賭け


 メフィストフェレスは続けた。

「声が出なくなったのは、体からの警告です。それなのに、貴方は、疲れがどんなにひどくても、軍務を優先させましたね。寒い日でも、体を酷使して訓練に励み、コレラが流行っても、最後まで、兵舎を離れようとしなかった」


「将校というものは、配下の兵士たちと、行動を共にすべきものです。自分の身に危険が迫ったからといって、持ち場を離れるようなことができるでしょうか。それでは、敵前逃亡と同じことです」


「これは、お強い」

揶揄するような声だった。

「ですが、貴方には、わかっていますね。軍務を続けたら、自分は死ぬと。それほどの疲労を抱え、なおかつ、任務を全うしようとする。それも、ただの訓練、または、パレードのお飾りに過ぎないというのに」


 青白かったフランソワの顔が、さらに一層、青ざめた。

 血の気の失せた唇を、フランソワは、強く噛み締めた。

 メフィストは、嘲った。


「失礼。ご不快でしたか? けれどそれが、皇帝祖父のくれた、任務です。母の国が与えた、未来なのです。それを知りつつ、貴方は、父親と同じ道を行こうとする。無理を重ねる。このままいったら、確実に、死ぬとわかっていて、弱った体に、鞭打っている」


 蛇のような目で、メフィストはじっと、フランソワを見つめた。

「これは、自殺だ」


「大勢の人が、組織が、国が、僕の命を狙っている。……らしい」

フランソワは言った。

「僕が死んだとしたら、そのうちの誰かが成功したに過ぎないということだ」



 そうだ、地球上にただ一人だけでも

 心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ

 そしてそれがどうしてもできなかった者は

 この輪から泣く泣く立ち去るがよい

(「歓喜の歌」:wikipediaより)



 不意に、メフィストフェレスが歌い出した。

 ダンスに興じていた者たちが、驚いたように、振り返る。


「ベートーヴェンだな!」

 誰かが、叫んで、笑い出した。

 ビオラ弾きの隣に、チェロを引きずった男がやってきて、並んだ。


 ビオラ弾きとチェリストは、どちらも眼鏡をかけていた。

 1、2、3。

 眼鏡の奥の目を見合わせ、呼吸を合わせる。

 広間に、《眼鏡のためのデュオ》が流れた。(※1)

 若者たちの間から、歓声が上がった。再び、ダンスが始まった。




 「いや、全く、楽しそうですな。限り在る命を精一杯、生きている。羨ましいことですよ。貴方は踊らないのですか、プリンス」

 黒服の男は、指を膝にぶつけて拍子を取っている。


「気が乗らない」

そっけなく、フランソワは答えた。


「そうでした。普通の若者が楽しむようなことをなさらないのが、貴方だ。ですが、踊らないのではない。踊れないのだ。踊ればたちどころに、激しい咳の発作に襲われ、あなたは喀血するでしょう。ええ、病は、相当に進んでいます。あなたは、間近に迫った死を予感している。しかしそれは、自ら招いた死だ」

「……」


 フランソワは答えなかった。

 男は、音楽に身を任せるのを止めた。


「どうです? 私と取引をしませんか?」

「取引? 自ら悪魔を名乗るお前とか?」

「悪魔だからこそですよ」


メフィストフェレスは、爆笑した。


Verweile doch, du bist so schön!

(時よ止まれ。お前は全く、美しい)(※2)

これが、ファウスト博士と私の、合言葉でした。けれど貴方とは……」


 意味ありげに、男は、言葉を切った。

 恐ろしいまでの真顔になって、続けた。


「もし、貴方が、最後の最後まで生きようとしたなら、貴方に、救済を与えましょう」

「救済?」

「ええ。このままでは、神とやらが、貴方に与えてくれそうにないシロモノです」

「神でさえ与えることのできないものを、お前が、僕にくれるというのか」


メフィストは、重々しく頷いた。


「ずうずうしくもキリスト教徒として死んだナポレオンと、同じ場所へ、貴方を導いてさしあげます」

「父を、侮辱するな!」


 フランソワの痩せた体が、怒りに震えた。

 少しもひるまず、メフィストは、不快な声で笑い出した。


「おやおや。あんな父親なのに。あなたの不運の元凶だというのに。……あなたが、ここまで真っ直ぐに育つとは、正直、私には、思いもよりませんでしたよ。あんな男の息子が。父の敵の国で。きっとあなたは、グレて、享楽のみを追い求め、どうしようもない堕落の道を行く。あるいは、野心に導かれるままに、とんでもない方向へ突っ走る。そう思っていました」

 

