破戒 1
「殿下……」
メッテルニヒが去ると、プロケシュは、プリンスに近づいた。
プロケシュは、感動に震えていた。
このプリンスは、なにひとつ、諦めてはいない。
味方を遠ざけられ、病の為に、軍を離れることを強制されても。
たくさんの計画が、頭の中にあると、プリンスは言った。
いったいどのような素晴らしい方法で、彼は、フランスへ帰ろうとしているのだろう。
「少佐。僕は、信仰を失いかけています」
プロケシュを制するように、プリンスが言った。
……宗教の話をするというのは、宰相を追いやるための方便ではなかったのか?
プロケシュは意外に思った。
次に続いたのは、思いもかけない言葉だった。
「僕は、イタリアへ行きたいと思っています」
「イタリア? フランスではなくて?」
「ええ、ナポリへ」
「ナポリ! モーリツ・エステルハージが赴任している国ですね」
両シチリア王国だ。
プリンスは頷いた。
メッテルニヒの出ていったドアを、プリンスは、ちらりと見やった。
「普通に言ったら、イタリアへなど、絶対に行かせてもらえないでしょう。しかし、もし、僕が、ナポリで静養したいと言ったら? ナポリは、気候の穏やかな海辺の街です。静養するには、最適だ。ウィーンの人々もきっと、僕の後押ししてくれるでしょう」
……この人は!
プロケシュは驚嘆した。
……自分の病気でさえ、利用しようとしている!
両シチリア王国は、ナポリを含むイタリア半島の南端と、その西側のシチリア島から成っている。
シチリア島の歴史に、プロケシュは思いを馳せた。
「シチリア島は、興味深い島です。ローマの後、ビザンチン文化が花開き、やがて、イスラム文化が押し寄せてきた。それを、ヴァイキングが、再び、キリスト教文化に取り戻した……」
「そして、少佐。あなたは、中東でのキャリアが長い」
「ええ。トルコの
言いながら、プロケシュは、背筋が寒くなるような興奮を覚えた。
青い瞳が、プロケシュをまっすぐに射る。
「あなたは、ご著書の資料を集めに、ギリシャ、小アジア、エジプト、シリアへも、頻繁に行かれていました」
「はい……」
謎が解けた気がした。
ナポレオンは、入り口に過ぎなかった。
プリンスがプロケシュをそばにおいたのはプロケシュが、著書で、ナポレオンを擁護したから、というだけではない。
中東諸国に地の利があり、人脈を持っているからだ。
……「重大な諸問題が解決されるのはもはや北ヨーロッパにおいてではあるまい。地中海においてである。あそこには、列強のあらゆる野心を満足させるに足るものがある」
ナポレオンが側近モントロン(遺言執行人でもある)に託した、息子への遺書の口述筆記の一節である。
……なんてこった! 答えは最初から、目の前にあったんだ!
……俺が、プリンスに選ばれた、その理由は……。
青い目が瞬いた。ナポレオンより少し小さいが、父親と全く同質だと、マルモン将軍が評した目だ。
「ですが、プロケシュ少佐。どうか、誤解しないで。僕は決して、あなたを利用しようとしたわけではなりません。あなたを、とても、慕わしく思っているのです。……あなたより先に、僕は、この胸を開いた人はいない」
そんなことは、言われなくてもわかっていた。
グラーツの城で初めて会った時に感じた、あの、熱量……。
隣の席から、じっと彼を見つめている、熱い眼差し……。
その日から、二人で育んできた、友情。話し合った、たくさんの政治的な出来事。やりとりした、心のこもった手紙。
ぞくぞくしながら、プロケシュは尋ねた。
「統一イタリアの豊かな物資を背景に、地中海の権益を手に入れ、ギリシャから中東まで、その手に治めるおつもりですね」
プリンスは、大きく頷いた。
「それから、ジブラルタルを通って、太平洋へ。……ですが、急いではいません。貿易や、商業は、今はまだ、イギリスに好きなようにさせておきましょう。最終的に僕は……」
メッテルニヒの立ち去った暗がりに、目を向けた。その先には黄金のゆりかごが、燦然と光を放っていた。
「フランスへ帰りますから」
「プリンス……、今、今です。今、フランスへ帰れば、あなたは、まっすぐに王座に導かれるんですよ? フランスでは、オルタンスやエリザ・ナポレオーネが、待っています」
何か言いかけたプリンスの口を封じるように、プロケシュは続けた。
