妖婦アルマッシィ
数日後。
昼食が済むと、案の定、プリンスは、ソファーに凭れかかり、目を閉じた。
……ゆうべも遅かったと、スタンが言っていた。
……自分たちは、交代制だからいい。
軍からの付き人、モルは思った。
……だが、毎晩のように出掛けていたら、昼間、眠くなるのも無理はない。
プリンスを部屋に残し、モルは、控えの間に籠もった。
モルは、ディートリヒシュタイン伯爵から、ライヒシュタット家の家政を引き継いだ。仕事は、いくらでもある。
財政のチェックをし、支払いを回し、そのほか幾つかの仕事を片付けた。
最後に、山のような手紙を、選り分け始めた。
手紙の検閲もまた、家庭教師から引き継いだ任務だ。
プリンスに、不審な人物……素性の知れない人物……が、接触しないよう、気を配るのは、皇帝から命じられた仕事だ。
とはいえ、気の重いことに代わりはなかった。
なにしろ、届けられる手紙の殆どが、恋文なのだ。
最初の数行をちらっと斜め読みしただけで、モルは、箱の中に投げ捨てた。箱にはもう、かなりの用箋が、堆積している。
香料を焚きしめてあるものもあって、それらが混ざり合い、異様な臭気が立ち昇ってくる。
モルは、箱を持ち上げた。プリンス宛ての恋文が、縁まで詰まっている。このまま、焼却場に持ち込んで、燃やしてしまうつもりだった。
今日はもう、これで非番だ。親友のザンニーニと会う約束がある。独身のモルは、家で待っている人もいない。非番の夜は、友達と遊び回るのが楽しみだった。
ライヒシュタット公の付き人に指名され、モルは、久しぶりで、ウィーンに帰ってきた。男爵位を持つ彼は、社交に忙しかった。古くからの友人や、家族の知り合いなど、貴族階級の人たちとの社交が復活したのだ。
ザンニーニは、貴族ではない。だが、古くからの、大切な友達だ。モルと同じく、大尉である。彼の軽妙な語り口は、任務でささくれたモルの気持ちを、いつだって和らげてくれる。大切な友達との楽しい時間を思い、モルの頬が緩んだ。
その時、読み忘れていた1枚が、ひらひらと舞い落ちた。
なんだか、無愛想な手紙だ。普通の事務用の便箋に走り書きしてある。
拾い上げて読み始め、モルの手が、ぶるぶると震え始めた。
グスタフ・ナイペルクからの手紙だった。
この頃、監視が厳しくて、プリンスに近寄れないから、手紙を書いたのだろう。
……なんと、グスタフめ。逢引きの時間と場所を指定してきているぞ。
……それもあの、ピザーニ伯爵夫人アルマッシィと。
この女性は、チェルケシュ人だ。チェルケシュ人は、北西コーカサスに住む民族である。19世紀、ロシアの侵略で、多くのチェルケシュ人が、故郷を失っていた。
家族をなくしたアルマッシィは、ジプシーの群れの中にいた。まだ子どもだった頃、その美貌を、ピザーニ伯爵に見出され、買い取られた。
長ずるに及んで、伯爵の妻となった。
……
モルの手の震えがひどくなった。
彼は、グスタフが、女優のペシェを紹介したことも、把握していた。だが、あの時は、気がつくのが遅すぎた。もはや、モルやハルトマンでは、二人が会うのを、阻止することができなかった。
幸い、ペシェの件は、プリンス自身がぶち壊してくれたのだが……。
……全く、次から次へと。
……グスタフ・ナイペルク。あの、
手紙で指定されてきた日付が、ふと、目に入った。
今日だった。
胸騒ぎを感じた。
慌てて、プリンスの寝室を覗いた。
傾き始めた陽の差し込む部屋に、主の姿はなかった。
*
寝室の扉が、静かに開いた。
中から、しどけない服装の、小柄な女性が出てきた。栗色に近い金髪、すっきりした目鼻立ちの、大変な美女だ。
ドイツ人ではない。白い肌は、もっと北方の出身であることを表していた。
ピザーニ伯爵夫人アルマッシィだ。
「うまくいったか?」