ぴたりと哄笑を止めた。


「けれど、私は間違っていた。あなたのその、汚れのなさ、清らかさは、どうだ!」

 惚れ惚れと、フランソワを見つめる。舌なめずりをした。

「全く、信じられない。あの男の息子が。敵意に包まれて育った、滅びた帝国の王子が!」


「僕を育ててくれたのは、敵意だけではない」


「ほら、それ!」

メフィストフェレスは、鋭く指摘した。

「その、素直さ、優しさだ! 全く、私は、あなたという人を、見誤りましたよ。だが、次は、間違えない。ねえ、プリンス。賭けをしましょう」

「賭け?」

「ええ、賭けです。いいですか。若い命に執着したなら、救済を。けれどもし、自ら死を招いたことを認めたなら」


 まなこが、赤く、ちかりと光った。


「貴方の、その気高い魂は、私のものです。好物なのですよ。純粋な、汚れのない魂というものが」


 熱い眼差しを、フランソワに向ける。

 フランソワは、ふい、とそっぽを向いた。


「救済など、いらない。僕は、父の名を辱めるつもりはない。魂? そんなものは、信じていない」


 メフィストは、薄い唇を、愉快そうに、綻ばせた。

「そう言うと思いましたよ。全く貴方は、思った通りの人だ! 思った通り、純潔で、高貴な……。魔王にするなど、もったいない。私は、貴方の魂を、食べたくて食べたくて、しようがない」


 その言葉を、フランソワは聞き逃さなかった。

「魔王? お前、アシュラの知り合いか?」

「知り合いも何も……ベートーヴェン亡き今、あれは、私の、使い走りのようなものです」

「違う。アシュラは、僕のしもべだ。ずっとそばにいると、自分でそう言った」


「しもべ!」

メフィストフェレスは吹き出した。

「これはまた、無能なしもべを雇われましたな。しかし、まあ、いいでしょう。私は、使い魔には困っていない。あれは、あなたのものだ。ただね」


 再びメフィストは、高笑いをした。

 抑えても抑えきれない硫黄の匂いが、その全身から漂ってきた。


「どうしても私は、貴方の魂を喰いたいんだ。つまり、私は、あなたのような美しい魂を諦めるつもりは、全く、ないということです」


 ぱちんと、メフィストが指を鳴らした。

 崩れるようにフランソワは、長椅子に沈み込んだ。





 モルは、客間の入り口で、直立していた。

 今夜は、終夜勤務になると覚悟してた。だから、宴の途中で、一人きりで出てきたプリンスに驚いた。

 酒に酔っているのだろうか。危なっかしい足取りで、ふらふらと歩いてくる。


「お帰りですか」

モルは尋ねた。

「うん」

プリンスは、ひどく眠そうだった。


 モルは素早く、上官の後ろに目を走らせた。

「グスタフ・ナイペルクは?」

「まだ踊ってる」


 モルは舌打ちした。

 グスタフは、とにかく、軍の付き人を、宮殿に置き去りにしようとする。

 スタンもハルトマンも、何度か、おいてけぼりを食わされそうになった。


 今夜も、危うくモルは、グスタフにまかれるところだった。グスタフは、裏通りに通暁している。一方、モルは、今まで外国駐留ばかりで、ウィーンにはあまりなじみがない。

 もちろん、グスタフ・ナイペルクごときにしてやられる軍人3名ではない。


 だが、グスタフは、自分たちをやりこめるつもりなのだ。それならせめて、自分たちが入り込めない場所では、プリンスにしっかりついていてほしい……。

 憤りをこめて、モルは思った。


 眠そうなプリンスを、モルは、馬車に導いた。足取りは危なっかしく、半分、眠っているようだった。


 座席に深々と身を沈めると、プリンスは、目を閉じた。

「今夜はお前でよかった、モル」


 ……幻聴だろうか。

 モルは思った。








・~・~・~・~・~・~・~・


※1 「眼鏡のためのデュオ」


ベートーヴェンが、友人のビオラ奏者とチェロ奏者のために作曲した、オブリガートです。

ビオラ奏者とチェロ奏者が、2人とも眼鏡を着けていたことから、このタイトルになったそうです。


オブリガートとは、アドリブ(助奏)の逆です。(必須の・不可欠の演奏、くらいの意味でしょうか)

この曲には、ベートーヴェンの言葉で「演奏者に眼鏡が必須」と、記されています。


10分ほどの、ユーモラスな曲です。

ユーチューブに上がっていました。ご参考までに。

https://www.youtube.com/watch?v=JrLjTRBdUc0




※2 時代よ止まれ。お前は、全く、美しい



〜〜【『ファウスト』ネタバレ有りです!】〜〜







『ファウスト』第一部で、ファウストは、もし自分がこの言葉を発したら、自分の魂はメフィストフェレスにあげる、と約束しました。

ところが、第二部の最後の方で、目の見えなくなったファウストは、自分の墓穴を掘る音を、国土再建の音と勘違いし、この言葉を発してしまいます。そして彼は、死んでしまいます……。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る