「皇帝には、事後承諾を頂けばいいのです。カール大公やヨーハン大公が、味方についてくれるはずです」
プリンスが、まっすぐにプロケシュを見つめた。
悲しそうな瞳だった。
「いいえ。フランスを、よその国の軍靴で踏みにじることはできません」
「でも、それは、イタリアも同じなのでは……あ!」
言いかけて、プロケシュの頭に、答えが浮かんだ。
「そうか。イタリア統一!」
イタリアは今、分裂状態にある。先の蜂起は、弾圧されたばかりだ。けれど、革命の芽は、決して、摘み取られたわけではない。
プロケシュの言葉に、プリンスは、大きく頷いた
「イタリア統一を志す者たちをまとめ、友となることができたら! 新しく、国を造るのです。統一された、強大な、中央集権国家を、イタリアに!」
「友?」
その言葉を、プロケシュは聞き咎めた。
「王ではなく?」
「僕は、王位には、それほど執着を持っていません。僕はただ、格差をなくしたいだけです。たとえば、同じ国の領土であっても、税率が違うというのは、間違っています」
それは、二人で何度も話し合ったことだった。
「同じ価値観……度量衡、貨幣、そして、わかりあえる言葉の導入が必要です。それが、僕の考えるイタリア統一です。そして、やがては……」
言われるまでなく、プロケシュには、その先まで理解できた。
プロケシュを見つめ、プリンスは言った。
「ヨーロッパをひとつに」
プロケシュは唸った。
「確かに、ヨーロッパの統一には、イタリアを掌中に収めることが必須だ。気候温暖で、農作物の豊富なイタリアを。若き日のナポレオンも、イタリア遠征を行った」
「ですが、父は、甘かったのです。領邦制度を残し、親族に託すというだけではダメです。イタリアは、統一されなければならない。それも、民族による自決を目指さなければ。今なら、それができる」
統一イタリア。
素晴らしい魅力に輝いて見える
「僕は、イタリアを統一させた功績だけを持って、フランスに入ります。オーストリアの、否、いかなる同盟国の影をも、引きずることなく」
……この人は。
プロケシュは唸った。
……今まさに、ナポレオンを超えようとしている。
だが、帝国軍人として、プロケシュは言わないわけにはいかなかった。
「イタリアの独立は、オーストリアにとって、肥沃な領土を失うことになります。間接支配地域、パルマ、モデナ、トスカーナの大公国も」
青い瞳に、鋼の色が加わった。強い力でプロケシュを見据え、プリンスは言った。
「統一イタリアは、オーストリアの支配下にはない。しかし、オーストリアと同じ価値観を共有します。慈悲深い叔父上は、きっと、協力して下さるはずです」
叔父上……それは、次期皇帝、フェルディナンド帝のことだ。
「しかし……。フェルディナンド大公には、間違いなく、メッテルニヒが摂政につきます」
フェルディナンドに、統治能力はない。そしてメッテルニヒは、イタリア統一など、考えもしないだろう。
鋼色を帯びた瞳が、硬球のように輝いた。
「だが、フェルディナンド帝の治世は、短いものとなるでしょう。そしてその後には、フランツ・ヨーゼフが、即位します」
……フランツ・ヨーゼフ。
F・カール大公の、そして、ゾフィー大公妃の息子。1歳になったばかりの……。
「僕と同じ時代を生きるのは、彼です。祖父、そして、フェルディナンド大公の後、ハプスブルク家を担うのは」
「!」
プロケシュは息を呑んだ。
高齢のメッテルニヒが宰相を続ける以上、フェルディナンド帝の御代が、そう長く続くとは思えない。
フェルディナンドの短い御代を経て、王位は、フランツ・ヨーゼフのものとなるだろう。ゾフィー大公妃を母に持つ彼なら、ライヒシュタット公との協調も、充分、考えられる。
なんと素晴らしい、明るい未来だろう!
戦禍を交えずに、この2大国が共存していくのだ。そして、イタリアも。
ヨーロッパの統一は、きっと、その先にある。
だが、あることを思い出し、プロケシュは、愕然とした。
「半島の統一は、無理です。だって、イタリアには、教皇領があります」
ふっと、プリンスは笑った。プロケシュが初めて見た、底の知れない笑みだった。
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