束の間の軍務再開



 翌朝。


「やあ、モル。精が出るな」

 ハルトマンが出勤してきた。

 モルの、強張った顔に気がついた。

「どうした?」


「我々には、これ以上、プリンスの監視を強化することはできません。彼は、皇族だ。彼が行くと言ったら、究極のところ、我々には、止めることなんてできやしないんですから!」

 いきなり、モルは、上官にねじ込んだ。

「見て下さい、これ! 女衒グスタフ・ナイペルクからの誘惑です」

「女衒って……」


 モルのあまりの剣幕に当惑しつつ、ハルトマンは紙片を受け取った。

 ピザーニ伯爵夫人アルマッシィとの、逢引の時間を指定する、手紙だった。


 読み終わり、ハルトマンは、首を横に振った。

「アルマッシィは、まずいな」

「まずいですよ!」


 モルの頭に血が登った。

 怒りをこめて、モルは、今朝のことを思い出した。


 早朝、目を覚ました彼は、自分が下着姿であることに気がついた。

 傍らには、同じく裸同然の女性が寝ていた。

 悲鳴を上げて、モルは飛び起きた。


 ……「あなたはとてもなのね。でも、愉しかったわよ」


 アルマッシィの哄笑を背に、床に散らばった軍服を拾い上げる。下着姿のまま、死に物狂いで、家の外へ走り出た……。


 もちろんモルには、自分が女性ごときに手を出したりしないことはわかっていた。

 しかしこれは、あんまりな仕打ちだと思った。


 ……あの、グスタフ・ナイペルクめ!


 全ては、プリンスの悪友、グスタフの仕業だと、モルは思った。

 もちろん、プリンスも了承してのことだろう。


 やっとのことで城に帰り着くと、プリンスは、涼しい顔で、朝食を採っていた。ゆうべはよく眠れたという。そして、すました顔で、お前もよく眠れたか? と尋ねた。

 ……。



 憤怒に震えながら、モルは言った。

「いっそのこと、マルファッティ医師せんせいに頼んで、プリンスの夜間外出禁止命令を出してもらいましょう」

「だめだよ。そのマルファッティ医師せんせいの、処方だから。夜、ダンスホールや劇場に行くことは。プリンスの無気力ぶりを改善させる為には、夜間の社交が、有効なんだそうだ」

「問題は、グスタフです。彼が、プリンスを、ウィーンの悪所に連れて行くんです」



 前に、グスタフに強引に連れて行かれたダンスホールも、それはそれは、ひどい場所だった。まさに、ウィーンの混沌、無秩序の極地だった。

 露出過多の女性に抱きつかれ、あの時も、モルは、慌てて逃げ出した……。


 帝国軍人たる自分が!

 女性に抱きつかれて逃げ出すなんて!

 それも、二度も!

