フランツ・ヨーゼフが捧げた椿


 その頃、カール大公は、久々に、テシェンの所領から、ウィーンに出てきていた。

 3月20日は、ライヒシュタット公の誕生日だ。


 ……もう、21歳になるのだな。


 彼に、軍務を手ほどきした日々を思い出し、カールは、感慨深かった。任官の暁には、ナッサウ公の連隊へ送りたかった。ナッサウ公は、亡くなった妻、ヘンリエッテの兄である。実際の軍務に就いてからも、義兄ナッサウ公とともに、フランツを見守りたかったのだ。


 ……それは、叶わなかったけれども。


 フランツは、ウィーン配属になった。あるいはそれも、メッテルニヒの思惑なのだろうか。


 いずれにしろ、フランツは、立派な軍人になるだろう。彼なら、第二のオイゲン公として、この国を守ってくれるだろう。

 カールは、そう、信じていた。





 ホーフブルク宮殿では、ちょうど、F・カールの妻、ゾフィー大公妃が、よちよち歩きの小さな息子と共に、フランツの部屋へ向かうところだった。


 「順調のようだね」

ゆったりとしたドレス姿のゾフィーに、カールは目を細めた。

「おかげさまで」

 幸せそうに、ゾフィーは笑った。


 彼女の息子は、目にも鮮やかな赤い花を手にしていた。肉厚な花弁が、幼子の歩みに合わせ、ふるふると震えている。

「その花は?」

「キャッ!」

カールが尋ねると、フランツ・ヨーゼフが答えた。


「この子から、ライヒシュタット公へのプレゼントですの」

微笑みながら、ゾフィーが説明した。

「アントン(皇帝・カールらの弟)が託したんだね?」

カールが尋ねると、ゾフィーは目を瞠った。

「まあ! よくおわかりですね」

「珍しい花だからね。大輪で色が鮮やかで、アントンの好きそうな花だ」



 アントン大公は、園芸が趣味だ。ロンバルド=ヴェネト王国副王退任後は、シェーンブルンで植物を育てている。



 ゾフィーが、もじもじしている。

「困りましたわ。アントン大公からは、この花を、ご自分が託されたことは、フランツルには内緒にしてくれるよう、頼まれておりましたのに」

「それじゃ、私も黙っていよう」

 カールは微笑んだ。



 皇帝の年若い二人の弟……アントンとルードヴィヒは、なにかにつけ、皇帝長兄の孫・フランツに、冷たく当たってきた。


 周囲の目には、そう映っている。


 二人とも、妻帯はしていない。子どももいない。

 多分、そのせいだろう。年若い者と、どう接したらいいのか、わからないのだ。

 そう、カールは理解していた。

 カール自身も、結婚は、44歳の時だった。彼らの気持ちは、よくわかる。


 特に下の弟、ルードヴィヒは、皇族の管理監督を任されている。若い者に対して、甘い顔はできない。


 アントンにしても、せいぜいが、自分の丹精した花の鑑賞会に呼ぶくらいしか、フランツに対して、好意を示すことができない。フランツは、去年も、アントンの育てたポピーの花の鑑賞会に駆り出されていた。

