エンツォ王、二冠をひとつの頭に
終演の鐘が鳴ると、観客達は、一斉に立ち上がった。
演劇の余韻冷めやらぬまま、出口へ向けて、移動を始める。
皇帝は、一足先に、席を立っていた。出口が込み合う前に、馬車に乗らなければならない。
「『エンツォ王』は、なかなかの悲劇だったな」
傍らの孫に話しかける。
「涙が出ました。一粒か二粒」
孫が答えた。
「一粒か二粒!」
皇帝は吹き出した。
「ラウパッチの悲劇も、若い者には、そんなものか!」
(※エンツォ王につきましては、この章の「エンツォ王の悲劇」末尾に、解説がございます)
絨毯の敷かれた長い廊下を、二人は並んで歩いていく。
去年、コレラが治まってホーフブルク宮殿に戻ってきてから、皇帝は、孫と、4回、狩りに出掛けた。孫は、全くいつもと同じに見えた。相変わらず、射撃が下手で、周囲の人の肝を冷やしてばかりいた。
ジーゲンタール将軍の葬儀から、体調を崩していたことは、もちろん、皇帝も知っていた。
医師の診断は、いつもと同じだった。季節の変わり目に、孫が風邪をひくのは、子どもの頃からだった。
フランツはまだ、成長の途中にあるのだと、皇帝は思った。だから、体調が不安定なのだ。
だが、こうして医師の許可も下り、観劇も許された。
ライヒシュタット公はもう、普通に生活をしていると、軍の付き人、ハルトマン将軍からも報告があった。実際、孫は、いつもと変わりなく、皇帝の目に映った。
ラウパッチの悲劇「エンツォ王」観劇は、孫からの誘いだった。この劇は、封切られたばかりで、まだ、評価も定まっていなかった。
「ボローニャの獄に囚われなかったら、エンツォは、どうしたと思いますか?」
歩きながら、孫が尋ねた。
「もちろん、父フェデリーコを諌め、ローマ教皇との和解の道を辿ったであろう。神の代理人である教皇は、至高の存在なのだ」
祖父の皇帝は即答した。
少し考えてから、尋ねた。
「お前はどう思う、フランツ」
「エンツォは……」
孫の声が掠れた。だが、彼は続けた。
「文武に優れた彼なら、きっと、イタリアを統一したことでしょう。その後、彼はドイツに戻り、神聖ローマ皇帝を名乗ったことでしょう」
「イタリアを統一し、ドイツに?」
「ええ。父フェデリーコ亡き後、エンツォは、イタリアとドイツ、2つの冠を、己が頭上に戴いたと思います。彼は、そうすべきなのです」
「2冠をひとつに……?」
皇帝は、ぎょっとした。
「そのような考えを、フランツ。お前、どこで聞きかじったのだ?」
孫は、首を傾げた。
子どもの頃と同じ、淡さの目立つ青い瞳で、皇帝を見つめる。
その青が、突然、鋼色に変じて見えた。全く知らないふたつの瞳が、鋼球のように輝きながら、皇帝の目を射すくめる。
初めて皇帝は、エンツォ王と、孫の、相似に思い至った。
ボローニャの監獄に囚われたままのエンツォ王。
ウィーン宮廷から出ることの許されない孫。
強大な権力を持つ、父王フランツェスコは、ローマ教皇により、破門された。
ナポレオンも、教皇領を併合し、ピウス7世により、破門されている。
父、フランツェスコ2世に、最も自分と似ていると言わしめたエンツォ王。
そして、ナポレオンの期待と希望を一身に集めた……。
……2冠をひとつに?
だがそれは、教皇に歯向かう行為だ。
神に逆らうも同じだ。
見知らぬ瞳を強く煌めかせ、孫は言った。
「王位は、重要ではありません。大切なのは、民の意思です」
皇帝は、答える言葉を持たなかった。
慄然として、皇帝は、孫の瞳を見つめ続けた。
……。
*
メッテルニヒが、皇帝の元を訪れた。
いつものように、政務の報告をする。
皇帝は、どこか、上の空だった。机の上の書類にも、いつもほど、書き込みはない。
「君は、あの件をどう思うだろうか、クレメンス」
メッテルニヒの報告が終わると、皇帝は尋ねた。
「あの件と申されますと?」
「いつかの狩りの時、フランツの撃った弾が、
「ああ」
その話は、メッテルニヒも聞いたことがあった。
だがそれは、事故ということで片付いたはずだ。
フェルディナンド大公、ライヒシュタット公とも、側で見ていた者は、大勢いた。第一、ライヒシュタット公の射撃の腕は、最悪だ。狙おうと思って狙えるとは、思えない。
「本当に事故だと思うか、君は」
重ねて皇帝が、尋ねた。
メッテルニヒは、唖然とした。
「事故以外の、何だとおっしゃるのです? よもやライヒシュタット公が、フェルディナンド大公を害そうとした、とでも?」
「一人では何もできない子だが、到底、一国の王にふさわしいとは思えぬが、だが、クレメンス(メッテルニヒ)」
皇帝は、メッテルニヒをじっと見つめた。
「わしは、フェルディナンドが愛しい。愛しいのだよ」
「孫よりも、子が愛しいのは、当然のことです」
宥めるように、メッテルニヒは言った。
確かに、皇帝の娘を二人も、よその国に売った。
ウィーン会議では、多額の饗応費を皇帝に押し付け、自分がヨーロッパの再分配を断行した。
だが、王権神授の信奉者として、メッテルニヒは、一度たりとも、皇帝を裏切ったことはない。
老境に入り、このように、悲しそうな君主を見るのは、メッテルニヒには、耐えられないことだった。
「私は、反対した」
ぽつりと皇帝は言った。
「だが、君は正しかったのかもしれんな、クレメンス。どのような教育を施しても、悪い血は、決して、消されることがないのかもしれない」
それが何を意味するのか、皇帝は言わなかった。
メッテルニヒも、尋ねなかった。
重苦しい沈黙が、主従の上に、立ち込めていた。
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