控えの間で座っていた青年が立ち上った。黒い目黒髪の……アシュラだ。
美女は、つんと上を向いた。
「今まで私に、殿方のご期待に添えない夜があったとでも?」
「それで、殿下は?」
「眠っておられるわ。ぐっすりとね」
「よくやった、アルマッシィ!」
アシュラは立ち上がり、アルマッシィの横をすり抜けた。
ハーブの芳香が、濃厚に香った。
寝室の扉を細めに開く。
柔らかい絹の布団に埋もれるようにして、フランソワが眠っていた。
そっと、アシュラは、扉を閉めた。
「ここずっと、まともに眠れないでいらしたのだ。横になると咳が出て。昼間にうとうとされているようだが、安眠とは程遠い」
睡眠不足が頂点に達すると、彼は、気絶するように眠りに落ちる。だが、短い時間で、咳や高熱の発作で目が覚める。
椅子に戻ると、アシュラは尋ねた。
「いったいどうやって、彼を眠らせたんだ?」
「ラベンダーとカモミール、それに、ジプシーの秘薬を少々」
香り高いお茶をアシュラの前に配し、美女……アルマッシィは答えた。
「ジプシーの秘薬?」
チェルケシュ人の彼女は、ロシアに故郷を追われ、ジプシーに育てられた。
アルマッシィは、お茶のカップを、口元から離した。
「サテュリオン」
「サテュリオン?」
「またの名を、魔女の軟膏。あなたのお茶にも混ざってるわ」
思わずアシュラは、口に含んでいたお茶を、吹き出した。
「おい! 魔女の軟膏て、それ、媚薬じゃないか! まさかそんなものを、殿下に、つか、このお茶!?」
お茶が喉に詰まった。
苦しそうに胸をかきむしるアシュラを、アルマッシィは、面白そうに眺めた。
「冗談よ。そのお茶にも何も入っていないわ。私、サテュリオンの作り方なんて、知らないし。魔女の軟膏もね」
「……」
無言で、アシュラは、アルマッシィを睨んだ。
「だいたい、約束違反をしたのは、そっちよ? 今夜は、グスタフが彼を連れてくる筈だったでしょ?」
「グスタフは、都合が悪くなった」
プリンスの周りは、軍の付き人がぴったりと詰めている。グスタフごときが割り込める隙はない。
それで、付き人達の交代の時間を見計らって、アシュラが、プリンスを連れ出したのだ。
アルマッシィが、薄いピンク色に塗られた口を尖らせた。
「グスタフは、彼を自由にしていいって言ったわ」
「自由?」
「ええ。楽しいことをうんと教えてあげて、彼を、虜にしてほしいって」
……グスタフめ。
アシュラは思った。
……やりすぎだろ、それは。
グスタフの後ろに、誰がいるかも、だいたい、予想がついた。
モーリツ・エステルハージだ。
……全く、あいつらの「献身」ときたら!
「いや、俺だって、無粋なことは言いたくないよ?」
アシュラが言うと、アルマッシィは、頬を膨らませた。
「無粋よ! プリンスに手を出すな、なんて!」
「しょうがないだろ。時間がないんだ。もうすぐ、アルゴスがここへやってくる」
「アルゴス?」
「付き人だよ。蛇のようにしつこいんだ」
「そんなの、知らない! おまけに彼は、ベッドに横になった途端、眠っちゃうし」
「疲れていらしたんだ」
しみじみと、アシュラは言った。
「眠らなければ、疲れは取れない。だから俺は、彼をここに連れてきた」
ピザーニ伯爵夫人アルマッシィが、ジプシーの秘薬を用いて、不眠を改善させているという話は、ごく限られた人たちの間で、有名だった。
限られた人しか知らないのは、彼女が、別の方面で有名だったからだ。
淫蕩で、女王蜘蛛のように、巣を張り巡らせ、これと狙った獲物は、確実に仕留めることで。実際、彼女の夫(ジプシーから買い取ってからの、育ての親でもある)である、ピザーニ伯爵は、その最初の犠牲者だった。
アシュラは、フランソワを、少しでも眠らせたいと思った。そうすれば、あのひどい疲れも取れ、体力も回復するのではないか。熱や咳だって、治まるかもしれない!