 しかし年上の親族の呼び出しは、若いものにとっては、迷惑な話でもあるのだ。



 「せっかくの誕生祝いだ。アントンとルードヴィヒも誘って行こう」

 カールが言うと、一瞬、ゾフィー大公妃の眉間に皺が寄った。


 どうやら、カールの二人の弟は、年若い甥夫妻にも、よく思われていないようだった。

 まあ、F・カールは、下品で名高いので、それもわからないでもないが……。


 現れた眉間の皺は、一瞬で消えた。言い訳のように、ゾフィーがつぶやく。

 「実は、フランツルの具合が、少し悪くて」

「フランツが?」



 軍務を休んでいることは、カールも聞いていた。昔から、季節の変わり目になると、彼は、体調を崩しがちだった。


 いつかの夏、フランツが、ひどく体調を崩したことがあった。その時、彼は、毒を盛られたのだと言ってきた者があった。

 モーリツ・エステルハージ……去年、ナポリへ配属になった、エステルハージ家の息子だ。


 モーリツは、フランス・ブルボン家の、皇太子妃の関与を仄めかした。

 アングレーム公妃(※)、マリー・テレーズの。


 緑の皿、とか、肉料理のソースが目印とか、彼は、口走っていた。


 カールは、信じなかった。


 あのマリー・テレーズ従妹が、フランツに毒を送るとは、考えられなかった。

 彼は、ナポレオンの息子であったけれども。

 そして彼女は、フランス革命の後継者を、全存在をかけて、憎んでいるのだけれども。


 だが、それは逆だと、カールは思う。

 マリー・テレーズは、フランツの敵などではない。否、彼女ほど、フランツの孤独を理解できる者はいない。

 フランスとオーストリアの間で思い悩む、フランツの。


 できることなら、従妹マリー・テレーズを、フランツに会わせてみたかった。

 彼女はどのような助言を、彼にするだろう。


 やはり、フランスを選ぶように、言うのだろうか。彼女自身がフランスアングレーム公を選んだように。



 2年前、7月革命で、ブルボン復古王朝は、フランスを追われた。一家は今、スコットランドの片田舎にいるという。


 ……パリで殺されなかったことだけが心残りだ。

 アングレーム公がこう豪語していると、伝わってきた。


 ブルボン家がイギリスに渡ってすぐ、彼らを保護してくれたウェリントン卿が失脚した。新しく政権を握ったホイッグ党は、国王に難題を突きつけている。フランスの亡命王朝ブルボン家は、イギリスに長居はできないだろう。


 ただでさえ、雨の多いスコットランドの気候が、フランス王家の人々には合うはずがない。


 ……それなのに、なぜ、彼女は、オーストリアに帰ってこないのだろう。


 叔母マリー・アントワネットを救えなかった兄の皇帝オーストリア皇帝は、今度こそ喜んで、彼らを保護すると言っている。


 ……ナポレオンの息子がいるから?



 「……、……」

ゾフィー大公妃が、何か言っている。

「……お医者様は、大したことはないとおっしゃるんです。カタルの症状が、残っているだけだと。フランツルは、まだ、成長期の途中なんですって」

くすりと笑った。

「信頼できる医師ですわ。マルファッティ先生とおっしゃって、わたくしの、主任医師でもあるんです。次の赤ちゃんも、マルファッティ先生に取り上げて頂くことになっています」

膨らみかけたお腹に、そっと手をおいた。


「マルファッティ医師なら、安心だ」

カールの耳が、その名を拾い上げた。



 軍を退いた頃、カールは、マルファッティの診療を受けた。おかげで、彼のちょっとした不快は、癒えた気がする。

 エステ家のベアトリーチェ大公女もまた、治療を受けていた。彼女は、マルファッティ医師を、絶賛していた。



 カールがその話をすると、ゾフィーは喜んだ。

「そんな名医でしたのね。私が子どもを授かったのも、マルファッティ先生がイシュルの温泉を薦めてくれたおかげですし」

筆で刷いたようなきれいな眉を、微妙に歪めた。

F・カールは、ディートリヒシュタイン先生の腰痛治療に倣ったんだ、と申しておりましたが」


 腰痛と懐妊は関係なかろうと、カールは思った。あの甥F・カールは、下品なだけでなく、素っ頓狂なことも言う。


「マルファッティは、外国からの賓客にも人気があったよ。ウィーン会議が開かれた頃は、国王や大使らが、マルファッティの医院の前に、長い行列を作ったものだ」

「カール大公がおっしゃるのですから。マルファッティ先生には、安心して、フランツルを任せられますわ」

素直に、ゾフィーは、そう言った。







 アントン、ルードヴィヒ両大公を伴って、一同は、ライヒシュタット公の部屋を訪れた。


 ゾフィーが訪問を予告していたので、フランツは、きちんと着替え、椅子に座っていた。

 こころなしか、顔色が悪かった。また、声も低い。だが、それ以外は、元気そうに見えた。


「アバ!」

フランツ・ヨーゼフが叫んで、赤い花を、大好きな従兄に捧げた。


 隅の方で、アントン大公が、もじもじしている。

 息子と甥、大好きな二人が一緒にいるのを見て、ゾフィーは、とても嬉しそうだった。


「珍しい花を、ありがとう」

 掠れた声で言って、ライヒシュタット公は、椿を受け取った。








・~・~・~・~・~・~・~・


ブルボン家のシャルル10世の息子、アングレーム公は、7月革命でフランスを追われてから、ポンティユー伯爵を名乗っています。ですが、このお話では、アングレーム公で通すことに致します。

彼の妻、マリー・テレーズ(マリー・アントワネットの娘)も、アングレーム公妃のままでまいります。




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