蛍狩り


 夜の森を、ひとり飛ぶ。

 軽々と。楽しい心持ちで。

 空には月が懸かり、風は柔らかく心地良い。

 幸せだった。満ち足りていた。


 高いところで、風を切る音がした。

 大きな網に、絡め取られた。







 「馬鹿か……」

誰かがしきりとつぶやいている。

「こいつは、馬鹿なんだな……」


 渋い目を、アシュラは開けた。辺りは、荒涼とした砂地だった。

 いや、砂だろうか。

 ただ、砂色というだけの、何もない平地。見渡す限り、虚無の世界だ。


 ……なんてこった。

 ……今まで、プラーターウィーンの森の上を、飛行していたというのに。

 ……飛行?


「やっと起きたか」

 すぐそばに、黒い服の男がいた。顔色の悪い、痩せた男だ。燃えるような赤い目をしている。

「……メフィストフェレス!」


「お前はなあ。精霊の虫取り網に引っかかったんだ。あいつら、蛍採りをしていてなあ」

「こんな季節に、蛍がいるのか?」

「いるさ。ここは地獄だからな。季節なんて、関係ない」

「じ、地獄!? 俺は、地獄に堕ちたのか?」

「当たり前だ。何を驚いている。お前は人を殺したんだぞ」


 アシュラが思い浮かべたのは、一昨年の秋、ポーランドでのことだ。

 だが、あの時は、とどめを刺そうとするアシュラを、エオリアが止めた……。

「あのロシア兵は、死ななかったはずだが」

(※ 8章「ポーランド蜂起 2」参照下さい)


「ロシア兵ではない、馬鹿者めが。イタリア人だ。カルボナリだよ」

「ペッリコか! やつは死んだのか!」

「お前が道連れにしたんじゃないか」

「そうか……」


 ぱっとアシュラは立ち上がった。

「大変だ! こうしちゃいられない。早くフランソワのところへ戻らなくちゃ!」


 なにをふわふわ飛んでいたのだと、自分で自分を殴りつけたい気分だった。

 自ら軍務を擲って、彼は、どんなに落ち込んでいるだろう。


 ……熱は下がったのか。

 もう二度と、無理をさせてはいけない。

 ……医者を変えさせねば。


 マルファッティはダメだ。あれは、メッテルニヒの刺客だ。その上、ヤブ医者だ。

 シュタウデンハイム前の侍医のような、頑固で、しっかりとした治療方針を持った医者に、代えさせねばならない。

 それには……。


 メフィストフェレスは、渋い顔をしている。

「確かに、お前のことは、あの子にくれてやったがな」

「くれてやった?」

「いや、」



 ……「まあ、いいでしょう。私は、使い魔には困っていない。あれは、あなたのものだ」

 バイロンの「マンフレッド」の朗読会の時。溢れ満ちるベートーヴェンの音楽を聞きながら、悪魔メフィストフェレスは、確かに、フランソワにアシュラを譲り渡した……。



 メフィストは、咳払いをした。

「彼は、ついに、神に逆らう決意をした。破門を身に受け、地獄にまでも落ちていく覚悟を固めた。立派なことだ。素晴らしい。その彼に仕えるのが、お前の使命だ。……つまり、お前は、死ねない。お前の存在は、王子によって、担保されている。彼がお前を手放さない限り、お前は、死を死ぬことができないのだ」