そう思って、グスタフの計画に乗った。幸いアシュラは、アルマッシィと顔見知りだった。
「なあ、アルマッシィ。その眠り薬の作り方を、教えてくれないか?」
「無理よ。これは、
その時、玄関の方で、人の話し声がした。
途方に暮れた小間使いの、制する声がする。
荒々しい足音が、迫ってきた。軍靴の音だ。
「わ! どうしよう。モルだ!」
思わずアシュラは腰を浮かせた。
「プリンスを取り返しに来たんだ」
「私に任せて」
アルマッシィが不敵に微笑んだ。
目顔で、アシュラに、寝室に隠れろと合図する。
慌てて、けれど、物音を立てぬよう、細心の注意を払い、アシュラは寝室に逃げ込んだ。
「ここに、ライヒシュタット公が来ているな!」
部屋に踏み込んだモルは、女主人の姿に目に止めた。
狼狽した。
首周りを大きく抜いたドレス姿は、ほとんど、胸が見えそうだったからだ。
「あら」
肩口に手をやり、アルマッシィは、妖艶に微笑んだ。
「今夜のお客は、あなただったのね」
モルは、全く動じなかった。
「誤魔化そうとしても無駄だぞ。ここに、ライヒシュタット公が来ているはずだ」
「ライヒシュタット公? いらっしゃらないわよ。もし、いらしてたら、今頃私、ここにいないわ。彼と二人で、とっくに、寝室に、」
「黙れ!」
モルは叫んだ。
仁王立ちになり、辺りを見渡す。ふと、鼻を蠢かせた。
「なんだ、この匂いは?」
「決まってるじゃない。媚薬よ。あなたの為の」
「媚薬?」
モルの顔が、嫌悪に歪んだ。
アルマッシィは立ち上がった。
モルに近づき、その肩に両手を回す。
「女を待たせるなんて、悪い人ね」
「何を言ってる? おい、こら、何をするんだ!」
「乱暴していいのは、ベッドの中だけよ」
焦って逃げようとするモルにしがみついた。
強引に、後頭部に両手を回す。
背伸びをし、両手に力を込めた。モルの顔を、ぐいと、引きつける。
唇に、キスをした。
「!」
モルの顔が蒼白になった。
吐きそうな顔をしている。
必死で突き飛ばそうとするのだが、密着しすぎて、できない。
アルマッシィの唇が、わずかに開いた。
「! ! !」
次の瞬間、モルの全身から、力が抜けた。
静かに、彼は、崩折れた。
寝室のドアが開いた。
「どうなることかと思ったよ」
アシュラが出てきた。
「そして、俺は、まるで間男の気分だった」
「光栄に思いなさいよ」
アルマッシィは、ソファーに凭れるようにして、意識を失っているモルを見下ろした。
「ちょっと、薬が効きすぎちゃったみたいね」
「睡眠剤だな?」
「ええ」
キスをした時、モルの口の中に流し込んだのだ。
「それとね。彼の声に、ちょっと仕掛けをしたの。ジプシーの魔法でね!」
「仕掛け?」
「プリンスを眠らせてあげたいんでしょ? これから、この軍人さんの声を聞いていると、彼はきっと、眠くなるわよ」
「それは……困るんじゃないか?」
モルは、フランソワの部下だ。
部下の声を聞いて眠くなるようでは、まずいのではないかと、アシュラは思った。
アルマッシィは、肩を竦めた。
「長く聞いてなきゃ、大丈夫よ。私だって、プリンスが好きなのよ? 彼の為に、何かしてあげたかったの。眠れないなんて、お気の毒だわ!」
「……」
なんとか彼を眠らせてあげたいという思いは、アシュラも同じだった。
だが、モルの声を聞きながら……つまり、彼がそばにいて、安らかに、眠れるだろうか……。
アルマッシィが、寝室の方を窺った。
「プリンスは?」
「もぞもぞ動いてた。もうすぐ目が覚める。……なあ。それ、どうするつもりだ?」
床に倒れたモルを、アシュラは目顔で指し示した。不安そうに尋ねる。
ピンクの唇が、にたりと笑った。
「プリンスを食べ損なっちゃったから、かわりに、この人を頂こうかしら」
「いや、それは、無理だと思うよ」
「無理? なぜ?」
「彼は、かたぶつだから」
モルに、女性との噂が、ひとつもないことを、アシュラは知っていた。それどころか、せっかくいい縁談が持ち込まれても、会いもしないで断っている。どうやら彼は、頑固な独身主義者らしい。
「まあ! 落としがいのあること」
「あんまりからかってやるなよ。かわいそうだ」
アシュラに言われ、アルマッシィは鼻を鳴らした。
「そもそもあなたが、私からプリンスを取り上げるからでしょ? せっかく彼が、私の巣に引っかかったのに」
「引っ掛けたのは、グスタフだ」
「少なくとも私は、時間を稼いであげたのよ? お礼を言いなさいよ」
「ありがとう」
素直に、アシュラは、礼を述べた。
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