破戒 2


「わかっています。僕の目指すイタリア統一は、父が犯した以上の罪です。なぜならそれは、教皇領を奪うことだから。イタリア南部フランスから、教皇領を挟む戦略だからです」


「2冠をひとつの頭上に集めず、と、昔から言います。たとえあなたが王位に執着しなくても、あなたの行いは、いにしえの王の行いと同じだ。2つの冠を、ひとつの頭上に戴くことに等しい」


 逡巡しながら、プロケシュはつぶやいた。

 南と北から、教皇領を挟む。

 それが、ローマ法皇に逆らう行為だ。

 プロケシュには、よくわかっていた。彼は、法王庁の大使なのだから。


 ……2つの王冠をひとつの頭上に集める。

 イタリアを統一し、ドイツ、あるいは、ガリアフランスからアルプスを越え、教皇領を挟む。

 それは……。


「破門を意味します」


 にっこりと、プリンスが微笑んだ。

 天使というには、あまりに痛々しい笑みだった。


「教皇領を併合して、僕の父は破門された。やがて、父は、スペインとロシアとの戦いの泥沼に足を取られ、大勢の人が亡くなった。父自身も、捕らえられ……」


 プリンスの声は、殆ど聞き取れないくらい、掠れた。

 彼はため息をついて、手ずれのした本を、プロケシュに渡した。

 ラス・カスの『回顧録』だった。ラス・カスは、セントヘレナまで、ナポレオンに付き従った忠臣だ。あちこちに、アンダーラインが引いてある。

 そのうちのひとつを、プリンスは諳んじた。


神に希望を見いだせる者は幸せである

我々は、いつも、神の恩寵を哀願している

神は、我らが苦しみを和らげてくれるだろう

……もし、我々が、繁栄の最中においても、神に仕えるのなら


 イサベイ(※ナポレオンの肖像画家)の肖像画に、ナポレオンが書いた詩句だ。

 囁くように、プリンスは続けた。


「宗教は、国がよく治められる為の、目に見えない支え、礎となります。父は、僕への遺書でも、宗教を大切にするように教え導いています」

「そうです。モンゾロンへの口述の遺書で、ナポレオンは、宗教は、人民に多大な力を及ぼすから、おおいに利用せよと言っています」


 果たして、ナポレオンは、宗教に帰依したのかと、疑問に思いながら、プロケシュは応じた。

 プリンスは、頷いた。ひどく無感動に見えた。


「法皇ピウス7世の慈悲で、父は、破門の身でありながら、キリスト教徒として死にました」


 ピウス7世は、ナポレオンの死の床へと、司祭を派遣している。また、彼の死後、教皇領へと、親族の亡命を受け入れた。


「しかし僕には、そのような僥倖は、許されないでしょう」



 優しかったピウス7世は、8年前に亡くなっている。今は、彼から3人めのグレゴリウス16世が、教皇の座についている。


 グレゴリウス16世は、今年(1831年)2月の、イタリア騒乱の折、オーストリア軍に出動を要請した教皇である。

 また、科学技術を嫌い、鉄道敷設やガス灯の設置に、反対していた。

 古い因習に凝り固まった教皇といえよう。


 確かに、ピウス7世がナポレオンに対したような、ある意味、大らかな采配は望めそうにない。



「おそらく僕は、破門され、地獄行きを宣告されたまま、死ぬでしょう。信仰深い者たちは、僕を排斥し、恐れるでしょう。何より僕は、祖父の期待を裏切ることになる……」

 言いかけて、プリンスは頭を振った。


 破門とは、カトリックの最高峰、ローマ教皇から、宗教的な一切の権利を剥奪されることだ。教会を中心としたコミュニティーからは追放され、秘跡を受ける権利もなくなるから、死後の魂の安寧も、望めない。


 何かを……信心深い祖父の皇帝への思いを……振り切り、プリンスは続けた。


「それでも僕は、父の考えを受け継ぎたい。革命の火を広げ、ヨーロッパをひとつにまとめたい。同じ価値観の元、真に平等な世界にしたい。父の遺志を継いで、僕は、今一度、犠牲になりましょう。地獄行きの烙印を、甘んじて、この額に受けるつもりです」


「ですが、」

 プロケシュは切り込んだ。

 彼は、フランス革命の迷走を思い出していた。ヴァンデ地方の蜂起や、フクロウ党の反乱を。

「民とは、迷信深いものです。フランス革命の合理精神さえも、民衆の信仰心の前に無力でした。ナポレオンも、最終的には、和議コンコルダートを結ばざるをえなかった。人民に疎まれたら、国をまとめることはできません」


「そこです、プロケシュ少佐。神に見放され、それでも僕についてきてくれる人々。頑迷な迷信を払い除け、真理を知る者のみが、僕の味方です。本当の革命家を、僕は、ナポリに集めたい。次の革命を、ナポリから始めるのです」


 ……試金石。

 プロケシュは思った。


「少佐」

その声が、緊張を帯びた。

「僕とともに、歩んでくれますか? 僕が破門され、地獄へ落ちても、そばにいてくれますか?」


 あまりにも真っ直ぐに聞かれ、さすがに、プロケシュは、ためらった。

 心は決まっている。

 自分はこの年若い友に、どこまでもついていくつもりだ。

 しかしその道が、地獄へ続いているとすると……。


 自分は、神を、どこまで信じているのか。

 その難しい質問を、突然、目の前に押し付けられ、プロケシュは戸惑った。

 ……自分は何を恐れているのか。

 ……地獄とはどこだ? 


