蛍狩り
夜の森を、ひとり飛ぶ。
軽々と。楽しい心持ちで。
空には月が懸かり、風は柔らかく心地良い。
幸せだった。満ち足りていた。
高いところで、風を切る音がした。
大きな網に、絡め取られた。
*
「馬鹿か……」
誰かがしきりとつぶやいている。
「こいつは、馬鹿なんだな……」
渋い目を、アシュラは開けた。辺りは、荒涼とした砂地だった。
いや、砂だろうか。
ただ、砂色というだけの、何もない平地。見渡す限り、虚無の世界だ。
……なんてこった。
……今まで、
……飛行?
「やっと起きたか」
すぐそばに、黒い服の男がいた。顔色の悪い、痩せた男だ。燃えるような赤い目をしている。
「……メフィストフェレス!」
「お前はなあ。精霊の虫取り網に引っかかったんだ。あいつら、蛍採りをしていてなあ」
「こんな季節に、蛍がいるのか?」
「いるさ。ここは地獄だからな。季節なんて、関係ない」
「じ、地獄!? 俺は、地獄に堕ちたのか?」
「当たり前だ。何を驚いている。お前は人を殺したんだぞ」
アシュラが思い浮かべたのは、一昨年の秋、ポーランドでのことだ。
だが、あの時は、とどめを刺そうとするアシュラを、エオリアが止めた……。
「あのロシア兵は、死ななかったはずだが」
(※ 8章「ポーランド蜂起 2」参照下さい)
「ロシア兵ではない、馬鹿者めが。イタリア人だ。カルボナリだよ」
「ペッリコか! やつは死んだのか!」
「お前が道連れにしたんじゃないか」
「そうか……」
ぱっとアシュラは立ち上がった。
「大変だ! こうしちゃいられない。早くフランソワのところへ戻らなくちゃ!」
なにをふわふわ飛んでいたのだと、自分で自分を殴りつけたい気分だった。
自ら軍務を擲って、彼は、どんなに落ち込んでいるだろう。
……熱は下がったのか。
もう二度と、無理をさせてはいけない。
……医者を変えさせねば。
マルファッティはダメだ。あれは、メッテルニヒの刺客だ。その上、ヤブ医者だ。
それには……。
メフィストフェレスは、渋い顔をしている。
「確かに、お前のことは、あの子にくれてやったがな」
「くれてやった?」
「いや、」
……「まあ、いいでしょう。私は、使い魔には困っていない。あれは、あなたのものだ」
バイロンの「マンフレッド」の朗読会の時。溢れ満ちるベートーヴェンの音楽を聞きながら、
メフィストは、咳払いをした。
「彼は、ついに、神に逆らう決意をした。破門を身に受け、地獄にまでも落ちていく覚悟を固めた。立派なことだ。素晴らしい。その彼に仕えるのが、お前の使命だ。……つまり、お前は、死ねない。お前の存在は、王子によって、担保されている。彼がお前を手放さない限り、お前は、死を死ぬことができないのだ」
……本望だ。
アシュラは思った。
黄金であろうとなかろうと、フランソワを、今度こそ、「檻」から解放させる為に。
父親のものではない、彼の命を生きさせる為に。
自分は死ねない。死ぬつもりもない。
「俺はフランソワのところへ戻る。おい、戻り方を教えろ、メフィストフェレス!」
「そのことだがな、アシュラ・シャイタン。ものは相談だが……」
居丈高だったメフィストフェレスが、妙に下手に出た。
「あの子の魂を、俺に譲ってはくれまいか。そうしたら、即座にお前を、安らかな死へと、導いてやる」
「……は?」
言っている意味がわからなかった。
「だから、あの無垢な魂を、俺にくれ。そしたら、お礼に、お前を人並みに死なせて……」
「断る」
みなまで言わせず、アシュラは即答した。
「殿下は、魔王になるとおっしゃった。魔王には、部下が必要だ」
「何か勘違いしてないか? お前は、下等な使い魔に過ぎないんだぞ?」
「それでもいい! 俺は彼に、忠誠を誓った。永遠の忠誠を」
「だがなあ。俺は気づいてしまったからなあ。……あれは、うまいと。あの子にも言ったが、俺は、あの瑞々しい魂を、諦めるつもりはない」
