エンツォ王の悲劇
「おおお、久しぶり、警察の犬!」
「お前も、牢獄から出れて何よりだな」
アシュラは、劇作家、ナンデンカンデン(※)と固い握手を交わした。作家の指には、固いペンだこが、出来ていた。
ナンデンカンデンは、反体制派の劇作家だ。彼の舞台は、常に、秘密警察長官、セドルニツキの監視下にある。セドルニツキは、上演前に台本を押収し、完膚なきまでに赤インクで、修正指示を入れた。ちなみに、セドルニツキのあだ名は、切り裂き伯爵である。
セドルニツキ長官の下で働いていたアシュラは、何度も、ナンデンカンデンと顔を合わせた。大抵彼は、牢獄送りされるか、出てきたばかりだった。
最後に会った時、
セドルニツキに赤入れされるまでもない。プリンスのロマンスが見つからなかったのだろう……。
アシュラを部屋に招き入れ、ナンデンカンデンは、安いワインを勧めた。
再会を祝して、赤い液体を満たしたグラスが触れ合う。
「今回の勾留は、ちとばかり長かったな。おかげで、新作の封切りに間に合わなかった。
「そんな拷問を?」
検閲で拘束されると、そこまで厳しい罰をけるのだろうか。
ナンデンカンデンは胸を張って訂正した。
「違う。拷問などで、この俺さまが死ぬものか。酒が飲めなくて、だよ」
アシュラは脱力した。
「ちょうどいい機会だから、牢屋で、すっかり酒を抜いてくればよかったのに」
「何を言う!
そう言って、ナンデンカンデンは、グラスの酒を、ぐっと飲み干した。
「お前も、差し入れくらい持って来いよ、アシュラ」
「ずっと、ウィーンにいなかったんだよ」
「へ?」
ナンデンカンデンは、目を丸くした。すぐに、賢しげにに頷く。
「ははあ。何かやらかしたな。前から思ってたんだ、お前に秘密警察官なぞ勤まるはずはない、って」
アシュラは肩を竦めただけだった。
人間広報機のようなこの男に、詳しい話をする気はない。
「今日はな。あんたに、教えてほしいことがあって」
「何! この俺に!」
ナンデンカンデンの目が輝いた。
「うん、そうだろうそうだろう。この世の叡智を寄せ集めた俺の頭脳に、教えを乞いに来たのだな。よかろう。今までの全ての無礼は、水に流そう。俺は、お前を弟子と認め……」
「弟子入りする気はないから」
「そんなことを言うな。入門金は、月賦にしてやる」
「入門金なんて、とってたのか……」
「安心しろ。今まで払ったやつはいない。なにしろ、俺には、弟子なんて、1人もいないからな。アシュラ。お前に、俺の初めての弟子という、名誉ある地位を授けよう。言っておくが、一番弟子じゃないぞ」
「どっちもいらない」
きっぱりとアシュラは断った。
懐の隠しから、1枚の紙片を取り出した。
フランソワが手渡したパンフレットだ。
ナンデンカンデンの目の色が変わった。
「おお! 『エンツォ王』じゃないか! アシュラ、お前、見かけによらず、趣味がいいな。目下の俺の、イチオシだ。大当たり間違いなしの悲劇だ!」
「これ、どういう話だ?」
用心深く、アシュラは尋ねた。
あらすじなら読んだ。
13世紀、神聖ローマ皇帝フェデリーコ2世の息子の話である。エンツォは、非嫡出児であるが、フェデリーコ2世は、この子こそが、自分の血を最もよく受け継いでいると語ったという。
神聖ローマ皇帝・フェデリーコは、ローマ教皇に反旗を翻していた。ところが、息子エンツォ率いる軍は、教皇側の都市国家、ボローニャに敗北してしまった。エンツォは捕らえられ、ボローニャに幽閉された。
優れた詩人であったエンツォは、獄中にありながら、イタリアの人々に愛された。多くの人が、彼の元を訪れ、看守さえ、彼の吟じる詩には、感動したという。
エンツォは、生涯、ボローニャの獄から解放されることなく死んだ。
この、生涯、拘束されたままという辺りに、プリンスは、自分の境遇を重ねたのではないかと、アシュラは思った。フランソワが詩人かというと、それはなかなか、承服しがたいものがあるが。
だが、周囲の人の心を掴むあたりは、エンツォ王と同じだ。偉大なる父の期待を、その身に受けていたという点も。
……「イタリアの統一など、
フランソワはそう言った。
アシュラには、エンツォのどこが、神に逆らっているのか、わからない。イタリア統一を目指したエンツォは、どうして、神に対する反逆者なのか。
それで、劇作家のナンデンカンデンの所へやってきたのだ。
「なんだよ。どんな劇かもわからずに、観に行くつもりだったのか? これだから、大衆というやつは……」
「あらすじなら読んだ! そこに書いてある!」
アシュラはパンフレットを指さした。