 プロケシュの眼の前には、プリンスがいた。

 緊張に打ち震え、自分の返事を待っているプリンスが。

 このような飛び抜けた考えを、誰に打ち明けることもできずに、孤独に温め、時折、取り出して眺めているだけだったというプリンス。

 孤独な、長い年月。

 その彼が、自分に初めて、胸襟を開いてくれた……。


 ためらいは、長いことではなかった。

 プロケシュは、顔を上げた。不安に満ちた顔に向けて、にっこりと笑った。


「ついていきましょう。共に煉獄を潜り、地獄の底の底までも」


 プリンスの目に、みるみる涙が溜まった。

 プロケシュを見つめたまま、唇をわななかせている。


 不意に、プリンスは、跳ね上がるようにして、立ち上がった。

 カップボードのところまで走り、一冊の本を持って、戻ってきた。

 聖書だった。ページを開き、プリンスは中から、一片の紙片を取り出し、プロケシュに差し出した。


「どうかこれを、受け取って下さい。そうすれば、今、この瞬間が、僕にとってどれほど貴重であるか、あなたにもおわかり頂けるでしょう!」


 アルバッハの、『聖なる響き』という宗教読本の、タイトルページだった。

 そこには、皇帝の字で、こう書かれていた。


お前の、全ての努力と運命に、神の光の当たらんことを。

それが、お前の祖父からの、切なる願いだ。


そして、祖父母の署名。


  フランツ(※祖父の皇帝の名)

  カロリーネ・オウガスタ(※皇妃の名。フランソワの祖母にあたる)



 「受け取れません」

プロケシュは、紙片を、プリンスの手に押し戻した。

「このような大切なものを……。皇帝の、あなたへの、真摯なお心を……」


「僕は、祖父を裏切るのです」

フランソワは言った。

「ローマ教会から破門されるような僕を、祖父は、決して許してはくれない。わかっています。僕には、これを持っている資格はない」


 なおも押し付けてくる。


 プロケシュの手が震えた。

 今はじめて、彼は悟った。

 プリンスの決意……イタリア統一……は、温かい肉親の情を裏切るものであるということを。

 皇帝の……彼の祖父母を、失望させ、その愛情を、失わせるのだということを。


 ……自分は今、それに加担しようとしているのだ。


 青い瞳が、揺れ動いて、彼を見つめている。

 熱した鋼のように熱い、恐ろしい瞳だ。


「ですから、プロケシュ少佐。これは、あなたに持っていてほしい。祖父の愛に、僕が、心を惑わされることのないように」

 押し付けてくる手が、熱を孕んでいる。


 ……それが、友情なのだ。

 ……自分と、この人との。

 ……ナポレオンの息子との。


 押し戻すことは、できなかった。

 プロケシュはそれを受け取った。

 もう、後戻りはできない。


「ありがとう、少佐」

 とうとう、涙が、青い目から溢れ出た。泣きながら、プリンスは微笑んだ。


 直後、激しく咳をした。

 苦しげな咳が、長く続いた。

 白いリネンで、彼は、口元を抑えた。

 驚くプロケシュをその場に残し、部屋から走り出ていった。





 プリンスは、なかなか戻ってこなかった。

 侍従を探しにやろうかと、プロケシュが案じ始めた頃、ようやく部屋に入ってきた。


 「年明けすぐにでも、軍務に復帰するつもりです」

プロケシュの前に座り、何事もなかったかのように話し出した。


 顔色は、悪くなかった。

 話し方も普通だ。声の調子に至っては、先程よりも聞き取りやすくなったくらいだ。


 それで、プロケシュは安心した。

 咳がひどくなると中座する人は、よくいる。周囲の人への配慮だ。

 プリンスもきっと、自分に気を使ったに違いないと、プロケシュは思った。

 だって、本当に具合が悪かったら、そう言うはずだから。

 第一、すぐにでも軍務に復帰すると言っているのだ。医師の許可も出たという。深刻な病であるはずがない。


 プロケシュは、夢にも思わなかった。

 体調を二の次にしても、プリンスは、自分と話したがっているのだ、などとは。



 「人は、貪欲で、身勝手なものです。高貴な目的では管理することなど、できません。軍による力の支配は、ぜひとも必要と考えます」


 プリンスが、人の本質を疑いがちなことは、プロケシュも、知っていた。

 それも含め、プロケシュは、まるまる、プリンスを受け容れていた。


 ナポレオンの息子として、ウィーン敵国の宮廷で育てられたのだ。たとえ皇帝の孫であろうとも、いや、皇帝の孫であるからこそ、心無い人たちに、どれだけ傷つけられてきたことだろう。


 「偉大さというものは、人のさがによって獲得するものではありません。ただ、物事の成功によって、達成できるのです」


 なおも、プリンスは続けた。

 これは、ナポレオンの考え方でもあった。


 ……「成功につながるなら、何を気にする必要があろう」

 かつてナポレオンは、このように語っている。


 だが、強引に物事を推し進めた父と違い、プリンスは、あまりにも誠実だった。


 ……イタリア統一。


 彼についていこうという気持ちに変わりはない。

 だが、教皇による破門も辞さない、というその決意を、今更ながら、プロケシュは憂えた。

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