 激怒のあまり、目の前が、真っ白になった。


 もちろん、モルらの尾行がついているから、グスタフもプリンスも、羽目を外すことはできない。

 だが、つい数日前も、グスタフは、プリンスをほたらかして、自分が踊り狂っていたではないか。

 あれでは、怪しい人物が、プリンスに接触し放題だ。



 モルは叫んだ。

「我々は軍人だ。色恋沙汰への介入は、任務ではありません!」

「本当に、困ったことだな」

「だいたい、夜遅くまで遊び歩いているから、昼間、眠いんです。今朝はたまたま、ちゃんと起きられたけど、いつも、ずいぶん遅くまで寝ていらっしゃるし」

「そうだよなあ」


 ハルトマンには、どうしていいのか、わからなかった。軍人でしかないこの上官に、ウィーンの若者を監視することは、あまりに荷が重すぎた。


 モルは、眦を決した。

「もはや限界です。仲介者グスタフを、なんとかしましょう」

「ルードヴィヒ大公に相談してみよう」

思い切って、ハルトマンは言った。



 ルードヴィヒ大公は、皇帝の下の弟だ。宮廷の皇族たちの管理・監督をしている。

 以前、プリンスが、軍人仲間を招いて、大騒ぎをした時も、彼を叱責し、皇帝の食卓での食事を義務付けたのは、この大公だ。

 40代も後半のルードヴィヒ大公は、未だに独り身だった。暗い表情で、滅多に笑わないこの大公が、ハルトマンは苦手だった。







 連隊長のいないハンガリー第60連隊に暫定的に所属してたグスタフ・ナイペルクに、辞令が下りた。

 ナポリへの派遣命令だった。







 プロケシュもまた、ボローニャへ帰っていった。


 出発前、最後に会った時、プリンスはプロケシュに、自分の名が刻まれた剣を与えた。


 受け取るプロケシュの手が、震えた。

「あなたは、いつだって、私を信じて下さって……心から、お礼を申し上げます」

 グスタフ・ナイペルクが、メッテルニヒと通じていると注進しても(※1)、プリンスは、プロケシュを信じてくれた……。



「当たり前です。僕は、あなたをよく知っている。あなたの心は、僕のと同じだ。二人の間には、少しの疑いも入り込む余地はありません」


 プロケシュに迷いはなかった。

 もし、プリンスか宰相か、選ばねばならない時が来たら、自分は、間違いなく、プリンスを選ぶ……。


「時は、必ず訪れます。ですから、プリンス。私がいない間、決して、一人で無謀な行動や冒険的な探検は、なさらないで下さい」

「ええ、わかっています」


 別れの時が近づいていた。プリンスの青い目に、深い悲しみが浮かんだ。彼は立ち上がり、プロケシュをきつく抱きしめた。


「プロケシュ少佐。どうかお願いですから、僕の勇敢な戦士でいてください。いつだって。どこにいたって」


 その身体は、ひどく熱かった。だがプロケシュには、それが熱のせいだというは、わからなかった。

 彼は、感極まっていた。



 これが、プリンスとの……自分を慕ってくれた、忠実な年下の友との、最後の別れになろうとは、プロケシュは、想像だにしなかった。




 ……可能な限り早く戻ってこよう。

 馬の背に揺られながら、プロケシュは思った。

 イタリアの話を、進めなければならない。

 ……ナポリのエステルハージと連絡を取ってみよう。

 ……それから、ウィーンの同僚に頼んで、サレルノ公の意中も探るのだ。


 次はいつ、ウィーンへ来れそうか。

 ナポリへの旅券も用意しなければ。

 プロケシュは、早くも算段し始めた。







 「グスタフが、ナポリへ旅立ちましたよ」

ソファーの傍らに膝をつき、アシュラが囁いた。

「プロケシュ少佐も、ボローニャへ帰っちゃったし。寂しくなりますね」

「うん」

「グスタフのやつ、泣いてましたよ。あなたから離れるのがいやだって」

「僕は、ナポリへ行く。また、すぐ会える」

「そうですね……」

「……寒い」


 囁くような呻きが聞こえた。

 アシュラは、毛皮のコートを運んできた。ソファーに横たわったフランソワの上に重ねる。


「やっぱり、夜の外出は、体に毒です。その上、皇帝と、4回も狩りに行かれたと、聞きました」

「大丈夫。体調は、万全だ……」


 熱があるのか。

 赤い顔のまま、フランソワは、うつらうつら、し始めた。




 ……少し、休まれるがいい。

 アシュラが立ち去ろうとした時だった。

 青い瞳が、ぽっかりと開いた。

「アシュラ。僕は、魔王になる」

「殿下!」

「僕は、神に逆らう、魔王になる」

 力尽きたように、その瞳が閉じられた。




 足音を立てずに、アシュラは部屋を出た。

「しばらくの間、誰も部屋に入れるな」

モルの顔を作り、警護の衛兵に、命じた。







 1832年が明けた。

 ジーゲンタール将軍が亡くなった。

 1月16日。葬儀が行われた。軍人の葬儀なので、軍の隊列が、護送についた。


 ライヒシュタット公は、彼の大隊を率いて、人々の前に現れた。

 白い軍服、胸に2つの勲章(※2)が、燦然と輝く。腰には、有名な、ナポレオンの剣(※3)を、帯びている。

 馬上の司令官は、傲然と頭をもたげ、背筋を真っ直ぐに伸ばしていた。しかし、その姿は、ひどく痩せたように、公衆の目に映った。


 酷寒の日だった。冷たい風が、骨の髄まで凍らせるようだ。


 隊列は、ヨーゼフ広場に到着した。

 先頭の司令官が、湾曲したサーベルを抜いた。

 頭上にそれを掲げ、号令をかけた。

「捧げつつ!」


 だが、その声は掠れ、誰の耳にも届かなかった。


「捧げ銃!」

 もう一度、彼は叫んだ。


 叫ぼうとした。

 自分の耳にさえ聞こえない声で、何度も叫び……。


 彼は、後ろに控えていた将校を振り返った。

 青い目に、涙が、いっぱいに溜まっていた。

 同僚の将校に指揮権を委ね、ライヒシュタット公は、広場を後にした。



 高熱に震える体を引きずるようにして、フランソワは、宮殿ホーフブルクに戻ってきた。


 何よりも大切な軍務を、自ら放棄し、彼は、ひどい興奮状態にあった。

 彼には、もはや隠し通すことができなかった。

 自分が重篤な病であることを。

 ……。









゚*.。.*゚*.。.*゚*.。.*゚*.。.*


※1 7章「それを僕は献身と呼ぶ」、ご参照下さい。



※2 2つの勲章

生まれた時に祖父から授けられた、聖シュテファン勲章と、母の国、パルマから授けられたセント・ジョージ勲章です。

軍服に2つ、勲章を帯びている肖像画が多いので、ご覧になったら、あ、あれだな、と思い出して頂けると嬉しいです。



※3 有名なナポレオンの剣

17歳で、初めて昇進した時(軍曹から大尉に昇格)に、母のマリー・ルイーゼから貰いました。ナポレオンがエジプトから持ち帰ったもので、刃が湾曲していました。

(5章「初めての昇進」)






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