「だが、なあ、ナンデンカンデン。教えてくれないか? イタリア統一は、神の意思に反するのか? エンツォは、神に逆らったのか」
劇作家は、めんくらった顔をした。
「神に逆らった? 確かに、神聖ローマ帝国は、ローマ法王と、戦争中だったけど……」
言いかけ、ナンデンカンデンの顔が、みるみる輝いてきた。
「そうか! そうきたか! そういう解釈もあったんだな!」
「なんだ、ナンデンカンデン。何を思いついた?」
「いや、アシュラ。お前は天才だ。よくまあ、そんなに深く隠された秘密を、掘り当てたものだ!」
「だから、教えてくれ、お願いだから」
「教えてくれ? お前が考えついたんじゃないのか? 神に対する反逆と」
「いやまあ……そうだけど……」
ライヒシュタット公の名を出すわけにはいかない。しどろもどろと、アシュラは答えた。
「2冠を1つの頭に集めず」
ナンデンカンデンは言った。
「これはどういうことか、わかるか?」
「……いや。わからない」
「えてして、天才は、言葉では理解できないものなのだな。理屈ではなく、感性なのだ。お前は、頭が悪そうだものな、アシュラ」
「ああそうだよ、俺は、頭が悪いよ、いい加減、教えてくれ、ナンデンカンデン」
「父のフェデリーコ2世は、ローマ教皇と戦争中だった。これは、フェデリーコが、ドイツと、イタリア、この2つの王国の冠を、神聖ローマ帝国のものにしようとしたからだ。フェデリーコは、父方からドイツを、母方からイタリアの冠を受け継いだんだ」
「ドイツとイタリア?」
「うん。
……両シチリア王国?
……イタリア・ブルボン家?
なにかが、アシュラの頭の片隅に閃いた気がした。しかし、現れた光は、一瞬で消え去ってしまった。
「ドイツとイタリア。この間に、何がある?」
「ええと」
「教皇領だよ。イタリア半島の真ん中には、教皇領がある。それを、北と南から挟まれたんじゃ、教皇としては、たまったもんじゃない」
2冠を1つの頭に集めず。
それは、フェデリーコ2世が即位する時、教皇側が出した条件だった。
世俗の権力を束ねるのが、神聖ローマ帝国。そして、人々の、精神的な支柱が、ローマ教皇であるはずだった。
しかし、たとえ教会が、聖に属するものであっても、その社会的、政治的影響力を及ぼす為には、世俗権力が分散している方が都合がいい。だから、神聖ローマ帝国の支配には、注意が必要だ。特に、教皇領のある、イタリアにおいては。
教皇庁のありように、イタリア諸邦も味方した。裕福な商人や貴族が権力を握る為には、税を吸い上げる国家など、考えたくもない。
だが、フェデリーコは、イタリアに、中央集権的な、強大な国家を築こうとした。一方で、ドイツには、封建的な領邦の、緩やかな結びつきによる平和を維持した。
ドイツとイタリア。
神聖ローマ帝国が、北と南から、教皇庁を襲う……。
もしそうなれば、教皇としては、恐るべき事態だった。神聖ローマ帝国に、イタリアを統一させるわけにはいかない。
神聖ローマ帝国とローマ教会の間で、激しい戦いが始まった。
ローマ教皇は、神聖ローマ皇帝を擁護する者を、次々と破門し、地獄行きを宣言した……。
「もちろん、フェデリーコも負けてはいなかったけどね。教皇に味方する者は、残虐な拷問にかけられた。目をえぐられ、手足を折られ……実の息子のハインリヒさえ、例外ではなかった。ドイツを任されていた彼は、教皇側の工作で、父のフェデリーコを裏切ったんだ。戦乱は、ドイツ、イタリアからヨーロッパ全土に広がり、多くの人が死んだ」
凄まじい話だと、アシュラは思った。
フェデリーコ2世は、ホーエンシュタウフェン家、最後の王である。ハインリヒは、父からの拷問の後、自殺した。また、庶子のエンツォも、幽閉先のボローニャで客死した。最後まで抵抗を続けた16歳の孫も、捕らえられ、斬首された。
この後に続く、神聖ローマ皇帝の大空位時代を、最終的に制したのが、ハプスブルク家である。
「イタリアといったら、地中海の、穏やかで明るい印象しかないけど、実はけっこう、血塗られた歴史なんだよ」
「この春も、イタリアの中部で、蜂起が起きたね……」
思い出し、アシュラは言った。
モデナとパルマ、それに教皇領の一部で、イタリア統一を目指し、暴動が起きた。フランソワは、パルマの母を救いに行きたがったが、許してもらえなかった。
ナンデンカンデンが頷いた。
「ああ、あったな。オーストリア軍が進軍し、すみやかに蜂起は鎮圧された。オーストリアの
「だが、もし、統一されたイタリアを、オーストリアが治めることになったら?
