ドナウの暗い流れ
……結核を秘すように指示したのは、メッテルニヒだった。
マルファッティの診療所を出て、アシュラは考えた。
高度に政治的な判断などというものは、アシュラにはわからない。
わかるのはただ、プリンスは、メッテルニヒの喉に刺さった棘だということだけだ。
……もしかして、あの、赤黴は……。
はっと、立ち止まった。
「宮廷資材横領の件は、捜査終了に付すべし。
これ以上の調査を禁ずる」
優雅な飾り文字なされた署名。宰相メッテルニヒ、と。
(※ 5章「ナポレオンの息子だから 2」参照下さい)
……なんらかの、毒。
……プリンスの結核を悪化させる。
いま来た道を、大急ぎで、アシュラは戻り始めた。
*
「マルファッティ」
自分を呼ぶ声がして、マルファッティは、はっと我に帰った。
ペッリコ……逃げてきたカルボナリの残党……が立っていた。
メッテルニヒの言った通り、イタリアを逃れたペッリコは、オーストリアへ入り込んでいた。
彼は、再び、マルファッティから金を受け取り、ヨーロッパ各地へ散ったカルボナリの残党に流している。
のんきな声で、ペッリコは尋ねた。
「どうした、しょぼくれて」
「メッテルニヒが、プリンスの結核を隠すよう指示したと、俺は、話してしまった」
メッテルニヒの関与は、ペッリコに、だいぶ前に打ち明けてある。
保険のつもりだった。
メッテルニヒは、プリンスの前の主治医たちや家庭教師を、こっそり闇に葬った。マルファッティは、黙って殺されるつもりは、毛頭ない。
もっとも、そのメッテルニヒに、自分の正体が露見してしまったことまでは、ペッリコに伝えていない。カルボナリの活動を密告していることは、なおさらだ。
だが、イタリアでの陰謀を宰相に漏らしてるおかげで、マルファッティは、褒美を得ているのだ。金の一部は、ペッリコにも渡している。
文句はあるまいと、マルファッティは思っている。
ペッリコが、目を細めた。
「それは、まずくないか?」
「うん。だが、何もしなくたって、ライヒシュタット公が結核だと知れるのは、時間の問題だ。その時、俺が誤診したと思われるのはまずい」
「ふむ」
「あの若造は、プリンスをナポリへやれと言ってきた。イタリアで療養をさせろと。そりゃ、暖かいイタリアでゆっくり休んだなら、プリンスの病気にも、効果があるだろうけど、メッテルニヒが……、」
「イタリア?」
ペッリコの瞳が、険悪に光った。
「そんなことは許さない」
「なんで?」
マルファッティは、怪訝に思った。
ペッリコが凄んだ。
「カルボナリの蜂起が、オーストリア軍に鎮圧されたことを忘れたか。ライヒシュタット公は、必ず、オーストリア軍を引き連れてやってくる」
「いや、だって、病気療養だぞ?」
マルファッティは、目を瞬かせた。
「それに、カルボナリは、ナポレオンの甥を仲間に迎えたじゃないか。『ナポレオンの血を引く者』を王に迎えると言って」
ペッリコの顔に、嘲りの色が浮かんだ。
「ナポレオンの甥? あんなのは、広告塔に過ぎない。読み書きのできない民衆を、手っ取り早く味方につける為の、一番わかり易い、人寄せだった」
「それで、ナポレオンの甥は、死んだのか? オーストリア軍に追いかけられて? かわいそうにな」
オーストリア軍から逃れ、逃げ回っていたナポレオン・ルイは、潜伏中に、麻疹で死んだ。
苦いものを食べたかのように、ペッリコは顔を顰めた。
「ボナパルニストと結んだのは、間違いだった。イタリアの蜂起に、フランスは、何の手助けもしてくれなかった」
それどころか、ルイ・フィリップは、オーストリアのイタリア進軍を認めている。
「だが、ナポレオンの甥は、まだ、いい。やつの息子ときたら……」
