僕の息子たち
「おや、シャツを新調されましたね」
着替えているプリンスに、軍の付き人、モルは声をかけた。
プリンスの服装は、とてもエレガントだと、かねがね、モルは感じていた。身だしなみもいつだって清潔で、きちんとしている。彼なら、ファッションの
「お手伝いしましょうか?」
「いや、いい」
着替えは、9割方、終わっていた。
近侍の侍従が、後ろに回った。恭しく、フロックの裾を引っ張って直す。少しだけ、モルは、侍従を羨ましく思った。
「外出ですか? それならお供を……」
「僕は、」
言いかけたモルを、プリンスが遮った。
「自分の財政が自由になったら、真っ先に、学校を造るつもりだ」
「?」
突然出てきた言葉に、モルは目を瞬かせた。
低い、耳障りな口調で、プリンスがつぶやいた。
「お前が羨ましい。モル、お前は、パヴィアの軍事学校で学んだといったな?」
「はい」
パヴィアは、以前は、フランスに占領されていた。モルが学んだ軍事学校も、ナポレオンにより設立されたものだ。
「お前には、さぞやたくさん、友達ができたことだろう。今も続く友情だって、あるんだろう?」
「はい」
それは事実なので、モルは頷いた。
プリンスは、ため息をついた。
「同じ年頃の子ども達が集まる学校なら、お互い切磋琢磨して、高め合うことができる。荒唐無稽な夢を語り合い、未来に備えることができる。僕も、学校へ行きたかった」
……ムードンの話をされているのか?
モルは思った。
ナポレオンには、パリ近郊のムードンに、学校を造る計画があった。そこに、ヨーロッパのあちこちの王室から子どもたちを集め、教育を施すつもりだったという。
ヨーロッパの、未来の王たちに、同じ価値観を共有させる為だ。もちろん、自分の息子、ローマ王も、そこで学ばせるつもりだった。
どこか遠くを見る眼差しで、プリンスは続けた。
「僕は、自分の息子たちは、学校へやり、たくさんの学友たちと共に、学ばせるつもりだ」
「それは、他の王族の子たちと共に、という意味ですか?」
「別に王族でなくても構わない。だが、同じくらいの年齢の子たちであるべきだ。僕の息子たちは、学校で、たくさんの友達に囲まれて育つだろう」
……僕の息子たち。
その言葉が、繰り返された。
あたかも、彼には既に、息子たちがいるかのように。
「フランツル。お待たせ」
明るい声が聞こえた。
ゾフィー大公妃だ。
プリンスと、親しげに話す皇族は、それほど多くない。ゾフィー大公妃は、その数少ない皇族の一人だった。
プリンスがモルを見やった。
「そういうわけだ、モル。今日はもう、非番にしてくれてかまわない。
……こんばんは?
……別れ際に?
モルは、ぽかんとした。だが、一瞬のことだった。すぐに、彼は、上官の意図を理解した。
敬礼して、モルは、立ち去った。
いずれにしろ、この後、プリンスとゾフィー大公妃には、同僚のスタンが張り付くことになっていた。
*
「ねえ、なぜ、お別れする時に、Guten abend なんて言うの?」
車寄せに向かいながら、不思議そうに、ゾフィーが尋ねた。
“Guten abend”は、「こんばんは」という意味だ。今のような、別れ際には使わない。
「ああ、それ」
ゾフィの歩みに合わせ、ゆっくりと歩きながら、フランソワは答えた。
「フランス語で、"
これらは、直訳すると、「良い夜」という意味である。
フランス語では、会った時の挨拶であると同時に、別れ際にも使われる。日本語の、「ごきげんよう」と同じだ。
フランス語の”Bonne soirée”を、そのままドイツ語の単語に置き換えると、“Guten abend”になる。
ただし、今、ゾフィーが言ったように、ドイツ語には、会った時の、「こんばんは」の意味しかない。別れ際の挨拶には、用いられない。
「つまり、フランス語を、ドイツ語に直訳して使ったわけね。さよならの挨拶に」