……そうだ。フランソワが、イタリアの王になればいいんだ。
……統一イタリアの。
中部イタリアの蜂起では、「ナポレオンの血を引く王」を、統治者として求めた。だが、
一方、フランソワは、ナポレオンの息子だ。それも、正統な。それなら、オーストリア皇帝の孫であろうとも、最終的にイタリアは、彼を受け容れるのではないか。
彼の
傀儡になるしかない、オーストリアの次の皇帝、フェルディナンド。
即位する気のまるでない、F・カール大公。
……オーストリアそのものも、彼のものだ!
イタリアと、オーストリア。
アシュラの身内に、震えが走った。
……南からの、神聖ローマ帝国の再建だ!
ナンデンカンデンが、鼻を鳴らした。どんどん妄想が先走っていたアシュラは、はっと我に帰った。
「お前な。最初に俺の言ったことを聞いてなかったのか? 2冠を1つの頭に集めず、だ。教皇領を挟む。それは、神に逆らう行為なんだよ」
「神に逆らう……」
「そういえば、ナポレオンも、破門されたんだっけな。イタリアの教皇領を併合しようとして」
不意に、その名が、ナンデンカンデンの口から出た。
「ナポレオンは、宗教なんかまるで信じてなかったから、地獄行きを宣言されても、全然平気だったろうけど。それどころか、彼は、教皇を狂人扱いして、拉致監禁したっけな。だけど、その後、スペインやロシアの戦いで、大量の人が死んだ。彼自身も、没落への道を辿った。やっぱり、イタリアに手をつけちゃダメなんだ。あそこは、教皇のものだから。イタリア半島が、未だ統一されずに、大公国や諸邦が乱立しているのは、教皇領を守る為なんだ」
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※ ナンデンカンデン
反体制派の脚本家です。秘密警察長官、切り裂き伯爵こと、セドルニツキ伯爵に、目をつけられ、しょっちゅう、監獄送りにされていました。なお、セドルニツキ伯爵は実在しますが、ナンデンカンデンは、架空の人物です。
ナンデンカンデンは、5章「切り裂き伯爵 セドルニツキ」「セドル と ニツキ」「肌の露出が多すぎる!」に、登場しています。
以下は、古い歴史の話です。ご興味をお持ちの方だけ……。
ライヒシュタット公は、1832年3月17日、母親に充てた、一般に見ることができる彼の最後の手紙で、ラウパッチの「エンツォ王」を観て感動したと、報告しています。ラウパッチの戯曲は、私には見つけられませんでした。で、史実の方を調べてみました。
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※ フェデリーコ2世( 1194 - 1250)
ドイツ語読みは、フリードリヒ2世です。正妻達の息子に、ハインリヒ(長男)、コンラート(次男)、マンフレディ(三男)がおり、側室……というより浮気相手……の生んだ息子が、エンツォです。(他にもいますが、割愛)。
フランソワがアシュラに渡したパンフレットの主役は、エンツォですが、ここでは、ちょっと、エンツォの父、フェデリーコのお話を。
フェデリーコは、
ちなみに、オットー4世は、ローマ教皇に逆らって破門され、これが、ケチのつきはじめです。破門といえば、カノッサの屈辱が有名ですが、これは、1077年、少し前のことです。
フェデリーコの即位には、もちろん、ローマ教皇もおおいに力を貸しました。なにしろ、
しかし、始めはおとなしかったフェデリーコも、次第に、ローマ法王に逆らうようになっていきます。ついには、お話にあるように、ドイツとイタリアから、教皇領を挟み撃ちにしようとしたのです。
ローマ教皇は、再び、伝家の宝刀「破門」を抜きますが、案外、フェデリーコはへっちゃらでした。そこで、法王は、分断作戦に出ます。ドイツを任されていた長男ハインリヒをたぶらかし、父に逆らわせたのです。
フェデリーコは、長男ハインリヒを討ち、目を潰した上、幽閉します。が、護送中にハインリヒは、谷に身を投げて自殺してしまいます。
これは、さすがに、フェデリーコにも堪えました。さらには、最も自分に似ていると頼みにしていた庶子、エンツォも、ローマ教皇側に囚われてしまいました。翌年、フェデリーコは、失意のうちに、この世を去ります。
ローマ教皇と神聖ローマ帝国の争いは収まりませんでした。が、次男のコンラートが病死、3男マンフレディも、教皇の意を受けたフランス軍との戦いで戦死してしまいます。さらに、
最後に残ったのが、エンツォですが、イタリアの人々から大変愛されたにも関わらず、彼は、死ぬまで檻から出してもらえませんでした。コッラディーノが斬首された2年後、エンツォはボローニャで亡くなり、
神聖ローマ皇帝は、空位となりました。
そして出てきたのが、ハプスブルク家です。
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