「パルマの話か?」
マルファッティが尋ねた。
ライヒシュタット公が、母の国、パルマを救おうと、皇帝に掛け合った話は、マルファッティも聞き及んでいた。
彼は、オーストリア軍を率いて、イタリアへ乗り込もうとしたのだ。
もっとも、皇帝も
「そうだ。ナポレオンの息子がイタリアへ……その時、彼は必ず、オーストリア軍を引き連れてくる。ナポレオンの息子に、危惧を抱いている革命派は、多い」
顔に刻まれた傷のように、ペッリコの口が、横に引き攣れた。
笑ったのだ。
「オーストリアは、知るべきだ。今や、イタリアでは、1000の短剣が、ナポレオンの息子に向けられている」
その考えは、落雷のごとく、マルファッティの頭に落ちてきた。
「ペッリコ。まさか、お前……」
「ああ。今回俺は、ライヒシュタット公暗殺の任を担ってきた」
「……」
マルファッティは絶句した。
「そこで、あんたに、頼みがある」
「頼み?」
「なに、たいしたことじゃない。ちょっとしたことだ」
「まずいことじゃなかろうな」
「もちろん。ただ、一筆書いてくれればいい。」
「一筆?」
「ライヒシュタット家の馬丁に宛てて」
「おい、お前何を考えている?」
「マルファッティ。あんたは何も知らなくていい。カルボナリにとって、あんたは大切な資金源だ。全ては俺が引き受ける」
暗い自信を秘めて、ペッリコは答えた。
*
マルファッティの家から出てくる男の姿に、アシュラは気がついた。
見たことのある男だ。
色の浅黒い、目つきの鋭い……。
強い太陽の光と、強烈な色彩が、脳裏に蘇る。
……ナポレオン・ルイと一緒にいた男だ。
(※6章「ナポレオンの甥と姪 1,2」御参照下さい)
痩せた、肌の浅黒い、イタリア人。
鋭い目をして、何を言われても、表情ひとつ、変えようとしない……。
……なんてこった。あいつは、カルボナリだ!
……なぜ、カルボナリが、
悪い考えしか浮かばない。
男は、アシュラに気がついていなかった。すたすたと歩いていく。
思い定め、後をつけることにした。
*
男が向かったのは、皇室の馬場だった。
守衛に何かを見せ、中に入っていく。
此処から先は、許可証のないアシュラには、入っていくことができない。
物陰に身を潜め、彼が出てくるのを待つことにした。
一時間も待ったであろうか。
諦めて、マルファッティを問い詰めに戻ろうかと思っていた時だった。男が出てきた。
驚いたことに、馬丁と一緒だった。
ライヒシュタット家の馬丁だ。
男は、親しげに馬丁の肩を叩き、再び、歩き始めた。
*
ドナウの、寂しい川べりで、ペッリコは立ち止まった。
前を見たまま、言った。
「いつまでついてくる気だ」
辺りはすでに暗くなっている。草むらの向こうには、ドナウが、満々と水を湛えている。
背後で、がさがさと、枯れた下生えを踏む音がした。黒い影が、姿を現した。
ずっと、後をつけられていた。
「気がついていたか」
影は言った。
「ああ」
「俺が誰かも?」
「マルファッティを脅したやつだろ」
「それだけか?」
その顔が、月明かりに照らされた。
「……秘密警察の犬、か」
ペッリコは、常に危険と隣り合わせで活動してきた。一度見た顔は忘れない。
ナポレオン・ルイの従妹、エリザ・ナポレオーネの居室で会った男だと、すぐに思い出した。
相手は不満そうに、顎をしゃくりあげた。
「犬ではない。アシュラ・シャイタンだ」
「俺に、何か用か?」
「プリンスの侍医と組んで、何を企んでいる?」
「別に」
「カルボナリが、プリンスの侍医と。しかもその侍医は、メッテルニヒの手先だ」
「カルボナリの願いは、ひとつしかない。イタリアの統一だ」
イタリアの統一。
……プリンスが言ってたことじゃないか!