アシュラはぎょっとした。
「メフィスト、お前、彼に会ったのか?」
「なに、ちょっとたぶらかしに行っただけだ」
「なんてことを!」
怒りのあまりわめき出しそうになったアシュラを、メフィストは制した。
「安心しろ。まだ、手は出していない。だが、彼と話して、俺は、不安になった」
心配そうな表情を、悪魔は、満面に浮かべた。ひどく大袈裟で、もったいぶっている。
「果たして彼は、魔王にふさわしいのかな?」
力いっぱい、アシュラは叫んだ。
「ふさわしいに決まってる。
訝しげに、メフィストは首を傾げてみせる。
「あの子は、自ら死のうとしてるぞ」
あまりの言い草に、アシュラは笑い出した。
「お前はフランソワを知らなすぎる。自殺なんて、彼に限って、それだけは、ありえない!」
「そうかあ?」
「そうだ!」
「だが、あの医者だって言ってたじゃないか。全てはあの子自身のせいだって。無理ばかり重ね、自分の体を痛めつけてきたんだって。なぜ、そこまでする必要がある? つまり、それは……」
「うるさいうるさいうるさい!」
アシュラは喚いた。
「軍務は、彼にとって、最も神聖な任務なんだ!」
「ふうん」
メフィストフェレスは納得していないようだった。
首を傾げ、不敵に笑った。
「ならば、その目で確かめてくるがよかろう」
アシュラの手に、軽く触れた。
その瞬間、電流が流れたような痺れを感じた。アシュラの体は、まるで紙切れのように、空の高みに舞い上がった。
「さあ、行くがいい。人の世に戻って、真実を確かめるがいい」
メフィストフェレスの声に煽られるようにして、体が宙返る。
「だが、最初に言っておく。いずれにせよ、俺は、純粋で、水気たっぷりの、おいしい魂を、諦めるつもりは、毛頭、ない!」
ぐるりと世界が回転する。
折からの強風に吹き上げられ、アシュラは、天高く舞い上がり……、
……堕ちていった。
*
ディートリヒシュタインが、宮殿に訪ねてきた。教え子が、葬儀パレードを退席したと、どこからか、聞き及んだのだ。
「大隊の指揮を、途中で投げ出されたと聞きましたぞ。強情なあなたにも、これでおわかりになったでしょうよ。なにもあなたが指揮を執らなくても、軍には、あなたの代わりなんて、いくらでもいるんですからね!」
以前の家庭教師は、ずけずけ言いながら、プリンスに近づいていった。
途中、テーブルのそばを通りかかった。
「あっ、タバコ! 止めたって言ったじゃないですか! タバコです。タバコが悪い。タバコが、あなたの喉と胸を乾燥させたんです。てっきりこれに、違いない!」
きっぱりと断言した。
亡くなったナポレオンは、煙草を好んだという。プリンスは、2歳になってすぐ、父と別れている。普通なら、ものごころがつく前の年齢だ。だが、煙草の匂いは、父の記憶と密接に結びついて、彼の心のどこかに、大切にしまわれているのかもしれない……。
そんな風に、ディートリヒシュタインは、思わないでもなかった。
なんにしてもナポレオンは、彼の大切な父親なのだ。
……自分たちは、ナポレオンの否定に躍起になってきたのだけれど。
やや、声を和らげ、かつての家庭教師は続けた。
「体を大事になさい、プリンス。しっかり休養すべきです。今回は、療養の途中で、医者から、軍務復帰をもぎ取るような真似は、なさらないでしょうね?」
「号令……。声…出ない……」
囁くような返事が返ってきた。
元家庭教師は、ソファーの上に、へたりこんでいる教え子を見つけた。疲れ果てているのか、動くことさえ、ままならないでいる。悪寒に震え、それなのに、ひどい汗だ。
「プリンス!」
ディートリヒシュタインは、うろたえた。
彼はフランソワを立たせ、暖かいベッドに連れて行った。
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