ドナウの暗い流れ



 ……結核を秘すように指示したのは、メッテルニヒだった。

 マルファッティの診療所を出て、アシュラは考えた。


 高度に政治的な判断などというものは、アシュラにはわからない。

 わかるのはただ、プリンスは、メッテルニヒの喉に刺さった棘だということだけだ。


 ……もしかして、あの、赤黴は……。

 はっと、立ち止まった。


「宮廷資材横領の件は、捜査終了に付すべし。

 これ以上の調査を禁ずる」

 優雅な飾り文字なされた署名。宰相メッテルニヒ、と。

(※ 5章「ナポレオンの息子だから 2」参照下さい)



 ……なんらかの、毒。

 ……プリンスの結核を悪化させる。


 プリンスの侍医マルファッティなら、何か知っているかも知れない。

 いま来た道を、大急ぎで、アシュラは戻り始めた。







 「マルファッティ」

 自分を呼ぶ声がして、マルファッティは、はっと我に帰った。

 ペッリコ……逃げてきたカルボナリの残党……が立っていた。


 メッテルニヒの言った通り、イタリアを逃れたペッリコは、オーストリアへ入り込んでいた。

 彼は、再び、マルファッティから金を受け取り、ヨーロッパ各地へ散ったカルボナリの残党に流している。


 のんきな声で、ペッリコは尋ねた。

「どうした、しょぼくれて」

「メッテルニヒが、プリンスの結核を隠すよう指示したと、俺は、話してしまった」



 メッテルニヒの関与は、ペッリコに、だいぶ前に打ち明けてある。

 保険のつもりだった。

 メッテルニヒは、プリンスの前の主治医たちや家庭教師を、こっそり闇に葬った。マルファッティは、黙って殺されるつもりは、毛頭ない。


 もっとも、そのメッテルニヒに、自分の正体が露見してしまったことまでは、ペッリコに伝えていない。カルボナリの活動を密告していることは、なおさらだ。


 だが、イタリアでの陰謀を宰相に漏らしてるおかげで、マルファッティは、褒美を得ているのだ。金の一部は、ペッリコにも渡している。

 文句はあるまいと、マルファッティは思っている。



 ペッリコが、目を細めた。

「それは、まずくないか?」

「うん。だが、何もしなくたって、ライヒシュタット公が結核だと知れるのは、時間の問題だ。その時、俺が誤診したと思われるのはまずい」

「ふむ」

「あの若造は、プリンスをナポリへやれと言ってきた。イタリアで療養をさせろと。そりゃ、暖かいイタリアでゆっくり休んだなら、プリンスの病気にも、効果があるだろうけど、メッテルニヒが……、」


