悪意ある誤診
再び、フランソワの熱は治まった。咳も、ずっと減った。
彼は、回復の途上にあると、みなが思った。
だが、その顔色は悪く、体もやせ細っていた。
「カタルの影響が、少し残っているのでしょう。咳は、普通の咳です。冬から春への、ちょうど、季節の変わり目です。こういう時期は、不調に陥りやすいのです」
医師のマルファッティは説明した。
マルファッティは、劇場にいくことも、散歩も、そして、乗馬さえも許可した。
ただ、軍務だけは禁じた。だがそれも、夏の終わり頃には復帰できる含みをもたせた。
「
私の前にある未来を考えると、健康を取り戻すことは、人類に対する神聖な義務だと感じます。
」
ライヒシュタット公は、パルマの母親へ、こう書き送っている。
*
もはや我慢できないと、アシュラは思った。
ヤブもここまで来ると、犯罪だ。
彼は、ウィーン市内の
*
マルファッティは、目の前の若者を、しげしげと眺めた。
「結核? 君は、プリンスが結核だというのかね?」
「街では、みんな言ってますよ」
青年は、肩を竦めた。
「長引く発熱。咳。ひどい疲れ。外で彼に接した人間は、みんな、気がついてます。軍の兵士たちも、ダンスホールや劇場の客たちも」
困った事態だった。
マルファッティは、プリンスが結核であることを隠すよう、指示されている。
宰相のメッテルニヒから。
「医者である私が、結核ではないと、診断してもかね?」
「フランスのメゾン大使も、プリンスは胸の病だと、本国に伝えたそうですよ?」
「なんだと? メゾン大使が?」
国際的に話題になっているのかと、マルファッティは憂えた。
それでは、メッテルニヒの命じられるままに、結核の診断を控えても、何の意味もないではないか。
「まあ、メゾン大使の場合は、胸の病の原因は、プリンスの放蕩にあると思いこんでいるようですが」
「放蕩?」
「いずれにしろ、彼に夜遊びを勧めたのは、あなたです、マルファッティ
ぴしゃりと決めつけられ、マルファッティは、どきりとした。
眼の前の青年は、にやりと笑った。
「先生。気をつけた方がいいですよ。このまま、病名を隠し続けると、ウィーン中で、先生は、ヤブ医者だと噂されますよ」
「……」
それは、全く、思ってもいないことだった。
この頃、宮殿に通うことが多かったので、町の噂までは、気が回らなかったのだ。
マルファッティは、町医者だ。
ヤブ医者だなどと評判が立ったら、大変なことになる。
「なにせ、あなたには、前科がありますからね」
さらに付け加え、眼の前の男が、不遜に笑った。
「前科?」
マルファッティは気色ばんだ。
「おとなしく聞いていれば、モル男爵。あまりに失礼でないかね?」
「モル?」
相手は嘲笑った。
「俺は、モルではない」
「?」
マルファッティは驚いて、相手の顔を見た。
黒い髪。黒い瞳。
確かにモルに似ている。だが、このふてぶてしさは……。
「俺の顔を見忘れたか、マルファッティ」
「……」
モルではない。
だが、マルファッティは、この男を知っている。
知っているはずなのだが……。
彼の次の言葉は、最後の審判の鐘の音のように、マルファッティの耳を聾した。
「あんたは、ベートーヴェンを殺した。肝臓の悪い彼に果実酒を勧めた。やがて、酒に溺れると、知りながら!」
「そうか。お前は、ベートーヴェンの家にいた、あの、小僧……」
マルファッティは思い出した。
楽聖の家に出入りしていた、あの、小柄な少年……。
「アシュラだ。アシュラ・シャイタン」
黒髪の青年が名乗った。
「だが、アシュラ」
ざわざわする心を、マルファッティは、懸命に鎮めた。
「ベートーヴェンは、私の誤診のせいで死んだのではない。担当医は、ヴァブルフ医師で……」
「そんなことはどうだっていいんだよ、先生」
やさぐれた口調で、アシュラは言った。
やはりこの男は、モルではない。
「問題は、あんたが誤診したってことだ。ライヒシュタット公が肺病なのに、肝臓やら肌やら、カタルやら、間違った治療ばかり続けて、彼の症状を悪化させた。そのあんたには、かつて、ベートーヴェンに酒を勧め、彼を、死に向かわせた過去がある」
「いや、ポンス酒のシャーベットにより、ベートーヴェンの精神は上向いたと、私は彼の弟子達に感謝され、」
「ヴァブルフ医師はそうは思っていない。あんたの弟子の、ベルトリーニもね」
「ベルトリーニ?」
彼は、マルファッティの助手として、ベートーヴェンの治療に当たっていた。マルファッティが楽聖とたもとを分かつと、後を継いで、診察に通った。
(※ 6章「ベートーヴェンの主治医」参照下さい)
「去年、ベルトリーニは、コレラに罹った。死を覚悟した彼は、保管していたベートーヴェンの手紙を全て処分するよう、家族に、指示を出した」
「手紙は、処分されたのだろう?」
震える声で、マルファッティは尋ねた。
アシュラは、唇の端を上げた。
「ああ。だが、ベルトリーニは死ななかった。俺は、彼の話を聞いたよ」
「ベルトリーニが、そう言ったんだな。私が、故意に、ベートーヴェンに……」
「やっぱりそうなんだな!」
冷たく、だが激しい声が、落ちた。
「やっぱりあんた、悪くなるとわかっていて、酒を勧めたな。殺意を持って、ベートーヴェンに、酒を飲ませたんだ!」
「くそっ! 謀ったな!」
マルファッティは、蒼白な顔で、アシュラを睨みつけた。
アシュラは、動じなかった。
怒りに燃える眼差しで、マルファッティを見据える。
「そして今また、ライヒシュタット公に、誤診を下している。それも、故意に、だ。本来の病、結核を伏せ、罹ってもいない病の治療で、彼を苦しめている」
「宰相の指示だ!」
たまりかね、マルファッティは口走った。
「結核の病名を伏せろというのは、宰相の指示なんだ。私はそれに、従っただけだ」
「メッテルニヒの?」
驚きの色が、アシュラの顔に浮かんだ。
「なぜ?」
「なにしろ、ナポレオンの息子だ。高度に政治的な判断があるんだそうだ」
「政治的判断? 彼の命を、何だと思っているんだ。許さない! そんなもの!」
「私は、宰相の指示に従っただけだ」
「誤診は誤診だ。あんたには、医師の良心というものがないのか!」
「……」
ないと言い切ることは、さすがに、マルファッティにも、できなかった。
プリンスには、個人的な恨みはなにもない。
いや、その優雅さと、知性には、感服させられることが多い。
マルファッティが主治医となったばかりの頃、プリンスは、彼の「治療」に忠実だった。熱心に塩風呂に入り、ミルクのセルツァー水割りを、毎日、飲み続けていた。
軍務を続けるために、ぜひとも、声が出るようになりたかったのだ。
全て、症状に対する、対処的な治療だ。根本的な結核の治療は、なにひとつ、行っていない。
だが、ここへきてマルファッティは、プリンスを死なせるわけにはいかなくなった。ころころ変わるメッテルニヒの指示だ。フランスの、アンリ5世に対する牽制のためだと、宰相は言った。
それなのに、プリンスは、マルファッティの言うことをまるで聞かなくなってしまった。
間違った診断の元、何の効果もない「治療」を受け続けているうちに、彼の信頼は、失われつつあった。
いや、すでに、失われてしまったのだろう。
結核の唯一の治療法は、体を休ませることだ。それなのに、まるで何かに憑かれたように、外出してばかりいる。
治ったと言い張り、マルファッティから、軍務への復帰許可をもぎ取った。凍えるほど寒い日に、葬儀パレードの指揮を執り……。
アシュラの全身から、怒りが発せられた。
「このまま『治療』を続けても、ライヒシュタット公は回復しない。悪くなる一方だ」
マルファッティも、負けてはいなかった。
「結核には、決定的な治療法がない。体を安め、可能なら、転地療養をさせるしか……。それをあのプリンスは、じっとベッドに留まっていることができないんだ!」
「夜間の外出を許したのはあんた自身じゃないか! 軍務復帰許可を出したのだって、」
「プリンスが望むからだ! 彼が望んだんだよ! 軍務に復帰したいって!」
「あんたは医者だろう? そもそもあんたが見当違いの治療ばかりしてきたせいだ。だから、プリンスは、あんたを信じられなくなった。全部、あんたが悪い」
「いいや。プリンスのせいだ。無理ばかり重ねて……。彼自らが、自分の体を痛めつけてきたんだ!」
「言うに事書いて、なんてことを! 勝手なことをほざくんじゃない!」
アシュラは怒り狂った。
「患者の無理を諌めるのが、医者の役割だろうが!」
「そんなこと、皇族相手にできるものか!」
マルファッティは喚いた。
「おまけに私には、結核だと診断することさえ、許されていないんだ!」
アシュラが、ぐっと顔を近づけた。
「彼を、ナポリに転地させるよう、皇帝に進言しろ」
「ナポリ?」
「ナポリだ。暖かいイタリア半島の南端に転地させる。それしか、彼が治癒する方法はないと、皇帝に言うんだ」
「だが、宰相が……」
「メッテルニヒに口を挟ませるな。もし、プリンスをナポリにやることに失敗したら……」
アシュラは薄く笑った。
「ウィーン中が、あんたの誤診を知ることになる。誤診と、殺意を持って、
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