「うん。下がれ、って合図だよ。モルは、フランス語がわかるからね。あと、イタリア語も。語学のセンスがあるんだ。今も、僕の言いたいことが、ちゃんと理解できたようだ」
「まあ! いきなりぶつけたの? ひどい上官ね」
「
だが、フランソワは、首を横に振った。
「いいや。以前に一度、フランス語で命じたのを、彼は覚えていたようだ」
まだシェーンブルン宮殿にいた頃、フェルディナンド大公の記録画家、エドゥアルド・グルクが、絵の具箱の中身をぶちまけたことがあった。
あの時、フランソワは、「Bonne soirée!(ごきげんよう)」と言って、モルを下がらせた。(※1)
「一度だけ! それもフランス語で? いきなりドイツ語に置き換えたって、謎掛けみたいなものじゃない! さっきの軍人さんが、かわいそうだわ」
軽く睨まれ、フランソワは、肩を竦めた。
「彼は、とても賢くて、堅実な性格だ。口が固くて信頼できるし、そのくせ、お茶目な面もある。僕の前では、あまり表に出さないけどね! 本当は、もっと仲良くしたいんだけど……」
「そうなさいよ」
「ダメだよ。彼は、僕の監視役だもの」
フランソワは口を尖らせた。ゾフィーを見つめる。
ふと彼は、何かを思い出したようだった。
「そうだ。君に知らせてくれと頼まれてたんだ。ずっと忘れてた。今日こそ、言わなくちゃ」
「あら、何かしら」
ゾフィーが首をかしげる。
「僕の姪が、懐妊したよ」
「あなたの姪ですって?」
「ルイーゼだ」
フランソワの姪。
ナポレオンがバーデン公国と縁組をするために急遽迎えた養女。彼女は、その養女の娘である。
1年ちょっと前に、ヴァーサ公と結婚した。
「まあ!」
ゾフィーの顔が、柔らかくほころんだ。
「
一息に、フランソワは言ってのけた。
ちらりとゾフィーを見た。
彼女の穏やかで優しい顔に、ほっとしたように、溜めていた息を吐き出した。
「どうか、健康な赤ちゃんが生まれますように……」(※2)
心から、ゾフィーは願った。
さまざまな記憶が、彼女の胸に蘇った。
彼女を見つめる、無遠慮な眼差し。ヴァーサ公の情熱的な求愛。二人きりで過ごした、濃密な時間。彼の抱擁を逃れた日……。
最後に、全ては、彼の妻の出産の無事と、赤児の健康への祈りへと収束された。
「だが、姪の子どもは、何と呼ぶのか。僕は、どんな顔をして、上官の子どもと接すればいいのか……赤子を褒めるのは、とても難しいんだ」
ぶつぶつと、フランソワがつぶやいている。
「フランツ・ヨーゼフと同じように、接すればいいんじゃなくて?」
ゾフィーは助言した。甥の生真面目な悩みが、おかしかった。
「何言ってるんだよ! ゾフィー、君にはわからないの? 彼は、特別だ。フランツ・ヨーゼフは、世界で一番、愛らしい子どもだよ!」
きっぱりと、フランソワが言ってのけた。
車寄せには、ライヒシュタット家の馬車が横付けされてた。
たくましい軍馬、コラーが、若い鹿毛のロウラーとともに、キャリッジに繋がれている。
「あら、コラーじゃない」
ゾフィーが嬉しげな声をあげる。しかつめらしく、フランソワは頷いた。
「うん。もうすぐ軍務を再開するからね。なるべくコラーを外に出すようにしてる」
ゾフィーには、甥は、申し分なく、健康そうに見えた。
甥の回復については、医師も、太鼓判を押している。
フランソワの主治医、マルファッティ医師は、ゾフィーの主治医でもある。ゾフィーは、彼を信頼していた。
鉱泉での塩水浴療養の結果、
その事実を、ゾフィーは、つい、最近、知った。最初にマルファッティが薦めた塩水療法(※鉱水などの塩水を飲む)は、全く、効果がなかったからだ。
イシュルでの夫婦での療養について、当時、
……「ディートリヒシュタイン先生の勧めだよ」
などと、冗談めかして話していた……。
二頭の馬の首筋を撫で、毛並みを確認し、フランソワは、満足そうに頷いた。