「イタリア?」

ペッリコの瞳が、険悪に光った。

「そんなことは許さない」

「なんで?」

マルファッティは、怪訝に思った。


 ペッリコが凄んだ。

「カルボナリの蜂起が、オーストリア軍に鎮圧されたことを忘れたか。ライヒシュタット公は、必ず、オーストリア軍を引き連れてやってくる」


「いや、だって、病気療養だぞ?」

 マルファッティは、目を瞬かせた。

「それに、カルボナリは、ナポレオンの甥を仲間に迎えたじゃないか。『ナポレオンの血を引く者』を王に迎えると言って」


 ペッリコの顔に、嘲りの色が浮かんだ。

「ナポレオンの甥? あんなのは、広告塔に過ぎない。読み書きのできない民衆を、手っ取り早く味方につける為の、一番わかり易い、人寄せだった」

「それで、ナポレオンの甥は、死んだのか? オーストリア軍に追いかけられて? かわいそうにな」



 オーストリア軍から逃れ、逃げ回っていたナポレオン・ルイは、潜伏中に、麻疹で死んだ。



 苦いものを食べたかのように、ペッリコは顔を顰めた。

「ボナパルニストと結んだのは、間違いだった。イタリアの蜂起に、フランスは、何の手助けもしてくれなかった」



 それどころか、ルイ・フィリップは、オーストリアのイタリア進軍を認めている。



「だが、ナポレオンの甥は、まだ、いい。やつの息子ときたら……」

「パルマの話か?」

 マルファッティが尋ねた。



 ライヒシュタット公が、母の国、パルマを救おうと、皇帝に掛け合った話は、マルファッティも聞き及んでいた。

 彼は、オーストリア軍を率いて、イタリアへ乗り込もうとしたのだ。

 もっとも、皇帝も宰相メッテルニヒも、彼のイタリア進軍を許さなかったが。



「そうだ。ナポレオンの息子がイタリアへ……その時、彼は必ず、オーストリア軍を引き連れてくる。ナポレオンの息子に、危惧を抱いている革命派は、多い」

 顔に刻まれた傷のように、ペッリコの口が、横に引き攣れた。

 笑ったのだ。

「オーストリアは、知るべきだ。今や、イタリアでは、1000の短剣が、ナポレオンの息子に向けられている」


 その考えは、落雷のごとく、マルファッティの頭に落ちてきた。

「ペッリコ。まさか、お前……」

「ああ。今回俺は、ライヒシュタット公暗殺の任を担ってきた」


「……」

マルファッティは絶句した。


「そこで、あんたに、頼みがある」

「頼み?」

「なに、たいしたことじゃない。ちょっとしたことだ」

「まずいことじゃなかろうな」

「もちろん。ただ、一筆書いてくれればいい。」

「一筆?」

「ライヒシュタット家の馬丁に宛てて」

「おい、お前何を考えている?」

「マルファッティ。あんたは何も知らなくていい。カルボナリにとって、あんたは大切な資金源だ。全ては俺が引き受ける」

 暗い自信を秘めて、ペッリコは答えた。







 マルファッティの家から出てくる男の姿に、アシュラは気がついた。

 見たことのある男だ。

 色の浅黒い、目つきの鋭い……。

 強い太陽の光と、強烈な色彩が、脳裏に蘇る。

 ……ナポレオン・ルイと一緒にいた男だ。

(※6章「ナポレオンの甥と姪 1,2」御参照下さい)


 痩せた、肌の浅黒い、イタリア人。

 鋭い目をして、何を言われても、表情ひとつ、変えようとしない……。


 ……なんてこった。あいつは、カルボナリだ!

 ……なぜ、カルボナリが、マルファッティプリンスの主治医の家に?


 悪い考えしか浮かばない。

 男は、アシュラに気がついていなかった。すたすたと歩いていく。

 思い定め、後をつけることにした。







 男が向かったのは、皇室の馬場だった。

 守衛に何かを見せ、中に入っていく。


 此処から先は、許可証のないアシュラには、入っていくことができない。

 物陰に身を潜め、彼が出てくるのを待つことにした。


 一時間も待ったであろうか。

 諦めて、マルファッティを問い詰めに戻ろうかと思っていた時だった。男が出てきた。

 驚いたことに、馬丁と一緒だった。

 ライヒシュタット家の馬丁だ。

 男は、親しげに馬丁の肩を叩き、再び、歩き始めた。







 ドナウの、寂しい川べりで、ペッリコは立ち止まった。

 前を見たまま、言った。

「いつまでついてくる気だ」


 辺りはすでに暗くなっている。草むらの向こうには、ドナウが、満々と水を湛えている。

 背後で、がさがさと、枯れた下生えを踏む音がした。黒い影が、姿を現した。

 ずっと、後をつけられていた。


「気がついていたか」

影は言った。

「ああ」

「俺が誰かも?」

「マルファッティを脅したやつだろ」

「それだけか?」


その顔が、月明かりに照らされた。


「……秘密警察の犬、か」

 ペッリコは、常に危険と隣り合わせで活動してきた。一度見た顔は忘れない。

 ナポレオン・ルイの従妹、エリザ・ナポレオーネの居室で会った男だと、すぐに思い出した。


 相手は不満そうに、顎をしゃくりあげた。

「犬ではない。アシュラ・シャイタンだ」

「俺に、何か用か?」

「プリンスの侍医と組んで、何を企んでいる?」

「別に」

「カルボナリが、プリンスの侍医と。しかもその侍医は、メッテルニヒの手先だ」

「カルボナリの願いは、ひとつしかない。イタリアの統一だ」


 イタリアの統一。

 ……プリンスが言ってたことじゃないか!

