10 アルゴスたちの目

気がかり



この章のタイトル、「アルゴス」とは、ギリシア神話に登場する100の目をもつ巨人のことです。転じて、牢獄の獄卒(番人)など、監視人を指します。


ライヒシュタット公の今までの「アルゴス」は、ディートリヒシュタイン、フォレスチ、オベナウスの、3人の家庭教師でした。彼らは、プリンスを教育・護衛する傍ら、彼に怪しい人が接触することはないか、彼が、誤った思想に染まることはないか、監視していました。


その役は、プリンスの独立後は、3人の軍人……ハルトマン将軍、モル大尉、スタン(ヨハン・スタンダイスカイ)大尉に引き継がれることになりました。



・。・。・。・。・。・。・。・






 11月16日。

 コレラ禍が治まったのに鑑み、宮廷は、シェーンブルンからウィーンへ戻った。

 ……「シェーンブルンでの2ヶ月の休養は、彼の損なわれた健康への鎮痛剤のようなものだった」……

 マルファッティ医師は、総括した。







 スイスのモンベル公爵から、オーストリア政府に、報告書が届いた。


 ナポレオンの遺言執行人、モントロンが接触してきたという。

 モントロンは、ナポレオン2世のフランス帰還を、要求していた。

 見返りとして、5年間の独裁を認める、国内のあらゆる陰謀は、オーストリアに密告する、など、破格の条件だった。


 フランス共和派のリーダー、モーガンもまた、じきじきにモンベル公爵スイス大使に接触し、ナポレオン2世帰還の要望を伝えた。


 モンベルスイス大使と同じ報告が、ディートリヒシュタイン侯爵からも、齎された。スイスを旅行中に、モントロンナポレオンの遺言執行人から、言付けられたという。(※)



 オーストリア宰相、メッテルニヒは、モントロンの提案を、握りつぶした。

 その上で、共和派のリーダー、モーガンが接触してきたと、カシミール・ペリエフランスの内務大臣に通報した。








 プロケシュがウィーンへ来た目的は、ひとつしかない。

 プリンスを、スイスへ連れて行くのだ。

 そこには、彼の叔母オルタンスと、従姉エリザ・ナポレオーネが待っている。



 「プリンス。お話があります」

二人きりになれた最初の時に、おもむろに、プロケシュは切り出した。


 叔母(義姉でもある)オルタンス従姉エリザ・ナポレオーネが、準備万端整えて待っている、と聞かされたプリンスは、最初、目をきらめかせた。


 父の期待。父の遺言。

 そして、フランス人民への、愛。

 それらについて、彼は熱く語った。


 しかしすぐに、黙り込み勝ちになった。


 「帰れません」

やがてぽつんと、彼は言った。

「僕は、オーストリアの将校です。配下に、軍を率いています。今、帰れば、僕はどうしても、フランスへ、オーストリア軍を連れて行ってしまう」


 プロケシュは、絶句した。

 やはりプリンスは、真っ先に軍務を考えるのか、と、改めて思った。

 しかし、すぐに彼は理解した。

 プリンスは、オーストリア将校であることを選んだのだ。

 フランスのプリンスではなく!


 それは、喜ぶべきことだった。同じ軍人、同じオーストリアの人間として。

 だが……。


 プロケシュは、隠しを探った。

 きっちりと封印を押された封筒を取り出し、プリンスに手渡した。


「これを、エリザ・ナポレオーネから預かりました」

「エリザ……、従姉から?」


 暗い夜、オベナウスの部屋の下で会った、ナポレオンの姪。

 彼は、彼女の他、ナポレオン父方の親族に会ったことがない。


「あなたに渡してくれと」


 手紙は、固く封をしてあった。

 プロケシュは、内容を知らされていない。だから、最初、プリンスに渡すつもりはなかった。

 しかし今は、違う。

 フランスからの……父方の肉親からの、あらゆるコンタクトは、遮るべきではないと、彼は考えた。


 フランス王の話は、ウィーン滞在中に、いずれまた持ち出してみようと、プロケシュは思った。

 だって彼は、あんなに、フランスへ帰りたがっていたではないか!







 プロケシュが退出すると、フランソワは、手紙を開いた。

 従姉には、子どもの頃、「糸紡ぎの十字架スピナー十字架」というモニュメントの前で、会ったことがあるという。母のマリー・ルイーゼも一緒だった。


 ……だから、プリンスは、あんな暗い中でお会いになったにも関わらず、彼女に、親愛の気持ちを抱かれたのです。

 後からプロケシュが教えてくれた……。


 手紙には、女性にしては筆圧の強い字が、元気いっぱいに踊っていた。



フランスへ来て下さい!

プリンス、フランスへ。

そうなさらないと、始まるものも、始まりません!


