悪意ある誤診


 再び、フランソワの熱は治まった。咳も、ずっと減った。

 彼は、回復の途上にあると、みなが思った。

 だが、その顔色は悪く、体もやせ細っていた。


「カタルの影響が、少し残っているのでしょう。咳は、普通の咳です。冬から春への、ちょうど、季節の変わり目です。こういう時期は、不調に陥りやすいのです」

医師のマルファッティは説明した。


 マルファッティは、劇場にいくことも、散歩も、そして、乗馬さえも許可した。

 ただ、軍務だけは禁じた。だがそれも、夏の終わり頃には復帰できる含みをもたせた。



 私の前にある未来を考えると、健康を取り戻すことは、人類に対する神聖な義務だと感じます。

 ライヒシュタット公は、パルマの母親へ、こう書き送っている。







 もはや我慢できないと、アシュラは思った。

 ヤブもここまで来ると、犯罪だ。

 彼は、ウィーン市内のマルファッティ侍医の医院へ向かった。







 マルファッティは、目の前の若者を、しげしげと眺めた。

「結核? 君は、プリンスが結核だというのかね?」


「街では、みんな言ってますよ」

青年は、肩を竦めた。

「長引く発熱。咳。ひどい疲れ。外で彼に接した人間は、みんな、気がついてます。軍の兵士たちも、ダンスホールや劇場の客たちも」


 困った事態だった。

 マルファッティは、プリンスが結核であることを隠すよう、指示されている。

 宰相のメッテルニヒから。


「医者である私が、結核ではないと、診断してもかね?」

「フランスのメゾン大使も、プリンスは胸の病だと、本国に伝えたそうですよ?」

「なんだと? メゾン大使が?」


 国際的に話題になっているのかと、マルファッティは憂えた。

 それでは、メッテルニヒの命じられるままに、結核の診断を控えても、何の意味もないではないか。


「まあ、メゾン大使の場合は、胸の病の原因は、プリンスの放蕩にあると思いこんでいるようですが」

「放蕩?」

「いずれにしろ、彼に夜遊びを勧めたのは、あなたです、マルファッティ医師せんせい


 ぴしゃりと決めつけられ、マルファッティは、どきりとした。

 眼の前の青年は、にやりと笑った。


「先生。気をつけた方がいいですよ。このまま、病名を隠し続けると、ウィーン中で、先生は、ヤブ医者だと噂されますよ」

「……」


 それは、全く、思ってもいないことだった。

 この頃、宮殿に通うことが多かったので、町の噂までは、気が回らなかったのだ。


 マルファッティは、町医者だ。

 ヤブ医者だなどと評判が立ったら、大変なことになる。


「なにせ、あなたには、前科がありますからね」

さらに付け加え、眼の前の男が、不遜に笑った。

「前科?」

マルファッティは気色ばんだ。

「おとなしく聞いていれば、モル男爵。あまりに失礼でないかね?」

「モル?」

相手は嘲笑った。

「俺は、モルではない」

「?」


 マルファッティは驚いて、相手の顔を見た。

 黒い髪。黒い瞳。

 確かにモルに似ている。だが、このふてぶてしさは……。


「俺の顔を見忘れたか、マルファッティ」

「……」


 モルではない。

 だが、マルファッティは、この男を知っている。

 知っているはずなのだが……。


 彼の次の言葉は、最後の審判の鐘の音のように、マルファッティの耳を聾した。


「あんたは、ベートーヴェンを殺した。肝臓の悪い彼に果実酒を勧めた。やがて、酒に溺れると、知りながら!」

「そうか。お前は、ベートーヴェンの家にいた、あの、小僧……」


 マルファッティは思い出した。

 楽聖の家に出入りしていた、あの、小柄な少年……。


「アシュラだ。アシュラ・シャイタン」

黒髪の青年が名乗った。


「だが、アシュラ」

ざわざわする心を、マルファッティは、懸命に鎮めた。

「ベートーヴェンは、私の誤診のせいで死んだのではない。担当医は、ヴァブルフ医師で……」

「そんなことはどうだっていいんだよ、先生」


 やさぐれた口調で、アシュラは言った。

 やはりこの男は、モルではない。


「問題は、あんたが誤診したってことだ。ライヒシュタット公が肺病なのに、肝臓やら肌やら、カタルやら、間違った治療ばかり続けて、彼の症状を悪化させた。そのあんたには、かつて、ベートーヴェンに酒を勧め、彼を、死に向かわせた過去がある」

「いや、ポンス酒のシャーベットにより、ベートーヴェンの精神は上向いたと、私は彼の弟子達に感謝され、」

「ヴァブルフ医師はそうは思っていない。あんたの弟子の、ベルトリーニもね」

「ベルトリーニ?」


 彼は、マルファッティの助手として、ベートーヴェンの治療に当たっていた。マルファッティが楽聖とたもとを分かつと、後を継いで、診察に通った。

(※ 6章「ベートーヴェンの主治医」参照下さい)


