マンフレッドの苦悩
とある貴族の屋敷に、大勢の若者が集まっていた。
夜会で、バイロンの朗読会があったのだ。
その独立を擁護し、7年前にギリシャで客死したバイロンは、このウィーンでも、大きな人気を博していた。
「
……。
私だけの喜び、悲しみ、そして力!
これらが、私を、人間でなくしてしまったのだ。
私は、人間という、息をする肉塊どもには、何の共感も感じない。
私を取り囲んでいる土くれから製造された産物どもの只中にいて、
いったい誰に共感できよう。
……いや、たった一人だけいた。だが、彼女のことは、また後で語ろう。
つまり、男たちだ。
人間の男どもの考え方というものを、私は、ほんの少ししか、理解できなかった。
そして、
私の喜びは、荒野の中にあった。
……
」
朗読が終わった。集まった観客たちは、ワインを片手に、車座になって、語り合う。
「マンフレッドは、男性不信だったのだな」
痩せた青年がつぶやく。
「女とは、わかりあえていたんだ」
「いや、たった一人と言っていたぞ」
別の青年が口を出す。
「たった一人の女だけが、彼を理解してくれたんだ」
「誰だ、それは!」
首に紫のスカーフを巻いた青年が、憤慨したように叫んだ。
「我らがマンフレッドに、 そんな女がいたというのか?」
「アスターティのことは、すぐに語られるよ」
掠れた声が言った。
皆、驚いて声の主を見た。
熱くなって語らっているうちに、ここに、彼がいたことを、すっかり忘れていたのだ。
皇帝の孫が。
「あなたは、『マンフレッド』をお読みになったのですか、ライヒシュタット公?」
紫色のスカーフの青年が、尋ねた。話の流れで、まだ、居丈高な口調だ。
「今年の夏に」
「なら、教えて下さい。アスターティって誰です? いったいどんな女が、マンフレッドのことを、わかっていたっていうんです?」
「お前は、失恋したばかりだからなあ、フランツ」
友人が囃し立てた。はっとしたように、ライヒシュタット公に目をやった。
「いえ、今のは、こいつ……僕の友達のフランツのことでして。決して、あなたのことでは……まして皇帝陛下のことでもなく……」
「ウィーンでは、石を投げればフランツに当たりますものね」
ライヒシュタット公はにっこりと笑った。
一座は、なごやかな笑いに包まれた。
だが一人、紫のスカーフの青年だけは、不満げだった。なおも彼は言い募った。
「女に、男のことなんか、わかるものか!」
「その口のきき方は何だ! 殿下に失礼だぞ!」
ライヒシュタット公の隣で、グスタフ・ナイペルクが、鋭い声を発した。
「いいんだ、グスタフ」
ライヒシュタット公は、青年に向き合った。
「なら、私からあなたへ、質問しましょう。木の股から生まれたのではないあなたは、いったい、誰から生まれたのでしょう」
「……え?」
「幼いあなたを、愛し、育んだのは、誰ですか?」
「それは韜晦だ! 我々は今、恋人の話をしているのではなかったか!」
「おい!」
「フランツ!」
紫のスカーフの青年を制そうとするグスタフと友人を、ライヒシュタット公は、手をふって黙らせた。
「恋人。答えが出たじゃないですか。アスターティは……マンフレッドを最もよく理解していたのは、彼の恋人です」
「だが、」
「あなたの場合は、恋人ではなかったのです。間違った相手だった。違いますか?」
「……」
「恋人は、いずれは、あなたの子の母になります。彼女があなたを否定したのではない。やがて生まれてくるあなたの子どもが、彼女を否定し、遠ざけたんですよ」
赤いスカーフの青年の目が、みるみる潤んでいった。
友人が慌てて、ハンカチを渡してやる。
青年はそれをひったくり、鼻をかんだ。
そこへ、胸に赤い薔薇を差した男が、ふらふらと近づいてきた。
「ウィーンの3つの楽しみ、って、なぁーんだ?」
ワイングラスを掲げ、男は尋ねた。
「酒!」
叫んで、車座になっていた青年の一人が、グラスを受け取った。
「女!」
別の一人が言って、傍らの娘を抱き寄せる。
「そして、音楽!」
最後の一人が、持っていたビオラを奏で始めた。
一座は、賑やかに踊り始めた。
グスタフも、踊りに行った。
一人、ソファーに残ったフランソワの側に、黒服の男が近寄ってきた。
今日集まっているのは、貴族の、若い子弟が多かった。しかし、この男は、それほど若くはなさそうだった。かといって、年寄りというほどではない。
年齢不詳、というのが、最も的確な表現だ。
「随分立派になられましたな、ライヒシュタット公。正直、私は、あなたのことを、美しくハンサムなだけの青年だと思っていました」
フランソワの向かいの椅子に腰掛け、おもむろに黒服の男は話しかけた。
フランソワは答えず、首を傾げてみせた。
「警戒なさらず。私は、子どもの頃から、あなたのことを、よく知っています」
「国民の大多数がそうでしょうね」
柔らかな口調で、フランソワは返した。
「ほら、それ! ソフトで、そして知的だ。軍に入ってからの短期間で、貴方は、一段と成長されましたね。さっきの切り返しは、お見事でした」