「どちらも、上々の仕上がりだ」
「それで、どこへ連れて行って下さるのかしら?」
そばに近寄り、ゾフィーが尋ねる。
「今日は、ちょっと、踊りたい気分じゃないんだ」
「奇遇ね! 私もよ!」
「ゾフィー、大丈夫かい?」
気遣わし気な眼差しを、フランソワがゾフィーに向けた。
「つまり、その、外出なんかして」
「大丈夫よ! 病気じゃないもの」
「だって……。
「普通に過ごすのが、ハプスブルク家のやり方だ。大いに楽しんできなさい、ですって」
「へえ。あの下品なおじさんが、珍しくまともなことを……」
フランソワが、目を丸くしている。
「
照れくさそうに笑った。
「いつまでも美しい私でいる為に」
ゾフィー大公妃は、幸福に光り輝いているように見えた。
*
脱ぎ捨てられた服を抱え、侍従は退出していった。埃を払い、形を整えるのだろう。
一人取り残されたモルは、しばらく、ぼうーっと、美しい大公妃の面影を脳裏に浮かべていた。
ゾフィー大公妃は、モルが賞讃する、数少ない女性の一人だ。
……ライヒシュタット公を、誰の前でも、贔屓してくれるから。
その点では、プリンスの祖母である、皇妃も同じだった。モルの中で、皇妃とゾフィー大公妃、バイエルン王室出身の異腹の姉妹は、同列に並んでいる。
……そういえば、大公妃に於かれては、二人目をご懐妊とか。
めでたいことだとモルは思った。フランツ・ヨーゼフ大公に続いて、二人目も男の子だったら、オーストリアも、いよいよ安泰というものだ。
……僕の息子たち。
唐突に、プリンスの言葉が耳元に甦った。
……まさか!
モルは、自分の考えを打ち消す。
ありえないことだと思った。
ゾフィー大公妃は明るく、あけっぴろげで、モルにも、フランクに接してくれた。到底、プリンスを誘惑するような悪い女には見えない。
プリンスは、ゾフィー大公妃の部屋を訪れると、1時間ほど、彼女の隣に座り、おしゃべりをしていく。
大抵は……というより、ほぼいつも……、フランツ・ヨーゼフ大公、及び、彼の養育係の
ゾフィー大公妃が、幼い息子をまいて、プリンスと二人きりで会うことは、不可能だ。
時には、大公妃の夫のF・カール大公も同席して、下品なジョークを飛ばしている。
明らかに、プリンスは、彼女に甘えていた。彼の様子は、まるで彼女の子どもか……モルは首を横に振った……弟のようだ。
恋人同士には、とても見えない。
それにしても。
手紙を届けただけで(それも、プロケシュ少佐への)、踊り子との仲が取り沙汰されてしまうプリンスだ。
……危ないなあ。
モルは危惧した。
もし、プリンスに隠し子がいるなどという噂が、ウィーンの街に流れたら?
あのプリンスに子どもがいると、つまり、特定の女性と関係を結んだと考えるだけで、モルは、胸がざわざわした。
……僕の息子たち。
プリンスの言葉は、なんだか、自分への牽制だったような気がする……。
モルは、首を横に降った。
なぜ、プリンスが、自分を牽制する必要があるというのだ?
……プロケシュ少佐にでも、何か言われたか。
プリンスと仲のいい少佐の顔を思い出し、モルは、いやな気がした。
・~・~・~・~・~・~・~・~
※1 画家、エドゥアルド・グルクが絵の具箱の中身をぶちまけたエピソードは、9章「フェルディナンド大公の記録画家」を、ご参照下さい。
※2
ゾフィーの願いにも関わらず、ルイーゼとヴァーサ公の最初の子どもは、生まれて4日後に亡くなってしまいます……。
ですが、その翌年(1933年)、二人の間には、女の子が生まれます。この子は無事に成長し、ザクセン王と結婚します。
にもかかわらず、ヴァーサ公夫婦の仲は悪かった言われ、1843年に離婚してしまいます……。
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