全ての準備は、スイスの、オルタンス叔母様の城に、整えられています。

必ず、黒塗りの馬車でいらして下さい。ボンベル大使の密命が出ています。旅券なしで国境を越えることができるのは、黒塗りの馬車だけです。

この通達は、来年の、あなたのお誕生日まで有効です。ですから、どうか、それまでに。


そうそう、手ぶらでいらしてくれて構いません。だって、私は、あなたのお顔を知っていますから! あなたがナポレオンの正統な息子であることを、この私が、万民の前で、証言します。



次の革命は、すぐそこまで来ています。ルイ・フィリップ政権が倒れる日も近い。そしたら、フランスの王座につくのは、ローマ王、あなたです。

あなたしかいません!

成長したあなたの、その素敵な姿を、ぜひ、フランス国民の前に現して下さい。

王座は、確実に、あなたのものです。



早く会いたいです。叔母オルタンスも、会いたがっています。

どうか、一日も早く、スイスへいらして下さい。叔母の城から、おもむろに、アルプスを越えることに致しましょう。


繰り返します。

フランス王には、あなたしかいません!



追伸

あのオーストリアの将校は、とてもハンサムだけど(もちろん、ローマ王のほうが、ずっとずっとハンサムです)、彼を全面的に信頼することはできません。それで、この手紙を託しました。

彼が本当に信頼に値する人物か否かは、この手紙が未開封のまま、お手元に届くかどうかにかかっています。


……。



 読み終わり、フランソワは従姉からの信書を、火中に投じた。









 市内のディートリヒシュタイン家で、ライヒシュタット公の元家庭教師ディートリヒシュタイン伯爵とプロケシュが、密会していた。


 「実は、兄は、プリンスのフランス行きには、反対している。それで、私からは、プリンスにこの話をしなかった。君が、ボローニャから帰ってくるまで、待っていたのだ」


ディートリヒシュタインは言って、プロケシュを見つめた。


「殿下には、話したのか」

「はい」

「で、殿下は、なんと?」

「フランスへは、行かれないそうです」


 先日の会見の様子を、プロケシュは語った。


「うん……。そうか……」


 スイスで会った時、兄の侯爵はすでに、彼の反応を予期していたようだった。プリンスは、フランスへは行かないと、わかっていたのだ。

 だが、ディートリヒシュタイン、違った。彼は、失望の色を、隠さなかった。教え子のフランス王即位は、元家庭教師の悲願だつた。


「時を、待ちましょう」

プロケシュは言った。

「ルイ・フィリップの王政は、いずれ齟齬をきたします。7月王政で利を得たのは、ブルジョワ階級だけ。プロレタリアートは依然、貧困のうちにいます。彼らの不満が爆発する日も、そう遠くはないでしょう」


「怒りの矛先は、ルイ・フィリップに向けるべきだ」

「時期を見誤れば、民衆の怒りは、プリンスに向けられかねません」


「そんなことは、許さぬ」

ぎりぎりと、ディートリヒシュタインは、奥歯を噛み締めた。

「おのれ、フランス人め、どこまで、うちのプリンスを愚弄する気か!」


「そのようなことにならない為にも、オーストリアの援助は必須と考えます。幸いなことに、プリンスによれば、我らが皇帝は、がフランスへ返り咲くのに、反対ではないとのこと」



 ……「あの時(7月革命)、もし、フランスの人々が、真からお前を欲していたら。そしてもし、同盟国の同意が得られていたら。儂は、すぐさま、お前をフランスの王位に就けただろうに」(※ 8章「母の危機」より)



 「しかし、同盟国の援助など、得られるのだろうか」

不安げなディートリヒシュタインを、プロケシュが制した。

「ルイ・フィリップ王朝が倒れれば、ナポレオン2世か、ブルボン家のアンリ5世のどちらかが、正統なフランス王ということになります」


「なら、プリンスの一人勝ちだ! 選挙でも、人気投票でもするがいい。うちの殿下が、ブルボンの小僧っ子などに負けるものか」

ディートリヒシュタインが息巻いた。


 微笑んで、プロケシュも頷いた。

 すぐに、その笑みが消えた。


「ただ、ディートリヒシュタイン先生。僕は、気がかりなのです」

「気がかり?」

「プリンスの、その……フランス王即位への熱意が、去年に比べて、著しく減退しているようで……」


 少しの間、プロケシュは口を閉ざした。言葉を選びつつ、続ける。


「オーストリアを選ぶか、フランスを選ぶか。そのような重い課題を、押し付けるには、今のプリンスは、あまりにも希望を失っているような気がします。このようなことを言うのは不敬に当たるのですが……、覇気がないというか……」


「プロケシュ少佐。そのことなんだがな……」

 ディートリヒシュタインが、膝を乗り出した時だった。


「お邪魔しますよ、ディートリヒシュタイン伯爵」

 朗らかな声が降ってきた。

 案内も乞わずに、グスタフ・ナイペルクが入ってきた。








・。・。・。・。・。・。・。・


モントロン、モンベル大使、ディートリヒシュタイン侯爵らの密談の内容は、9章「アレネンバーク城の密談 1~3」にございます。



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