マルファッティの診断
「もう、無理です。これ以上、ライヒシュタット公の結核を隠し通すことはできません。そろそろ、彼の病は、結核だと、公にしなければ」
ランシュトラーゼにあるメッテルニヒの邸宅を訪れ、マルファッティは、訴えた。
太巻きにした葉巻を、メッテルニヒは、灰皿に置いた。
……「
以前、メッテルニヒはマルファッティに命じた。
だが、宰相は、プリンスの病が、
「プリンスを結核だと診断して、どうしろというのだ?」
煙草の煙が沁みたのだろうか。目を細め、メッテルニヒが尋ねる。
ここぞとばかり、マルファッティはまくしたてた。
「プリンスは、イタリアへ療養に行くべきです。暖かいナポリなら、結核を癒やすのに、大きな効果があるでしょう」
「ほら、そうくる」
だん、と、メッテルニヒは机を叩いた。
「それが困るのだ。ナポレオンの息子を、ウィーンの外へ出すなどと」
言いかけて、首を傾げた。
「ナポリ? なぜ、ナポリなのだ?」
マルファッティは冷や汗をかいた。
アシュラ……あの黒髪の青年の指示だと、明かす訳にはいかない。メッテルニヒの関与を、彼に漏らしてしまったからだ。
しどろもどろと、マルファッティは答えた。
「イタリアがだめなら、イシュルでも」
「温泉地か。そっちは、まあ、考えておこう」
メッテルニヒは、特に疑いを抱かなかったようだ。
密かに、マルファッティは、安堵の吐息を漏らした。
勧められた葉巻を手に取り、話を繋げる。
「実は、ディートリヒシュタイン伯爵から、きつい叱責を頂きまして」
「その話なら聞いた」
メッテルニヒは、くすりと笑った。
「あの伯爵の言うには、貴殿は、臆病風に吹かれて、楽観的な診断をしているのだそうだな。プリンスの不興を買うのが怖くて、乗馬や外出を許している、とか」
「とんでもありません」
マルファッティは不愉快だった。
この自分が、あんな年若い青年の言うなりになっている?
名医と謳われた自分が?
「ディートリヒシュタイン伯爵は、おせっかいなのです。医学の知識が全然ないにもかかわらず、ひたすら、プリンスの病が重篤だと騒ぎ立てていらっしゃる。寝てばかりでは、患者は、憂鬱性に陥りがちだ。心の鬱は、時に、体をも殺すことがあります。その危険を回避する為に、外出を許可しているのです」
「なんだ。私はまた、てっきり……」
意味ありげに、メッテルニヒは言葉を切った。
マルファッティは、眦を釣り上げた。
「てっきり、なんです?」
薄く、メッテルニヒは笑った。
「貴殿が先走ったと思ったのだ。私の意を汲んで、ナポレオンの息子を葬ろうとしている、と」
そんなことするわけがないではないか、と、マルファッティは思った。
殺せというも同然の指示を出したり、かと思うと、政治的に必要になったから、なんとしても生かしておけと言ったり……。
ころころ変わる宰相の指令には、うんざりだ。
今に至ってもまだ、あのプリンスは、諦めていない。
回復しようとする必死の努力が、医師には、痛いほど伝わってきた。
できることなら、なんとか、助けたい。
だが、現代の医学では、限界だった。転地療法以外に、何ができるというのか。
マルファッティは、訴えた。
「ディートリヒシュタイン伯爵が吐き散らしておられるような、根拠のない悪口が広がっていくことを、私は恐れています」
「誤診だと疑われるのが、怖いのだな?」
ずばり、メッテルニヒが核心を衝いた。
何を遠慮することがあろう、マルファッティは思った。
なりふりかまわず、彼は言い立てた。
「この上、他の医者が、彼が結核だと診断するようなことがあれば、医師としての、私の名誉にかかわります。悪い噂が立ち、医院を経営することができなくなってしまいます」
アシュラの脅しが、マルファッティは気がかりだった。
彼は、ベートーヴェンに心酔していた。
ベートーヴェンの死期を早めたことと合わせ、プリンスに対する「誤診」を、ウィーンの街中に言いふらすのではないか……。
「私が何もしなかったとでも? 貴殿の為に」
メッテルニヒが口を歪めた。
「ライヒシュタット公の担当医になってからだろう? 貴殿の医院に、客が押し寄せるようになったのは」
確かに、その通りだった。
遡れば、ウィーン会議の折、カール大公や、ベアトリーチェ大公女の推薦で、マルファッティの医院は、繁盛していた。会議に訪れた、各国の王や大使らで、医院の前には、行列ができていたものだ。
しかし、どこからともなく、昔の噂が漏れてきた。
まだ、ごく若かった頃、マルファッティは、
メソリズムとは、体内の磁気を整え、回復を促す療法である。具体的には、患部に手を翳し、磁気を整える。
一種の催眠療法である。
これが、インチキだと、訴訟沙汰になったのだ。
マルファッティが、医局員だったころの話だ。
その話が、どこからか漏れ伝わったのだろう。
あれほどたくさんいた患者たちは、徐々に、減っていった。