息を弾ませ、アシュラは言った。
「それは、ライヒシュタット公の願いだ!」
「ライヒシュタット公の? ナポレオンの息子のか?」
「そうだ」
低い声で、ペッリコは笑い出した。
「無理だな。彼は、イタリアまで来ることはできない」
「なぜ?」
「イタリアには入れないということだ。オーストリアのひも付きの王など!」
「違う! 聞け! 彼は、真の意味での、イタリアの独立を目指している。イタリアの民族による、統一国家を」
「そして、オーストリアの傀儡にするんだろ? それとも、フランスか?」
「いずれは、ヨーロッパの統一を目指すんだ。同じ価値観の下に、諸民族の平等を……」
「だが彼は、あの、ナポレオンの息子だ!」
つんざくような声が吠えた。
「同じことをナポレオンも言った。ところが、どうだ。イタリアは、寸断され、やつの親族に統治された」
「だから、聞け! 彼は、父親とは違う! 彼が目指しているのは、帝王の座ではない」
「将軍か? 父親と同じく」
「違う! 彼は、軍の下の位からそのキャリアをスタートさせ、」
「そして、オーストリア軍を率いて、イタリアに攻め入るのだ」
「違うといったろ! 彼は、父親とは違う! イタリア統一は、ヨーロッパの平和の為の、第一歩なのだ!」
「ナポレオンの、最初の一歩でもあった。アルプスを越えてやってきた彼を、イタリアは、最初、歓迎した。だが、彼は、イタリアを、蹂躙した。同じ辱めを、その息子から受けるつもりはない」
どこまでいっても、平行線だった。
ペッリコは、フランソワを知らない。
彼はフランソワを、ナポレオンの息子としてしか見ていない。
「ナポレオンの息子をナポリへ、だと? とんでもない話だ。あれは、ウィーンから出しちゃ、いけないんだ」
「なんてことを……」
アシュラは絶句した。
まるでメッテルニヒが乗り移ったようではないか。
「両シチリアの国王は、オーストリアと関係が深い。病気療養と言えば、簡単に騙され、彼を入国させるだろう。鷲の子の正体を知らず、懐深く迎え入れてしまう。だが、そうなる前に……」
ペッリコは言葉を切った。
沈黙が流れた。
その沈黙の意味を、アシュラは理解した。
「お前、殿下を……」
考える前に、体が動いた。
アシュラは、ペッリコに飛び掛った。
不意を衝かれ、ペッリコは、後ろに転んだ。二人そろって、草むらに倒れ、ごろごろと転がった。
最初に行動に移った分、アシュラが優勢だった。相手の体の上になり、なんとか押さえつけようとする。
……急所を。
喉か。
獲物は持っていない。
……締め上げる。
……この手で。
こんな強い殺意を、アシュラは知らなかった。
今、ここでやらなければ、この男は、絶対、フランソワを殺す。
何も、考えられなかった。
なにがなんでも、息の根を止めなければならない。
それだけしか、頭になかった。
相手の喉に掛けた手を、力いっぱい……、
次の瞬間、腹に、焼け火箸を突っ込まれたような熱が走った。
一瞬にして逆転されたことを、アシュラは悟った。
「この……っ」
「卑怯だなんて言うなよ。武器はいつだって、携行するものだ。いくらウィーンが平和でも」
見下ろす男の口が、笑いを形作っているのが見える。
下腹に向かって、生温かい液体が、どろりと垂れた。
体に力が入らない。痛みは、熱でしかなかった。暗黒へと向かう熱に、アシュラは震えた。
ぐったりと力をなくした体を、遠慮なく、ペッリコが振り落とした。
……俺は、守ると、誓った。
……いつも、彼の、そばにいて。
人が人を守ると誓うのは、傲慢なのかと、アシュラは思った。
だって自分は、こんなにも無力で、愚かしく、
……あっさりと命を棒に振って。
うつぶせに倒れたアシュラの目の先に、黄色い小さな花が輝いていた。ヴィンターリング(キバナセツブンソウ)だ。まるで月の光がこぼれたようだった。
「プリンスに、……手を、……出すな」
最後の力を振り絞り、アシュラは叫んだ。
囁くような声しか出ない。
アシュラは悔しかった。
ペッリコが、鼻で笑った。力を失った体を、足で蹴る。
3回、強く蹴った。命を失いつつある体は、未だ体温を保ち、ぐにゃぐにゃと柔らかい。
ドナウの流れが、すぐ足元に迫っていた。
4回目に、靴裏で、強く押した。
一瞬だけ抵抗のあった体は、しかし、あっけなく、岸から落ちた。
川の流れる音に混じって、大きな水音が響く。白い水が、泡だって跳ね上がった。
「もう、遅いんだよ」
水しぶきが治まり、岸辺から同心円を描いて広がっていく。その輪に向かって、ペッリコは、吐き捨てた。
岸辺に残った血の跡を、土くれごと、川に蹴落とそうとする。
その足首を、水の中から出てきた手が掴んだ。
あっと思う間もなく、ペッリコは、ドナウの流れに引き込まれていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます