Guten Abend!(下がれ!)


 3月18日(19日とも)。

 いつものように、ライヒシュタット公は、馬に乗って出掛けた。

 彼は、乗馬が好きだった。また、優れた乗り手でもあった。


 春とはとても思えない、寒い日だった。湿度も高かった。


 今日の付き人は、ハルトマンだった。

 この寒さにも関わらず、ハルトマンは、ぐっしょりと汗をかいていた。

 彼は、プリンスの馬についていくのが、やっとだった。


 ……どこがご病気なのだ。

 ハルトマンは、心の中で舌打ちした。

 ……病人とは、ベッドの中でおとなしくしているものだ。


 ハルトマンの心の声が聞こえたのだろうか。

 先を行く馬の上で、プリンスが振り返った。

 疲弊しきったハルトマンを見て、にやりと笑った。


 次の瞬間、プリンスの鞭が大きく空気を切り裂いた。

 鞭の音を聞いただけで、彼の馬は、疾駆し始めた。


 素晴らしい速さだった。

 ハルトマンにはついていくことができない。


 白馬に乗った貴公子が、黄金の髪を靡かせ、天翔けるがごとく、駆けていく。

 遥かに遅れ、ハルトマンは、死ぬ思いで、その後を追いかけた。




 やっとのことでホーフブルクまで、プリンスを追いかけてきた。

 なんとか、視界の端に白馬を捕らえ、ハルトマンもまた、城までたどり着いた。


 とにもかくにも、ハルトマンは、プリンスの付添いに成功した。彼に、怪しげな人物が接触せぬよう、見張りの役だけは、果たした。

 だが、ハルトマンはもう、疲れ切っていた。正直、体を動かすことさえ、大義だった。将軍は、転がり落ちるように、馬から下りた。


 それなのに、城に戻ったプリンスは、すぐにまた、馬車で外出すると言い出した。



 「俺はもうダメだ。モルかスタンはいないのか」

 ハルトマンは、二人の部下の名をあげた。

 だが生憎と、二人は非番で、城にいなかった。


 3人の軍人の他に、アルゴス見張りの任を担った者はいない。

 プリンスを護衛する……見張る……役目の者は。


 かろうじてハルトマンは、御者に同行を命じた。







 突然、馬車を用意せよと言われ、馬丁は慌てた。

 繰り返される外出のせいで、馬車は、点検の必要があった。幸い、ここのところ、ライヒシュタット公は、乗馬をすることが多かった。それで、車庫にあったほぼ全ての馬車の車輪を外し、点検・修理を始めてしまっていた。