それがこの頃、また、客足が戻ってきていた。それも、貴族や裕福な市民など、筋の良い客が多い。
「おっしゃるとおりです」
マルファッティが肯うと、宰相は、じろりと彼を見やった。
「それは、私が、あの話を広げてやったからだ」
「あの話?」
「塩の王子の話だ」
塩の王子とは、この国のプリンス、フランツ・ヨーゼフのことだ。
Fカール大公とゾフィー大公妃の間には、6年もの間、子どもが授からなかった。
マルファッティは、ハライン(岩塩鉱で有名)での塩水療法(鉱水などを飲む療法)を勧めた。だが、これは全く効果がなかった。
そこへ、同僚のヴィーラーが、イシュル温泉を見つけてきた。試しに、塩水浴を薦めたところ、ゾフィー大公妃は、見事に懐妊した……。
塩水浴がきっかけで、この世に生を受けたフランツ・ヨーゼフ(※ のちに生まれる弟たちも)は、「塩の王子」と呼ばれるようになった。
マルファッティは首を傾げた。
「イシュル温泉を見つけてきたのは、ヴィーラー医師です。飲用ではなく、塩水浴を推奨したのも彼だ」
「貴殿の功績にすればよい」
「ですから、それは、
「私が、手を回した。F・カール大公ご夫妻に、イシュルの温泉を薦めたのは、マルファッティ医師だと」
わからず屋の子どもに話すような口調だった。
あんぐりと、マルファッティの口が開いた。
メッテルニヒは、肩を竦めた。
「フランツ・ヨーゼフ大公におかれては、いずれ、この国の皇太子、否、皇帝となろうお方だ。その大公の誕生のきっかけになったのが、貴殿の助言だった。これは、医師としての貴殿の評価を、盤石のものとなすであろう」
言葉を切った。遠慮のない目でマルファッティを見やり、続けた。
「たとえ貴殿に、どのような過去があろうとも」
インチキ療法と謗られた訴訟沙汰。
ベートーヴェンの死。
カルボナリとのつながり。
冷厳な声が落ちた。
「ライヒシュタット公の治療に専念せよ。ただし、結核を悟らせてはならぬ。本人にも。対外的にも」
「御心のままに」
マルファッティは答えた。
宰相の体から、緊張が抜けるのを、マルファッティは感じた。
「他に、何か不安はあるか?」
慈悲深い声が尋ねる。
不思議なことに、あれから、アシュラからの接触はない。ペッリコのように、金をせびりに来ることもなかった。
そういえば、ペッリコも、この頃、姿を見せない。
アシュラもペッリコも、まるで、ウィーンの街に呑まれたように、姿を消してしまっている。
目障りな人間が、ふたりとも。
まるで神の恩寵のように。
「万事、順調でございます」
メッテルニヒは、満足そうに頷いた。
*
ジーゲンタール将軍の葬儀から、半月が過ぎた。
2月に入ると、さしもの熱も治まったように感じられた。咳も、殆ど出なくなっている。
彼は、相変わらず、痩せて、顔色も悪かったのだけれども。
1月も終わる頃、ライヒシュタット公の主治医、マルファッティは、患者はすっかり癒えたと、診断した。
医師は依然、患部は肝臓であり、肺や呼吸気管ではないと、主張していた。パルマのマリー・ルイーゼにも、患者は回復期に入ったと書き送っている。
ライヒシュタット公は、さっそく、ハルトマン将軍と、馬車で出掛けた。
帰ってきて、再び、発熱した。悪寒に震え、咳もひどくなった。
再び、部屋に閉じ込められ、彼は、パルマの母に手紙を書いた。
「
このような短い手紙で、また、字が震え、お許しください。僕はまだ、体が弱っています。ベッドの中で6日間も暮らし、ようやく快方に向かっています。ひどい熱は和らぎましたが、悪寒の発作が毎晩襲ってきて、ぐったりしています。今まで感じたこともないような疲労を感じます。この発作が、いつか治まることを願っています。ありとあらゆる忍耐をかき集め、辛抱強く、勝利を勝ち取るしかありません。
(中略)
ゆうべ、お母様の夢をみました。お母様は、白いペティコート姿で、シェーンブルン宮殿へおいででした。お母様は僕の手を握り、僕は、泣きました。お母様は僕にキスをして下さり、僕はまた、泣きました。涙の奔流の中、僕は目を覚ましました。
その日から、お母様の身に何かあったのではないかという、不吉な考えが、僕の頭から離れません。
お母様からのお手紙が、待ちきれません。手紙を頂きさえすれば、自分がどんなに迷信深いかが、証明されるでしょう。
」
*
……この熱は、断続的な発熱だ。胸からくる可能性もないわけではないが、恐らく違うだろう。
マルファッティは述べた。
この診断により、ライヒシュタット公は、回復、または回復の途上にあると、宮廷の人々は思った。
ディートリヒシュタインでさえ、熱はいずれ治まると信じていた。
*
果たして、フランソワは、今一度、平熱に戻った。咳は残ったが、悪寒の発作は減った。食欲さえも、戻ってきたように思われた。
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