「さっきの……、『マンフレッド』の話ですか?」
「そう。あの、血の気の多い青年を、よく、あそこまで追い込みましたね。質問を重ねて、相手を誘導するのが、貴方のやり方だ。私も、用心しましょう。」
「誘導?」
フランソワは、眉を上げた。
「僕は、ただ、バイロン卿の詩が好きなだけです。バイロンの詩は、僕の思考を導いてくれるような気がします」
「思考とは?」
「深く考え、また、科学などを学ぶことによって、自分の中に、自分の世界を築き上げることができたのなら、人は、静かな海に向けて航海に出ることができるでしょう」
「ふうむ。それにしても、バイロンねえ」
黒服の男は、ため息をついてみせた。
「青年というものは、どうして、他所の国の文化にばかり憧れるものなんでしょうね! ドイツにも、優れた文学はたくさんあるというのに」(※1)
「バイロン卿は、机の上だけではない、実際に行動する詩人でした。『マンフレッド』は、素晴らしい作品です」
「ですが、似ていると思いませんか? 『ファウスト』に。ファウストも、グレートヒェンを死なせてますよ。彼もまた、」
意味ありげに、黒服の男は、言葉を切った。にやりと笑って続けた。
「悪魔に魅入られた」
「……」
フランソワは答えなかった。
黒服の男は、肩を竦めた。
「これは失礼。自己紹介が、まだでした。高貴なお方というのは、どこの馬の骨ともわからぬ者とは、腹を割って、お話しにならぬものですからな。私は、メフィスト。メフィストフェレスです」
「なるほどね」
フランソワはにっこり微笑んだ。
「いや、本当に」
メフィストは、むきになった。
「私こそが、ファウストを堕落させた悪魔です。だから、是非、言わせたい。マンフレッドより、ファウスト博士のほうが優れていると」
「救済を……」
その声は、聞き取れぬほど小さな声だった。メフィストは首を傾げた。
「なんです?」
俯いたまま、フランソワはつぶやく。
「神への恐れは、人が、人生の夜をさまよう時の、力強い頼みとなるものです。困ったことに、今という時になって、僕は以前より、宗教というものに、慰めを見出すようになってきています」
「宗教なぞ……」
馬鹿にしきったように、メフィストは鼻を鳴らした。
「夜になったら、さまよわなければいいだけの話です」
フランソワは、顔を上げた。
青い瞳をまっすぐに、メフィストに向ける。
「マンフレッドは、僧院長の助けを斥けて死にました。その死に臨んで、宗教の救済を拒んだのです。ファウスト博士は、どうですか? 彼は、キリスト教徒として死んでいくのでしょうか?」
「もう少しお待ちなさない。
余裕有り気に言って、メフィストは足を組んだ。
フランソワは気のない素振りだった。
「では、僕のファウスト博士への評価も、お預けにしましょう」
少し考えてから、付け足した。
「完成が間に合えばいいのですが」(※2)
「……」
メフィストの目が、俄に赤く輝いた。
「貴方は、自殺をしようとしていますね?」
ずばり、切り込んだ。
質問ではない。
断定だった。
「……」
全くの無表情で、フランソワは、それを受け止めた。
・~・~・~・~・~・~・~・
※1 『ファウスト』と『マンフレッド』の類似点
『ファウスト』はゲーテの、『マンフレッド』はバイロンの戯曲です。どちらも、実際に」演じられることよりも、読まれることを目的とした、書斎劇といわれる作品です。
ゲーテの方が、バイロンより、40歳近く年上で、『ファウスト』一部は、『マンフレッド』より早く、世に出ました。
ファウスト博士とマンフレッドは、思索型のよく似た造形ですし、マンフレッドと亡き恋人アスターティの関係は、ファウスト博士とグレートヒェンのそれを思わせます。また、『マンフレッド』の精霊や魔女は、『ファウスト』の魔物やメフィストフェレスを連想させます。舞台設定も、似た箇所があります。
私でさえ気がついたくらいです。当然、ゲーテも知っていました。しかしゲーテは、どこからとってきたもの(言葉や内容)であっても、使い方が正しければそれでよい、と、是認しました。ゲーテは、若いバイロンを、応援していたそうです。
しかし、ゲーテの創造物たるメフィストフェレスにとっては、やはり、『ファウスト』一番(自分が一番!)、マンフレッドなんぼのもんじゃい! と思ったんじゃないでしょうか……。
※2 「完成が間に合えばいいのですが」
『ファウスト』は、2部構成です。
第一部は1808年、第二部はゲーテの死の翌年(1833年)の出版でした。ゲーテは、死の間際まで、第二部の原稿に、手を入れていたといいます。
※
ライヒシュタット公が、バイロンの作品を好きだったことは本当です。メフィストフェレスとの会話、「バイロンの詩は、僕の思考を導いてくれるような気がします」は、彼自身の言葉です。
(「深く考え~」で始まる会話文、及び「神への恐れは~」で始まる会話文も、ライヒシュタット公のものです)
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