政治の玩具にはならない
プロケシュが、教皇領へ帰る日が近づいてきた。
彼は、もう一度だけ、プリンスに聞いてみようと思った。
……フランスへ行く意志の有無を。
新しい政権に替わったばかりだと言うのに、フランスの空気は、熱気を孕んでいた。
何年も不作が続き、食料難と物価上昇は、収まる気配もない。また、新しい外務大臣、セバスティアン・ポルタによる弱腰外交は、フランス人の誇りを踏みにじった。
フランス全土で、不満が膨らんでいた。
ガス抜きが必要だ。それが、暴動で終わるか。革命……
決め手は、有力なリーダーの有無だと言えた。
もし……、
もし、その時、その場に、ナポレオン2世がいたなら、彼は確実に、王位に上るだろう。
プロケシュは、気がついていた。
プリンスの部屋に、プルードンのゆりかごが置かれているのを。
プロケシュが、パルマから取り戻すよう、指示したゆりかごだ。
ナポレオンの息子としての、またとない身分証明のために。
……本当に、彼には、フランス帰還の意志がないのか。
直接問うて、それを、確かめるべきだと思った。
ホーフブルクのプリンスの部屋には、だが、意外な先客がいた。
プルードン制作の、黄金のゆりかごの前に、痩せた人影が立っていた。
針金のようにぎくしゃくとした、それでもまだ、真っ直ぐな姿勢を崩さない……。
メッテルニヒだった。
「プリンス。これは、あなたが生まれた時に、パリ市から贈られた、ゆりかごではないですか」
プロケシュが部屋に入ったのは、ちょうど、メッテルニヒがそう尋ねた時だった。
質問というより、詰問に近かった。
「プルードンのゆりかごは、
うっすらと、プリンスは笑みをこぼした。
「人は、誰しも、一度、ゆりかごを離れると、二度と再び、戻ってくることはありません。これまでのところ、それは、僕が守りたいと思っている、唯一の、個人的な記念品なのです」
メッテルニヒは、煙に巻かれたような顔をした。
彼は、今、まさにプロケシュがしたいと思っていた質問を発した。
「プリンス……。あなたは、フランスへ帰りたいのですか? もし、私が……連合国が、許したのなら」
「僕には、父が僕に遺した、聖なる記憶を守る義務があります。無責任な好奇心の玩具になるような真似をするわけにはいきません。ナポレオンの息子は、無謀な冒険はしないのです」
打って変わって、強い口調だった。
「それは、どういう意味です?」
メッテルニヒが、気色ばんだ。
彼には、心当たりがあるのだ。
昨年の、オーストリアのイタリアへの出兵の時……。
メッテルニヒは、フランスへの牽制として、彼の名を使った。国民に全く人気のない国王、ルイ・フィリップに、
ナポレオンの息子が、フランスへ帰って来る! そうなったら、ルイ・フィリップに勝ち目はない……。
効果は、絶大だった。
フランス政府は、オーストリアのイタリア進軍を、全面的に支持した。ルイ・フィリップは、イタリアのカルボナリへの軍事援助は、差し控えると明言した。また、国内の革命家を拘束することさえ、やってのけた。
ナポレオン2世の名は、今もなお、ブルボン家のプリンス、アンリ5世への対抗馬として、強烈な存在感を放っている。
この二人のプリンスの人気の拮抗が、かろうじて、フランスの平和を守り、ルイ・フィリップ王朝は存続しているのだ。
フランス7月革命以来、メッテルニヒは、ナポレオンの息子を、さんざん、外交の道具に使ってきた……。
部屋の入り口で立ち止まったままで、プロケシュは、思わず息を呑んだ。
去年、プロケシュは、プリンスとともに、一緒に読んだ、ナポレオンの遺書を思い出したからだ。
……「今、ヨーロッパを牛耳っている者どもの手先となってはいけない」
その一句は、この一文に続いていたはずだ。
……「私の息子は、フランスのプリンスとして生まれたことを、忘れてはならない」
プロケシュは悟った。
……プリンスは決して、フランスを諦めてはいない!
力のこもった声で、プリンスが答えている。
「ナポレオンの息子は、いかなる政党の、あるいは、いかなる組織の、罠に嵌るわけにはいかない、ということです。フランスへ帰るとしたら、その道は、クリアでなければならない。さもなければ、僕は、絶対に、足を踏み入れることはないでしょう」
……「私の息子は外国の力によって、帝位に即くようなことがあってはならない。私の息子は、単に君臨するだけではなく、後世からの是認に、値する者となるべきだ」
メッテルニヒの鋭い眼光が、年若い青年を見据えた。
しばらく、無言の時間が流れた。
やがて、メッテルニヒが笑いだした。
「今日は、ちょっとばかり、あなたに、苦い薬を飲ませてあげようと思って来たのですが、逆に、あなたに、やり込められてしまったようですね」
優雅に、プリンスも微笑んだ。
「苦い薬などと。宰相。あなたのご意見は、いつも、大変、参考になります」
「この頃、どうですか? 魔女の夢は見ますか?」
探るような眼差しで、相手の全身を観察する。
プリンスは、ぱっと頬を赤らめた。
「いいえ。全く」
言葉少なに、彼は答えた。
プロケシュには、全く意味がわからなかった。
だが、プリンスの返事に、メッテルニヒは満足したようだった。
「よく眠れているようですね。悪夢は、眠りの浅い時に見るものです。実は、あなたが良く眠れていないようだという報告がありましてね」
「そんなことはありません。体調は、万全です」
「それはよかった。……やあ。プロケシュ少佐じゃありませんか」
ここでやっと、宰相は、プロケシュに気がついたようだった。
「これはこれは。お約束でしたか」
「いえ、……」
「プロケシュ少佐! お待ちしてました」
プリンスが飛びついてきた。
メッテルニヒの目が、プロケシュを、刺すように見据える。
「今日は、何のお話をするんです?」
「神について」
答えたのはプリンスだった。
「僕は、プロケシュ少佐に、宗教と神について、僕の考えるところを聞いてほしいのです。手紙でするには、全くもって、ふさわしくない話題ですから」
「宗教?」
「イエス・キリストへの信仰について。また、教会の教えについて」
「ほう。それはまた、高尚な」
さすがの敏腕宰相も、返す言葉がないようだった。
少しだけ雑談をして、メッテルニヒは、帰っていった。
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