 ……本望だ。

 アシュラは思った。

 黄金であろうとなかろうと、フランソワを、今度こそ、「檻」から解放させる為に。

 父親のものではない、彼の命を生きさせる為に。

 自分は死ねない。死ぬつもりもない。


「俺はフランソワのところへ戻る。おい、戻り方を教えろ、メフィストフェレス!」


「そのことだがな、アシュラ・シャイタン。ものは相談だが……」

居丈高だったメフィストフェレスが、妙に下手に出た。

「あの子の魂を、俺に譲ってはくれまいか。そうしたら、即座にお前を、安らかな死へと、導いてやる」


「……は?」

言っている意味がわからなかった。


「だから、あの無垢な魂を、俺にくれ。そしたら、お礼に、お前を人並みに死なせて……」


「断る」

みなまで言わせず、アシュラは即答した。

「殿下は、魔王になるとおっしゃった。魔王には、部下が必要だ」

「何か勘違いしてないか? お前は、下等な使い魔に過ぎないんだぞ?」

「それでもいい! 俺は彼に、忠誠を誓った。永遠の忠誠を」

「だがなあ。俺は気づいてしまったからなあ。……あれは、うまいと。あの子にも言ったが、俺は、あの瑞々しい魂を、諦めるつもりはない」


 アシュラはぎょっとした。

「メフィスト、お前、彼に会ったのか?」

「なに、ちょっとたぶらかしに行っただけだ」

「なんてことを!」


怒りのあまりわめき出しそうになったアシュラを、メフィストは制した。

「安心しろ。まだ、手は出していない。だが、彼と話して、俺は、不安になった」


 心配そうな表情を、悪魔は、満面に浮かべた。ひどく大袈裟で、もったいぶっている。

「果たして彼は、魔王にふさわしいのかな?」


力いっぱい、アシュラは叫んだ。

「ふさわしいに決まってる。楽聖ベートーヴェンが見込んだんだからな!」


 訝しげに、メフィストは首を傾げてみせる。

「あの子は、自ら死のうとしてるぞ」


 あまりの言い草に、アシュラは笑い出した。

「お前はフランソワを知らなすぎる。自殺なんて、彼に限って、それだけは、ありえない!」

「そうかあ?」

「そうだ!」

「だが、あの医者だって言ってたじゃないか。全てはあの子自身のせいだって。無理ばかり重ね、自分の体を痛めつけてきたんだって。なぜ、そこまでする必要がある? つまり、それは……」


「うるさいうるさいうるさい!」

アシュラは喚いた。

「軍務は、彼にとって、最も神聖な任務なんだ!」


「ふうん」

 メフィストフェレスは納得していないようだった。

 首を傾げ、不敵に笑った。

「ならば、その目で確かめてくるがよかろう」

 アシュラの手に、軽く触れた。


 その瞬間、電流が流れたような痺れを感じた。アシュラの体は、まるで紙切れのように、空の高みに舞い上がった。


「さあ、行くがいい。人の世に戻って、真実を確かめるがいい」


 メフィストフェレスの声に煽られるようにして、体が宙返る。


「だが、最初に言っておく。いずれにせよ、俺は、純粋で、水気たっぷりの、おいしい魂を、諦めるつもりは、毛頭、ない!」



 ぐるりと世界が回転する。

 折からの強風に吹き上げられ、アシュラは、天高く舞い上がり……、

 ……堕ちていった。







 ディートリヒシュタインが、宮殿に訪ねてきた。教え子が、葬儀パレードを退席したと、どこからか、聞き及んだのだ。


「大隊の指揮を、途中で投げ出されたと聞きましたぞ。強情なあなたにも、これでおわかりになったでしょうよ。なにもあなたが指揮を執らなくても、軍には、あなたの代わりなんて、いくらでもいるんですからね!」


 以前の家庭教師は、ずけずけ言いながら、プリンスに近づいていった。

 途中、テーブルのそばを通りかかった。

「あっ、タバコ! 止めたって言ったじゃないですか! タバコです。タバコが悪い。タバコが、あなたの喉と胸を乾燥させたんです。てっきりこれに、違いない!」

きっぱりと断言した。



 亡くなったナポレオンは、煙草を好んだという。プリンスは、2歳になってすぐ、父と別れている。普通なら、ものごころがつく前の年齢だ。だが、煙草の匂いは、父の記憶と密接に結びついて、彼の心のどこかに、大切にしまわれているのかもしれない……。

 そんな風に、ディートリヒシュタインは、思わないでもなかった。

 なんにしてもナポレオンは、彼の大切な父親なのだ。

 ……自分たちは、ナポレオンの否定に躍起になってきたのだけれど。



 やや、声を和らげ、かつての家庭教師は続けた。

「体を大事になさい、プリンス。しっかり休養すべきです。今回は、療養の途中で、医者から、軍務復帰をもぎ取るような真似は、なさらないでしょうね?」


「号令……。声…出ない……」

 囁くような返事が返ってきた。


 元家庭教師は、ソファーの上に、へたりこんでいる教え子を見つけた。疲れ果てているのか、動くことさえ、ままならないでいる。悪寒に震え、それなのに、ひどい汗だ。

「プリンス!」


 ディートリヒシュタインは、うろたえた。

 彼はフランソワを立たせ、暖かいベッドに連れて行った。



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