「去年、ベルトリーニは、コレラに罹った。死を覚悟した彼は、保管していたベートーヴェンの手紙を全て処分するよう、家族に、指示を出した」

「手紙は、処分されたのだろう?」

震える声で、マルファッティは尋ねた。


 アシュラは、唇の端を上げた。

「ああ。だが、ベルトリーニは死ななかった。俺は、彼の話を聞いたよ」



「ベルトリーニが、そう言ったんだな。私が、故意に、ベートーヴェンに……」


「やっぱりそうなんだな!」

冷たく、だが激しい声が、落ちた。

「やっぱりあんた、悪くなるとわかっていて、酒を勧めたな。殺意を持って、ベートーヴェンに、酒を飲ませたんだ!」


「くそっ! 謀ったな!」

マルファッティは、蒼白な顔で、アシュラを睨みつけた。


 アシュラは、動じなかった。

 怒りに燃える眼差しで、マルファッティを見据える。

「そして今また、ライヒシュタット公に、誤診を下している。それも、故意に、だ。本来の病、結核を伏せ、罹ってもいない病の治療で、彼を苦しめている」


「宰相の指示だ!」

たまりかね、マルファッティは口走った。

「結核の病名を伏せろというのは、宰相の指示なんだ。私はそれに、従っただけだ」

「メッテルニヒの?」

驚きの色が、アシュラの顔に浮かんだ。

「なぜ?」

「なにしろ、ナポレオンの息子だ。高度に政治的な判断があるんだそうだ」

「政治的判断? 彼の命を、何だと思っているんだ。許さない! そんなもの!」

「私は、宰相の指示に従っただけだ」

「誤診は誤診だ。あんたには、医師の良心というものがないのか!」

「……」


 ないと言い切ることは、さすがに、マルファッティにも、できなかった。

 プリンスには、個人的な恨みはなにもない。

 いや、その優雅さと、知性には、感服させられることが多い。



 マルファッティが主治医となったばかりの頃、プリンスは、彼の「治療」に忠実だった。熱心に塩風呂に入り、ミルクのセルツァー水割りを、毎日、飲み続けていた。

 セルツァー水炭酸水は、飲むと胸がむかむかすると、プリンスは嫌った。だが、喉の治療に効果的だと説明したら、欠かさず飲み続けるようになった。

 軍務を続けるために、ぜひとも、声が出るようになりたかったのだ。


 全て、症状に対する、対処的な治療だ。根本的な結核の治療は、なにひとつ、行っていない。


 だが、ここへきてマルファッティは、プリンスを死なせるわけにはいかなくなった。ころころ変わるメッテルニヒの指示だ。フランスの、アンリ5世に対する牽制のためだと、宰相は言った。


 それなのに、プリンスは、マルファッティの言うことをまるで聞かなくなってしまった。

 間違った診断の元、何の効果もない「治療」を受け続けているうちに、彼の信頼は、失われつつあった。

 いや、すでに、失われてしまったのだろう。


 結核の唯一の治療法は、体を休ませることだ。それなのに、まるで何かに憑かれたように、外出してばかりいる。

 治ったと言い張り、マルファッティから、軍務への復帰許可をもぎ取った。凍えるほど寒い日に、葬儀パレードの指揮を執り……。



 アシュラの全身から、怒りが発せられた。

「このまま『治療』を続けても、ライヒシュタット公は回復しない。悪くなる一方だ」


マルファッティも、負けてはいなかった。

「結核には、決定的な治療法がない。体を安め、可能なら、転地療養をさせるしか……。それをあのプリンスは、じっとベッドに留まっていることができないんだ!」

「夜間の外出を許したのはあんた自身じゃないか! 軍務復帰許可を出したのだって、」

「プリンスが望むからだ! 彼が望んだんだよ! 軍務に復帰したいって!」


「あんたは医者だろう? そもそもあんたが見当違いの治療ばかりしてきたせいだ。だから、プリンスは、あんたを信じられなくなった。全部、あんたが悪い」

「いいや。プリンスのせいだ。無理ばかり重ねて……。彼自らが、自分の体を痛めつけてきたんだ!」


「言うに事書いて、なんてことを! 勝手なことをほざくんじゃない!」

アシュラは怒り狂った。

「患者の無理を諌めるのが、医者の役割だろうが!」


「そんなこと、皇族相手にできるものか!」

マルファッティは喚いた。

「おまけに私には、結核だと診断することさえ、許されていないんだ!」


 アシュラが、ぐっと顔を近づけた。

「彼を、ナポリに転地させるよう、皇帝に進言しろ」

「ナポリ?」

「ナポリだ。暖かいイタリア半島の南端に転地させる。それしか、彼が治癒する方法はないと、皇帝に言うんだ」

「だが、宰相が……」


「メッテルニヒに口を挟ませるな。もし、プリンスをナポリにやることに失敗したら……」

アシュラは薄く笑った。

「ウィーン中が、あんたの誤診を知ることになる。誤診と、殺意を持って、楽聖ベートーヴェンに誤った治療を施したことを、な」



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