 侍従が、急かす。

「殿下は、黒塗りのワゴンをご所望だ」

「ご覧の通り、整備中なんだよ」

 馬丁は困り果てた。


 その時、彼の目に、車置き場の隅に置かれた、埃を被ったギグ(1頭立ての軽装2輪馬車)が映った。

 去年の春、ライヒシュタット公が借金までして買った、最新流行のモデルである。


 あの頃、彼は、連隊司令官任官を間近に控え、希望に燃えていた。

 独立と解放の象徴だったのだ。彼が新たに買い入れた馬達と、このギグは。


 ……あれからまだ、1年しか経っていないのか。

 そのことに思い至り、馬丁は、呆然と立ちすくんでしまった。



 「おい、早くしろ」

苛ついた侍従の声に、はっと我に返った。反射的に応じる。

「ギグでいいか?」

 幸い、ギグの乗車部分は、黒塗りだった。

「とにかく急げとの仰せだ。この際、何だって構わない」

 馬丁はさっそく、ギグを、馬に繋いだ。





 ……随分使っていなかったが、手入れはしてある。あれは、いい馬車だ。

 主を乗せた馬車を、馬丁は見送った。

 ……マルファッティ医師の紹介状を持った男も、褒めていた。


 その男は、馬車職人だった。

 病人に快適な、軽量馬車の研究をしているという。

 その縁で、マルファッティ医師の知己を得たのだそうだ。


 ……軽症患者なら、外出する自由があってもいいはずです。

 男は主張した。

 ……他の人を外に出られないようでは、外出する気も失せてしまうでしょう。


 馬丁は、文字が読めた。

 紹介状は、ちゃんとしたものだった。マルファッティ医師のサインも、本物だった。


 主を見送り、ふと、その時のことを思い出した。

 ギグは、軽快に、石畳の道を走り去っていった。





 出掛けた時間は、すでに、夕刻だった。

 馬車が、プラーター自然公園の辺りに差し掛かった時、ちょうど、日没が訪れた。


 馬車は、無蓋だった。

 夜に入って、なお一層、冷えてきた。

 突如、馬車の車輪が外れた。


 ギグ本来のスピードが出ていたら、大惨事になっていたことだろう。

 幸い、それほどのスピードは出ていなかった。大きく傾いで、ギグは、止まった。フランソワにも、馬丁にも、怪我はなかった。


 しかし、車輪の修理は不可能だった。

 フランソワは、歩いて帰らねばならなかった。



 冷たい、霧雨混じりの風が、ドナウ川からの湿気った空気に運ばれて、街を覆っていた。



 途中、フランソワは、膝をついて、座り込んでしまった。

 皇族であるのに、道端で、姿勢を低くし、へたりこんでしまったのだ。

 人通りはなかった。暗く寒い夜が、始まろうとしていた。

 彼は再び立ち上がり、歩き始めた。


 城に帰り着いたフランソワは、高熱を発した。

 新たな発作が始まった。

 その日から、左の耳が聞こえなくなった。







 誰かが、フランソワの傍らで啜り泣いている。ベッドの側にひざまずき、悲痛な声を絞り出している。


「殿下。殿下。お許しください。あのカルボナリは危険だって、わかっていたんだ。それなのに俺は、あいつを道連れにするのが、やっとだった。あいつの仕掛けた罠を、どうすることもできなかった。殿下は、みすみす、車輪を壊された馬車に乗って、……ああ! なんで、馬車で外出しようとなんか、思ったんです? 午前中に一度、乗馬に出たじゃないですか! しかも、あんなに寒い日の夕暮れに……。いや。殿下のせいじゃない。悪いのは、俺だ。俺がもう少し、ちゃんとしてたら……もう少し、思慮深く、行動できていたら!」


声が一段と高くなる。


「俺は本当に、ダメなやつだ。最後のツメが甘いんだ。フランス土産のステッキは途中で壊しちゃうし、譲ったつもりの女の子は、他の野郎と結婚しちまうし……」


 泣き声が止んだ。


「俺がダメなのは、最初からわかっていた。耐えられないのは……。殿下。メフィストフェレスが意地悪を言うんです。ひどい侮辱を……」


 身も世もあらぬという響きをまとい、声は問うた。


「なぜ、そんな風に、お体を酷使なさるんです? 殿下。あなたは、自ら、死のうとなさってるんですか?」




 ……違うよ。

 ……僕は、フランスへ行くんだよ。

 ……どこへ行っても見張りがついて、これじゃ、何もできやしない。イタリア統一なんて、夢のまた夢だ。

 ……でも、今なら。

 ……スイスの城で、叔母と従姉が待っててくれるんだ。


 ……従姉エリザ・ナポレオーネは、僕の顔を知っている、金のゆりかごを持っていかなくても、僕だって、わかってくれる。

 ……もうすぐ、国境が閉まるから。誕生日を過ぎたら、黒塗りの馬車で行っても、通してもらえない。

(※ 10章「気がかり」参照下さい)


 ……だから、午前中のうちに、ハルトマンを置いてけぼりにしてやったのさ。お前、見てたか? すごかっただろ、僕。




 ぽっかりと、プリンスは目を開けた。

「お目覚めですか?」

 ベッドの右側で、抑制された声が聞こえた。


「……アシュラ?」

「違います。モルです」

「……」

「ご気分はいかがです、殿下。お熱は……」


 モルの手が伸びてきた。額に触れようとする。

 プリンスの顔が強張った。


「Guten Abend, Moll」(こんばんは、モル)」

「……」


伸びてきた手が引っ込んだ。


「下がれ」

「ですが……」

Guten Abendグーテン・アーベント……Bonne soiréeボン・ソワレ, Moll!(ごきげんよう、モル!)」」



 フランス語の「Bonne soiréeボン・ソワレ(ごきげんよう)」は、会った時の挨拶の他、別れ際にも用いられる。

 しかし、フランス語の単語を、ドイツ語に置き換えた「Guten Abendグーテン・アーベント」(良い夜)」は、こんばんは、の挨拶にしか用いられない。


 ドイツ語の「Guten Abend」に、フランス語の意味を持たせて使うことが、いつの間にか、上官とモルの決まりごとになっていた。モルを下がらせたい時の、プリンスの合図だ。


 宮殿の侍従ら、他の従者たちは、フランス語を解さない。

 プリンスから、”Guten Abend(こんばんは)”と言われ、粛々と御前を去る軍の部下モルを、不思議そうに見ているだけだ。


 プリンスの謎掛けがわかるのは、自分だけ。

 いつもなら、これが、モルの密かな自慢だったのだが……。


 

「僕を見下ろすな」

 起き上がる体力がないのか、プリンスは、横たわったままだ。

「Guten Abend!」

 きつい声で、彼は、モルに退出を命じた。

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