでの2ヶ月の休養は、彼の損なわれた健康への鎮痛剤のようなものだった」……
マルファッティ医師は、総括した。
*
スイスのモンベル公爵から、オーストリア政府に、報告書が届いた。
ナポレオンの遺言執行人、モントロンが接触してきたという。
モントロンは、ナポレオン2世のフランス帰還を、要求していた。
見返りとして、5年間の独裁を認める、国内のあらゆる陰謀は、オーストリアに密告する、など、破格の条件だった。
フランス共和派のリーダー、モーガンもまた、じきじきに
オーストリア宰相、メッテルニヒは、モントロンの提案を、握りつぶした。
その上で、共和派のリーダー、モーガンが接触してきたと、
*
プロケシュがウィーンへ来た目的は、ひとつしかない。
プリンスを、スイスへ連れて行くのだ。
そこには、
「プリンス。お話があります」
二人きりになれた最初の時に、おもむろに、プロケシュは切り出した。
父の期待。父の遺言。
そして、フランス人民への、愛。
それらについて、彼は熱く語った。
しかしすぐに、黙り込み勝ちになった。
「帰れません」
やがてぽつんと、彼は言った。
「僕は、オーストリアの将校です。配下に、軍を率いています。今、帰れば、僕はどうしても、フランスへ、オーストリア軍を連れて行ってしまう」
プロケシュは、絶句した。
やはりプリンスは、真っ先に軍務を考えるのか、と、改めて思った。
しかし、すぐに彼は理解した。
プリンスは、オーストリア将校であることを選んだのだ。
フランスのプリンスではなく!
それは、喜ぶべきことだった。同じ軍人、同じオーストリアの人間として。
だが……。
プロケシュは、隠しを探った。
きっちりと封印を押された封筒を取り出し、プリンスに手渡した。
「これを、エリザ・ナポレオーネから預かりました」
「エリザ……、従姉から?」
暗い夜、オベナウスの部屋の下で会った、ナポレオンの姪。
彼は、彼女の他、
「あなたに渡してくれと」
手紙は、固く封をしてあった。
プロケシュは、内容を知らされていない。だから、最初、プリンスに渡すつもりはなかった。
しかし今は、違う。
フランスからの……父方の肉親からの、あらゆるコンタクトは、遮るべきではないと、彼は考えた。
フランス王の話は、ウィーン滞在中に、いずれまた持ち出してみようと、プロケシュは思った。
だって彼は、あんなに、フランスへ帰りたがっていたではないか!
*
プロケシュが退出すると、フランソワは、手紙を開いた。
従姉には、子どもの頃、「
……だから、プリンスは、あんな暗い中でお会いになったにも関わらず、彼女に、親愛の気持ちを抱かれたのです。
後からプロケシュが教えてくれた……。
手紙には、女性にしては筆圧の強い字が、元気いっぱいに踊っていた。
「
フランスへ来て下さい!
プリンス、フランスへ。
そうなさらないと、始まるものも、始まりません!
全ての準備は、スイスの、オルタンス叔母様の城に、整えられています。
必ず、黒塗りの馬車でいらして下さい。ボンベル大使の密命が出ています。旅券なしで国境を越えることができるのは、黒塗りの馬車だけです。
この通達は、来年の、あなたのお誕生日まで有効です。ですから、どうか、それまでに。
そうそう、手ぶらでいらしてくれて構いません。だって、私は、あなたのお顔を知っていますから! あなたがナポレオンの正統な息子であることを、この私が、万民の前で、証言します。
次の革命は、すぐそこまで来ています。ルイ・フィリップ政権が倒れる日も近い。そしたら、フランスの王座につくのは、ローマ王、あなたです。
あなたしかいません!
成長したあなたの、その素敵な姿を、ぜひ、フランス国民の前に現して下さい。
王座は、確実に、あなたのものです。
早く会いたいです。
どうか、一日も早く、スイスへいらして下さい。叔母の城から、おもむろに、アルプスを越えることに致しましょう。
繰り返します。
フランス王には、あなたしかいません!
追伸
あのオーストリアの将校は、とてもハンサムだけど(もちろん、ローマ王のほうが、ずっとずっとハンサムです)、彼を全面的に信頼することはできません。それで、この手紙を託しました。
彼が本当に信頼に値する人物か否かは、この手紙が未開封のまま、お手元に届くかどうかにかかっています。
……。
」
読み終わり、フランソワは従姉からの信書を、火中に投じた。
*
市内のディートリヒシュタイン家で、
「実は、兄は、プリンスのフランス行きには、反対している。それで、私からは、プリンスにこの話をしなかった。君が、ボローニャから帰ってくるまで、待っていたのだ」
ディートリヒシュタインは言って、プロケシュを見つめた。
「殿下には、話したのか」
「はい」
「で、殿下は、なんと?」
「フランスへは、行かれないそうです」
先日の会見の様子を、プロケシュは語った。
「うん……。そうか……」
スイスで会った時、兄の侯爵はすでに、彼の反応を予期していたようだった。プリンスは、フランスへは行かないと、わかっていたのだ。
だが、
「時を、待ちましょう」
プロケシュは言った。
「ルイ・フィリップの王政は、いずれ齟齬をきたします。7月王政で利を得たのは、ブルジョワ階級だけ。プロレタリアートは依然、貧困のうちにいます。彼らの不満が爆発する日も、そう遠くはないでしょう」
「怒りの矛先は、ルイ・フィリップに向けるべきだ」
「時期を見誤れば、民衆の怒りは、プリンスに向けられかねません」
「そんなことは、許さぬ」
ぎりぎりと、ディートリヒシュタインは、奥歯を噛み締めた。
「おのれ、フランス人め、どこまで、うちのプリンスを愚弄する気か!」
「そのようなことにならない為にも、オーストリアの援助は必須と考えます。幸いなことに、プリンスによれば、我らが皇帝は、
……「あの時(7月革命)、もし、フランスの人々が、真からお前を欲していたら。そしてもし、同盟国の同意が得られていたら。儂は、すぐさま、お前をフランスの王位に就けただろうに」(※ 8章「母の危機」より)
「しかし、同盟国の援助など、得られるのだろうか」
不安げなディートリヒシュタインを、プロケシュが制した。
「ルイ・フィリップ王朝が倒れれば、ナポレオン2世か、ブルボン家のアンリ5世のどちらかが、正統なフランス王ということになります」
「なら、プリンスの一人勝ちだ! 選挙でも、人気投票でもするがいい。うちの殿下が、ブルボンの小僧っ子などに負けるものか」
ディートリヒシュタインが息巻いた。
微笑んで、プロケシュも頷いた。
すぐに、その笑みが消えた。
「ただ、ディートリヒシュタイン先生。僕は、気がかりなのです」
「気がかり?」
「プリンスの、その……フランス王即位への熱意が、去年に比べて、著しく減退しているようで……」
少しの間、プロケシュは口を閉ざした。言葉を選びつつ、続ける。
「オーストリアを選ぶか、フランスを選ぶか。そのような重い課題を、押し付けるには、今のプリンスは、あまりにも希望を失っているような気がします。このようなことを言うのは不敬に当たるのですが……、覇気がないというか……」
「プロケシュ少佐。そのことなんだがな……」
ディートリヒシュタインが、膝を乗り出した時だった。
「お邪魔しますよ、ディートリヒシュタイン伯爵」
朗らかな声が降ってきた。
案内も乞わずに、グスタフ・ナイペルクが入ってきた。
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※
モントロン、モンベル大使、ディートリヒシュタイン侯爵らの密談の内容は、9章「アレネンバーク城の密談 1~3」にございます。
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