 息を弾ませ、アシュラは言った。


「それは、ライヒシュタット公の願いだ!」

「ライヒシュタット公の? ナポレオンの息子のか?」

「そうだ」


 低い声で、ペッリコは笑い出した。


「無理だな。彼は、イタリアまで来ることはできない」

「なぜ?」

「イタリアには入れないということだ。オーストリアのひも付きの王など!」

「違う! 聞け! 彼は、真の意味での、イタリアの独立を目指している。イタリアの民族による、統一国家を」

「そして、オーストリアの傀儡にするんだろ? それとも、フランスか?」

「いずれは、ヨーロッパの統一を目指すんだ。同じ価値観の下に、諸民族の平等を……」


「だが彼は、あの、ナポレオンの息子だ!」

つんざくような声が吠えた。

「同じことをナポレオンも言った。ところが、どうだ。イタリアは、寸断され、やつの親族に統治された」

「だから、聞け! 彼は、父親とは違う! 彼が目指しているのは、帝王の座ではない」

「将軍か? 父親と同じく」

「違う! 彼は、軍の下の位からそのキャリアをスタートさせ、」

「そして、オーストリア軍を率いて、イタリアに攻め入るのだ」

「違うといったろ! 彼は、父親とは違う! イタリア統一は、ヨーロッパの平和の為の、第一歩なのだ!」

「ナポレオンの、最初の一歩でもあった。アルプスを越えてやってきた彼を、イタリアは、最初、歓迎した。だが、彼は、イタリアを、蹂躙した。同じ辱めを、その息子から受けるつもりはない」


 どこまでいっても、平行線だった。

 ペッリコは、フランソワを知らない。

 彼はフランソワを、ナポレオンの息子としてしか見ていない。


「ナポレオンの息子をナポリへ、だと? とんでもない話だ。あれは、ウィーンから出しちゃ、いけないんだ」

「なんてことを……」


 アシュラは絶句した。

 まるでメッテルニヒが乗り移ったようではないか。


「両シチリアの国王は、オーストリアと関係が深い。病気療養と言えば、簡単に騙され、彼を入国させるだろう。鷲の子の正体を知らず、懐深く迎え入れてしまう。だが、そうなる前に……」


 ペッリコは言葉を切った。

 沈黙が流れた。

 その沈黙の意味を、アシュラは理解した。


「お前、殿下を……」


 考える前に、体が動いた。

 アシュラは、ペッリコに飛び掛った。

 不意を衝かれ、ペッリコは、後ろに転んだ。二人そろって、草むらに倒れ、ごろごろと転がった。


 最初に行動に移った分、アシュラが優勢だった。相手の体の上になり、なんとか押さえつけようとする。

 ……急所を。

 喉か。

 獲物は持っていない。

 ……締め上げる。

 ……この手で。


 こんな強い殺意を、アシュラは知らなかった。

 今、ここでやらなければ、この男は、絶対、フランソワを殺す。


 何も、考えられなかった。

 なにがなんでも、息の根を止めなければならない。

 それだけしか、頭になかった。

 相手の喉に掛けた手を、力いっぱい……、


 次の瞬間、腹に、焼け火箸を突っ込まれたような熱が走った。

 一瞬にして逆転されたことを、アシュラは悟った。


「この……っ」

「卑怯だなんて言うなよ。武器はいつだって、携行するものだ。いくらウィーンが平和でも」


 見下ろす男の口が、笑いを形作っているのが見える。

 下腹に向かって、生温かい液体が、どろりと垂れた。


 体に力が入らない。痛みは、熱でしかなかった。暗黒へと向かう熱に、アシュラは震えた。


 ぐったりと力をなくした体を、遠慮なく、ペッリコが振り落とした。


 ……俺は、守ると、誓った。

 ……いつも、彼の、そばにいて。


 人が人を守ると誓うのは、傲慢なのかと、アシュラは思った。

 だって自分は、こんなにも無力で、愚かしく、

 ……あっさりと命を棒に振って。


 うつぶせに倒れたアシュラの目の先に、黄色い小さな花が輝いていた。ヴィンターリング(キバナセツブンソウ)だ。まるで月の光がこぼれたようだった。


 「プリンスに、……手を、……出すな」


 最後の力を振り絞り、アシュラは叫んだ。

 囁くような声しか出ない。


 アシュラは悔しかった。


 ペッリコが、鼻で笑った。力を失った体を、足で蹴る。

 3回、強く蹴った。命を失いつつある体は、未だ体温を保ち、ぐにゃぐにゃと柔らかい。


 ドナウの流れが、すぐ足元に迫っていた。


 4回目に、靴裏で、強く押した。

 一瞬だけ抵抗のあった体は、しかし、あっけなく、岸から落ちた。

 川の流れる音に混じって、大きな水音が響く。白い水が、泡だって跳ね上がった。


 「もう、遅いんだよ」

 水しぶきが治まり、岸辺から同心円を描いて広がっていく。その輪に向かって、ペッリコは、吐き捨てた。


 岸辺に残った血の跡を、土くれごと、川に蹴落とそうとする。

 その足首を、水の中から出てきた手が掴んだ。

 あっと思う間もなく、ペッリコは、ドナウの流れに引き込まれていった。



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